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母防門局 児島宮頼任親王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年12月27日(土)11時59分14秒
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  防門家との拘わり
それが宮家(平山)の血である。 血縁がないのに、使うのはすべてが、偽物となる。 宮家
(平山)との関係血縁氏防門家南北朝石清水八幡家東郷 ..... この宇都宮氏は紀氏となっ
ていて、河野通清は石清水八幡宮の神官となっていて、宇佐との拘わりが見える。

「母防門局 子息児島宮頼任親王」
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=kojima&dd=22&p=1
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
正室:石束毎公の娘・りく
佐々清蔵の子信濃守休西(奈良興福寺僧)ー娘快楽院ー大石理玖


【児島】高徳─【三宅】高光─正綱─正光─ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴(盛光改め)ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成 へと続く。

佐久間九郎左衛門「全孝」は近衛中将助安の嫡男であり、この先祖は、皇孫後鳥羽院にあたる。

南北朝期から、戦国時代には前近衛中将助安と言う公家出身の人の位牌が鹿島山法寿院にある。

宮家正成という人が、創建されたもので、この地は以前は、松峡宮とか、筑紫宮とか、呼ばれていました、前田の地名は菅原道真公のご先祖前田臣市成、という人が、この地を治められていたそうです。
http://search-web.yoka-yoka.jp/cgi-bin/search?query=%E5%89%8D%E7%94%B0&sort=d&site=yoka-yoka.jp
宮家正成父佐久間不干斎信栄の父佐久間信盛の女は姉が狩野孝信の室になり、もう一人は佐々重蔵の室になり、その間の女は佐々清蔵弟成政に預けられ、近衛家の鷹司家にとついでいる。
その女は孝子といい、徳川家光室になている。

天文五年(1536)、佐々成政は佐々成宗の第五子として尾張(愛知県名古屋市)の比良城に生まれました。成政には兄が二人いました、そのうちの一人が、佐々清蔵で、佐久間信盛の女が佐々清蔵室に嫁いで、
岳星院(佐々清蔵室→鷹司信房室)
佐々木改め佐々、成宗子息佐々成政兄佐々清蔵の子信濃守休西ー娘快楽院ー大石理玖 へと結ばれている。

大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石内蔵助良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男浅野長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%86%85%E8%94%B5%E5%8A%A9
石束 毎公(いしづか つねよし、寛永18年(1641年) - 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代前期の武士。豊岡藩京極家の筆頭家老。忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻りく(香林院)の父親として知られる。通称は宇右衛門(うえもん)・源五兵衛(げんごべえ)。

「石束毎公」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寛永18年(1641年)、但馬国豊岡藩筆頭家老の石束源五兵衛毎術(知行1200石)の長男として誕生。名は「毎公」と書いていたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使った。「公」などとは偉そうで不敬だからであろうか。佐々信濃守休西(佐々成政の曾孫)の娘と結婚し、その間に石束宇右衛門毎明・石束主殿毎済・りくなどの子を儲けた。延宝2年(1675年)、34歳のときに父の隠居により家督相続。このとき父と同じ源五兵衛に改称し、京極家筆頭家老職を継いだ。貞享4年(1687年)にりくを赤穂藩筆頭家老大石内蔵助(知行1500石)の正室となした。

元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)の際には61歳であった。赤穂藩改易後の元禄14年(1701年)5月には大石内蔵助が遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子大石松之丞(主税良金)らを石束家に受け入れた。この際に主税に自らの脇差を与えている。7月に大石内蔵助が山科に住居を落ち着けると、りくや主税たちも山科へ移ったが、次男の大石吉之進は石束家に残っている。

松花堂昭乗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。摂津堺に生まれた昭乗は、奈良・興福寺で出家、のち石清水八幡の社僧(滝本坊住職)となっている。隠居して松花堂を名乗った

「石清水八幡宮」
木津川の近く男山にあり神仏習合時代は多数の僧坊があった。
西暦860年に宇佐神宮より八幡神を勧請して創建された。祭神は八幡大神(誉田別尊、応神天皇)、比大神(宗像三女神)、神功皇后(息長帯比賣命)。

石清水八幡と熊野路. 京都府八幡市。大阪府との府境近く、こんもりした男山の山頂にその神社があります。

石清水八幡宮は、貞観2年(860年)、奈良大安寺の僧行教(俗称紀氏)が、九州宇佐八幡の神託を受けた。

貞観元年(859年)、現在の大分県の宇佐八幡宮に籠もり修行をしていた大和大安寺の僧行
教は八幡大神から『吾、都の近くにある石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との
御託宣を受け、このことを朝廷に奏上したという。これが「石清水八幡宮」の起源
貞観元年(859年)清和天皇の時、奈良の大安寺の僧の行教律師が豊前国宇佐八幡宮から3神を分霊して、男山に建立した神社とも。

