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宮家縁流、佐久間氏 朝明宗朝子甚九郎盛保

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月27日(土)12時02分41秒
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  「不孝之君」即ち後宇多院
後宇多院の子は一休上人でしられる。大徳寺に奉仕した一休上人との関係が深い佐久間氏
後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子。生母は内大臣花山院師継の養女、談天
門院・藤原忠子(実父は参議五辻忠継)。

「大覚大僧正」と尊称されています、妙実聖人(1297〜1364)について
この紋章で判る。十六葉菊紋と恒性皇子=児島高徳にしか該当しない。
現在では、「近衛家縁故のご出身である」とする説が通説となっています。
http://www.geocities.jp/myoukou_ji/enkaku/enkaku_kaiki.htm
嵯峨の大覚寺(真言宗大覚寺派の大本山)に入られ、准三后昭慶門院憙志(じゅんさんこうしょうけいもんいんきし)の方を母代わりとして、この寺奥深くに育てられたと伝えられます。
ここにも表わされていた准三后昭慶門院との、関係と云えば、亀山天皇の御威訓にも記されており、高丸の養育はこの亀山天皇によったとされている。

大覚大僧正が高徳で有ると知れるのは、
寺の瓦に見られる十六葉菊紋で、これは高徳の紋であると同時に、天孫を意味する、十六葉菊紋はメソポタミアより始まっている。
意味もなくこの十六葉菊紋を使用するのは例え天皇家であっても許されないのである。
これは後鳥羽院ゆかりの、十六葉菊紋であり他家では、取り扱えない紋章となっている。

この恒性皇子の足跡は?
それは「太平記」の作者と読取れよう。
「児島法師」「太平記」の作者
新田義貞が恒良親王を奉じて北陸へ退くようになると、高徳は義貞に従って北陸へ赴く。

この時、高徳が起草した比叡山への諜状を太平記は書き留めている。が足取りと酷似しているのは、後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王の血を承け、熊野修験の太い分流である児島修験の中で育った。

頼仁親王は備前国守護佐々木信実の娘を入れて道乗を生み、これに尊滝院を継承させる。そして、「五流尊滝院世系譜」によると、この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。
別姓「三宅」は「宮家」に他ならないことが知られる。

太平記より 「交野の春の桜狩り」. 太平記第
二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」の段。 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、
紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂き恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。」

北河内地域文化誌「まんだ」79号 宇佐八幡宮を崇敬した備後三郎三宅高徳
が、京都の岩倉のこの土地で、宇佐八幡宮の大神を信仰していたことから、いつしか三宅
八幡宮と呼ばれるようになったそうです。京都三宅八幡宮。

恒性(つねさが)皇子事児島高徳である。
そして、「不孝之君」即ち後宇多院の政務を止めて、嫡庶の差別を立てて兩統迭立をすみやかにすることが天意にかなう、と結んでいる。しかし、富仁親王の皇太子には、尊治親王が立てられた。

「平山明神と三宅」
三宅祖は児島高徳である。
平山明神山(愛知県設楽町)名前の由来は,夜暗いところでぼうっーと光るところからとのこと。

これで平山明神がわかりました。 天皇が何故ひらやま、とされていたのか。 天空とは
北斗七星や七夕も連結しますね。 ...... 夜須篠隈<太>天涯(てんがい)平山陵</太>由来。
また〈神の座〉としての〈天空〉とは、〈摂理〉がそこから由来する場. ... これで平山明神がわかりました。


(『近衛家文書』。村田正志『風塵録』五九頁)
天皇家の僧には条件が整っていなければならない、それは皇統の親王である事が課せられている。
この諸条件は、近衛家との縁戚が、求められていた?
児島高徳後胤である助安が、天皇の側近に入るには、この諸条件が満たされていなければ、ならない。
故に、
藤原北家に改めたのである。そして藤原助安をなのった。
近衛経忠の子として認知されていたのであろう。

朝明宗朝子甚九郎盛保とあるが、宗朝とは?藤原宗朝?
藤原為明(甲斐守) 中原宗家(大蔵大輔) とみえる
藤原為明は新拾遺和歌集(二十一代集第二一冊)を残している藤原為明編


系図によれば総五郎? 朝次朝明子弥平次満盛? 安盛朝次子安通. 盛通安盛
子与六郎御器所城主. 盛明盛通子与六郎家勝美作御器所城主安土城番.となっている。

藤原宗朝からの寄進により元亨三年(一三二三)六月に完成
http://www.db.fks.ed.jp/txt/10090.002/html/00126.html
鎌倉時代元亨三年(一三二三)

古代中国、インの湯(とう)王が夏台(かだい)に幽閉された時とか、越(えつ)王がカイケイで敵の軍門に下った時と類似。
六波羅庁の囚われの身となった人々は以下の通りである。

尊良親王(たかよししんのう)、宗良親王(むねよししんのう)、峰僧正春雅(みねのそうじょうしゅんが)、東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:藤房の父)、藤原師賢(ふじわらのもろかた)、藤原公敏(ふじわらにきんとし)、源具行(みなもとのともゆき)、藤原公明(ふじわらのきんあきら)、藤原実世(ふじわらのさねよ)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)、平成輔(たいらのなりすけ)、藤原為明(ふじわらのためあきら)、藤原行房(ふじわらのゆきふさ)、千種忠顕(ちぐさただあき)、源能定(みなもとのよしさだ)、藤原隆兼(ふじわらのたかかね)、妙法院執事・澄俊法印(みょうほういんのしつじ・ちょうしゅんほういん)。

為明朝盛子ー宗朝為明子甚九郎満盛ー朝明宗朝子甚九郎盛保?とあるが比べて見よう。
為明とは藤原為明(ふじわらのためあきら)鎌倉時代元亨三年(一三二三)を注している。
すると、宗朝は母方為明子となる。
こうなると、宗朝為明子甚九郎満盛とあるのは?甚九郎満盛事であろう。
甚九郎満盛の子は甚九郎盛保?となっている。

宮家系図では、つづく
甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成
 
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