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佐久間盛重の女を室とした信晴
佐久間盛重ー信晴ー信盛ー正勝
信盛は十津川で没した。子正勝(信栄とも)はのちに赦免され、織田信雄に仕え、天正十二年(1584)の小牧の戦いには、信雄方の将として秀吉方の滝川一益と戦っている。
のち、秀吉に仕えてお伽衆となり、さらに秀吉没後は家康に仕えた。正勝の跡は、弟で信盛の三男がその後を継ぎ、徳川旗本に召し抱えられている。
嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあり御器所八所大明神の社殿を造立したという。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
小川乾坤院(知多郡東浦町)蔵の「血脈集」文明十一年(1479)条に「誠栄 サクマ平右衛門 尾州御貴所(御器所)」とみえる。
寛正二年(1461)頃、佐久間美作守と熱田社の地下人との間で盗み馬のことで問題が起こり幕府内で問題となった。『蔭涼軒日録』
永禄七年(1564)の段階でも御器所は佐久間氏の領地で御器所八所大明神修理棟札に、佐久間美作守家勝・佐久間右衛門尉信盛の名が見えている。ここに見える美作守家勝は、盛次の従兄弟である。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
この佐久間孫五郎助安とは、「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き
近衛中将助安、広瀬城主事である。
嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあるのも、近衛中将助安のこと也。
この佐久間美作守事、佐々木児島氏佐久間、の縁戚から用いたものである。
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