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三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。
「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_miyake.html
「岩松八弥」
「八弥は広忠の妾“於春”に恋慕した」「内藤清長の娘で内藤信成の母」
「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」
天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。
家紋/三宅輪宝
先祖/児島高徳
系図/−清貞−師行−重勝−正貞−康貞−康信−康盛−康勝
<一口メモ>三宅氏の祖は、南北朝時代に南朝方として活躍した児島高徳であるという。三宅氏は高橋荘東方の北部および足助西部にまで勢力を拡大し、松平・今川・織田氏と対立、あるいは連合・服属を繰り返している。亨禄3年(1530)、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌4年、清康は伊保城を攻め、城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走する。天文2年(1533)三宅右衛門大夫高貞は中条・鈴木・阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。
<三宅氏略系図>
http://www7b.biglobe.ne.jp/~taniyan/gunki/miyake.htm
児島高徳後胤にあたるのは類似した重複項目から、ひきだせる。
その一つが、
猿投神社の関係にある。
猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。
http://www.geocities.jp/engishiki01/mikawa/bun/mk110105-01.html
【住所】愛知県豊田市猿投町大城5
祭神】大碓命 (配祀)景行天皇 垂仁天皇
ここに日本史が始まる。
由緒】仲哀天皇元年創始神宮皇后と連座している。神宮皇后とは女神のことなり
豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する。
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。
創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されれて来ている。
神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。
古代に重要視されていたのは、猿投と王との拘わりがあるから。
(三河広瀬〜猿投神社)は天皇と重複した関係にあります。
後鳥羽上皇後胤、児島高徳と、その又後胤、佐久間氏に重複した関係にあります。
あまり取り上げられてこなかった、この佐久間氏と佐々氏祖は、佐々木盛綱に始まる、
児島氏がある。
ここに両家の
信晴
┣━━━━━┳━━┓
信盛 信辰 明嶽
┣━━┓ ┣━━┓
信栄
があるが、信晴こそ、1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)と見る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F#.E4.BF.A1.E6.99.B4.E7.B3.BB
佐久間軍記(さくまぐんき)は、戦国時代から江戸時代にかけての佐久間氏の働きを記録した軍記物のひとつで、続群書類従第20輯下 合戦部16に所収されている。 著者は佐久間常関(または常閑)となっている。
太閤記の記述も佐久間軍記と同様の説を採用している。
佐久間 信栄(さくま のぶひで、弘治2年(1556年) - 寛永8年11月23日(1632年1月14日))は、安土桃山時代の武将。織田信長、豊臣秀吉、徳川秀忠に仕える。通称は甚九郎、駿河守を自称し、剃髪後は不干斎と号した。諱は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている[1]。
織田信長の重臣・佐久間氏の当主・佐久間信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦などで父と共に戦功をあげ、天正4年(1576年)には対石山本願寺戦で天王寺城の守備を任されている。
塙直政の戦死によって父・信盛が石山本願寺攻めの指揮官になるとこれを補佐し、平行して畿内各地に援軍として出兵するが、石山攻めでは一向に結果が出せず、業を煮やした信長が天正8年(1580年)朝廷を動かして本願寺と和睦すると、19ヶ条に渉る譴責状を突きつけられて父共々高野山に追放された。譴責状では「甚九郎覚悟の条々 書き並べ候えば 筆にも墨にも述べがたき事」と酷評されているが、確かに茶器の収集や茶会の出席などに精を出し、茶の湯三昧の日々を送っていた事は事実らしい。
父・信盛の死後、天正10年(1582年)1月には赦免されて織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕えた。小牧長久手の戦いでは滝川一益と戦った。信雄が改易されると茶人として秀吉に召抱えられ、大坂の陣後は徳川秀忠に御咄衆として武蔵国児玉郡、横見郡に3000石を与えられた。
法名は宗岩。墓所は京都紫野大徳寺の高東院。
その子孫縁故は御器所、山崎城ほか四家(久六盛重・盛次系、河内守系、奥山氏系、信晴・信盛系)に分かれる。
今までは信晴は御器所系に列せられていたが、
これは児島氏の児島高徳母方関係重複からで、あろう。
信晴はこの佐々木一族縁故であって、
児島高徳の後胤であることは、判明している。
「猿投山」
猿投山は標高629m、西三河においてその姿の秀麗さと豊富な史実により、古代から近世の歴史に名を留めた霊峰の筆頭であると言えます。
猿投といえば、
陶磁で有名だが、この猿投に土着したのは、時代末夜須の鳥巣から、移動した集団が、前田氏という訳である。
王に追随してきてから、祭祀の為の用具を製造したのに起る。
証拠は、夜須の鳥巣の硬質土器須恵器が、ここで始まったとするのに類似重複する。
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