今昔物語に出てくる八幡神
 「はじめ、大隅の国に八幡大菩薩あらはれおわしまして、次には宇佐の宮に遷らせたまひ、遂に、この石清水に跡を垂れおはしまして・・・・昔、八幡大菩薩宇佐におわしましける時、大安寺の僧、行経という人、かの宮にまいり候ひけるに、大菩薩示したまわく.
 『われ王城を護らむがため、親しく遷らむと思う.然るに汝に具して
行かむと思う』
 行経これを聞きて、謹しむて、礼拝したてまつるに、忽ち行経の衣に、金色の三尊の御姿にて遷りつかはせおはしなしてなむ、おはしける.」

「石清水八幡神社」は、京都府八幡市にある山上の神社。 木津川・宇治川・桂川の合流点、淀川の始点付近、天王山の反対側の山上にある。
行教(ぎょうきょう)
大安寺僧。仁和寺益信の族兄。貞観元年(859年)、豊前国宇佐八幡宮から3神を分霊して、山城の国石清水に八幡神を勧請する。石清水八幡の開祖。
桓武からの拘わり熊野。
空海(くうかい)
弘法大師。宝亀五年(774年)讃岐国で生まれる。18歳で大学に入るが、仏門に入ることを決心。19歳の時、大安寺の勤操大徳により得度を受け虚空蔵求聞持法を授かり大竜ケ嶽や室戸岬で修した。延暦二十三年(804年)入唐し、密教を学ぶ。弘仁七年(816年)には高野山に金剛峰寺を開き、弘仁十四年(823年)には嵯峨天皇より東寺を与えられ、この両寺を中心に真言宗を広めた。天長6年(829年)大安寺別当に補せられる。

最澄(さいちょう)
伝教大師。神護景雲元年(767年)近江国で生まれる。12歳の時、大安寺の行表の室に入り近江国分寺で得度する。その後東大寺で受戒。比叡山に草堂を建て天台の著書を学ぶ。延暦二十三年(804年)空海らとともに還学生として入唐、翌年帰国して天台宗を開く。
石清水八幡を草創した、名門「紀氏」をも排除し、石清水八幡の別当になり実権を握ります.これらの背景には、中央の大貴族、藤原氏(道長)がいたのです.後に紀氏の勢力復興で滅びます。

少々わき道にそれたので、石清水八幡神社僧について、防門家を上げる。

紀の国の大氏族 紀氏
紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族日前国縣神宮を祭祀している。

紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。

「福岡県久留米高良玉垂神社と紀氏」
母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。これは武内宿禰は九州で生まれている事を思わせる。 基山付近を根城にしていた筑紫紀氏の出身であろう。
父親とされる比古布都押信命(比古太忍信命)
母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。

孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男命ー武雄心命
                    ‖
                    ‖──武内宿禰(神功皇后の側近として有名)
                    ‖
        紀国造の祖(紀直)菟道彦の娘 影媛(山下影日売)

山下は福岡県朝倉郡夜須が発生地。
541-7 紀臣弥麻沙 日系韓人 父:紀臣 母:韓婦 百済に留まり、百済の官位16品の第6位に。百済は弥麻沙を安羅に遣わし任那の執事を召して任那を建てることを謀らしめた。
施基皇子(天智天皇の皇子)     ‖
     ‖             ┌ 白壁王(光仁天皇)→桓武天皇
     ‖─────────────│
     ‖             └ 難波内親王 2品 774歿
    紀朝臣橡姫(紀朝臣諸人の娘)

711-9-4 紀朝臣諸人 平城宮の造営の将軍
刈田郡紀伊郷  紀氏
讃岐 大内郡と刈田郡の紀氏
後鳥羽上皇の流された隠岐に苅田郷あり。
1221
承久3年
後鳥羽法王、隠岐に配流され、海士郡苅田郷源福寺に入らる(吾妻鏡)
1239 延応元年後鳥羽法王、隠岐苅田郷の行在所にて崩御(百錬抄)

讃岐の刈田大明神:粟井神社社伝より
上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、一致団結をはかりました。この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれ。社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません
『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭式』の名神祭二百八十五座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。『三代実録』に「貞観六年冬十月十五日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれています。
神田=苅田 か
九州に京都郡苅田町がある ここは佐々木岩流の城もある。岩石城
http://pinebooks.cool.ne.jp/kanda/walkmap/map.html

石清水八幡宮に清和源氏が陽成源氏であるとする「頼信の告文」が伝わっていることを知ることにとどめたい。
 ところで、「清和源氏」が、八幡信仰をもっていたことはよく知られている。頼信は石清水八幡宮にさきの告文を捧げた。おの子頼義は、相模鎌倉に元八幡を創建し、これを起点として陸奥に向かって五里ごとに、いわゆる五里八幡を創建した。荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などが、それである。そして、その子義家は石清水八幡で元服したことから、八幡太郎と名乗った。さらに頼朝は元八幡を移建して、鶴岡八幡宮としたのである。 【三つ巴紋】
 
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