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┏┏┏ 今日の一冊 ┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏┏
『新書・江戸時代?貧農史観を見直す』佐藤常雄・大石慎三郎(講談社現代新書)
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現代の私たちがイメージする江戸時代の農民の姿は、五公五民ないしは六公四
民というきわめて重い税を課せられ、飢饉にあえぎ、戦争もなく平穏であった江
戸時代の中においても、旗を立てて一揆を繰り返す「貧しき農民たち」である。
ご承知のとおり、これは、学校教育で語られている江戸時代像である。
本書では、この「貧しき農民たち」のイメージを諸データを基に江戸期の「農
民貧窮史観」を覆す。
まず、重要視しなければならないのは、領主に隷属していると思われている農
民たちは、かなりの自主性、主体性を有していたことである。戦国時代から江戸
時代初頭にかけて、兵農分離・商工農分離によって在地領主制が否定されたこと
は、原則として支配者である武士と被支配者として物資の流通・加工業に従事し
た工商民を城下町に、被支配者として農林漁業の生産活動に従事した農民をムラ
にそれぞれ集住させることになり、身分による居住地の空間分離を実現させた。
つまり、江戸時代の農村には、原則として武士は存在していなかったのである。
そのため、武士の存在しないムラの中で、村方三役といわれる村役人のもと自治
を行っていたのである。また、村役人の選出はムラで実施するが、幕藩領主はそ
れを認定するのみで、村役人の選出には介入しないことを原則としていた。
では、江戸時代における在来農法の生産力水準はどうか。江戸時代中期〜明治
初頭と昭和33年〜52年の一坪当たりの収穫量を比較してみると、1:1.5〜
1:1.8ほどであり、近代に入ってもそれほど劇的な増加は見られず、江戸時代の
在来農法も決して近代のものに見劣りするものではないのである。
江戸時代において、稲の品種改良が盛んになされており、人糞、魚肥、灰、油
粕、糠など様々なものを肥料として使っていた。鯨油で害虫退治もしており、こ
れは、今の農薬にあたる。また、知的水準の高さを示す農書も日本全国で作られ
ていたというから今の農業の原型が江戸時代にすでにできていたと言っても過言
ではない。
ここで問題となってくるのは、農民たちは重い税に苦しんでいたのだろうかと
いうことである。ごく簡単に見積もってみても、幕府の享保元年(1716年)から
天保12年(1841年)までの年貢率を見れば、幕領四百万石のうち年貢米が百五十
万石前後であり、年貢率は30%から40%になる。
幕藩領主の検地は原則として17世紀までに終了しているから、十八、九世紀に
おいては制度上では村高(石高はムラ単位で計算されていた)が一定となってし
まうのである。さらに重要なことに、農業生産の実態、つまり検地以降の土地生
産性の上昇、収益性の高い商品作物の導入、農業加工の進展、農民の賃銀収入な
どといった経済条件が、この「村高」には反映しないのである。
実際の年貢率は10%〜20%であったと筆者は結論付けている。
そして、飢饉問題は江戸時代の農業生産力が問題なのではなく、幕藩領主の支配
領域が錯綜していたことにあると指摘する。つまり、幕藩領主の農民救済策や海
外への穀物の移出を禁じた津留などの制度上の側面、さらには輸送手段の不備、
情報不足などといった農作物流通のあり方に求められるのである。
江戸時代の農民の実像は、私たちの想像からはるかに乖離したものである。そ
の原因は何かということも、本書は言及している。それは、集めた資料に著しい
偏向があったというものである。ところで資料を集めた歴史家の偏向はどうか。
そのことは本書には書かれていない。
ともかく、江戸時代の農民はさすがご先祖様と思うほど、努力し先進的な農業
を営んでいたのであり、私たちは繁栄していた江戸時代を誇って良いのである。
(鈴木)
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