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佐久間信盛の子

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)18時34分46秒
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  佐久間信盛は、室を前田本家の前田種利の女を迎えて、
長男佐久間甚九郎信栄(不干斎・イエズス会ハビアン・正勝
長女狩野孝信に嫁ス
二女輝子、佐々清蔵(成政兄)に嫁ス

「狩野孝信」
墓は京都妙覚寺にあり,法名を円大院孝信日養という。
狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 - 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。
幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。
安信は叔父信栄正勝男、従弟の助九郎長興(秋月藩祖)の画像を、描いている。
又助九郎長興には縁戚の宮本無二斎(武蔵父)が仕官している。
慶長7年(1602年)、狩野孝信の長男として京都で生まれる。
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/ikegami/honmonji_kanoutakanobu/index.html
狩野孝信の墓塔
http://www.geocities.jp/otaku_bunkaisan/50.html


「狩野探幽」
慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。
祖父の不干斎の、影響によるものであろうか、不干斎は徳川家康の伽衆でそばに、仕えていた。
狩野(かのう)探幽(たんゆう)(1602年から1674年)は、狩野(かのう)孝信(たかのぶ)の長男で、日本絵画史上最大といわれる狩野(かのう)派の「中興の祖」といわれます。その墓塔はひょうたんの形をしており、並び立つ顕彰供養碑には、探幽(たんゆう)の事績が刻まれています。都指定文化財。
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/ikegami/kanoutanyuu_haka/index.html
法堂の天井の中心に、狩野探幽法眼守信作・雲龍の図(八方睨みの龍)が、実にいきいきと描かれていました。
妙心寺は、長い間、大徳寺の末寺的な存在でした
大徳寺高桐院には、祖父家の墓石がある。
又智勝院には斉藤利三の墓石がありその横には、燐勝院内には、春日局の墓石もある。
この智勝院院の住職から、見せていただいた、系図に、児島八郎盛宗が列してあった。
児島八郎盛宗の養子が佐々木盛綱で、児島高徳の母系の家でした。

「二女輝子」
後鷹司に再婚ス清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。
岳星院(佐々清蔵室→鷹司信房室)

佐々清蔵(成政の兄政次の子)と言ふ、姉は隋泉院(松原直元室)である。
隋泉院との間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。
隋泉院と直元には男子がなく、妹岳星院と二人で直元にひきとられた。
二人の間には権兵衛・勘兵衛成清・信濃守・の三人が出来た。

「佐々五郎四郎」信濃休西重勝
隋泉院との間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。
休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕え、男子宇左衛門(号・休閑)は播州浅野家に. 仕えた

死別後、実家佐久間信盛家に戻るが、後に関白鷹司信房の継室となる。信房との間に鷹司信尚、鷹司孝子(徳川家光正室)など7人の子供を儲けた。
甥に狩野探幽がいる。

暫く叔父成政の元にあったが、成政の死後、松原直元、姉随泉院らと共に前田玄以のもとに引き取られる。

休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕えた
これを見たら判る、
鷹司房信室は?天皇に仕える公家
鷹司(たかつかさ)家は、五摂家のひとつで公家である。鎌倉時代中頃、藤原氏北家嫡流の近衛家実の四男兼平が祖。

「鷹司信房 (たかつかさ・のぶふさ:1565-1657)」

公家。先妻を亡くしていた為、成政の姪娘岳星院を娶る。関白・左大臣二条晴良の長男。関白・左大臣鷹司忠冬の養子となる。1579(天正7)年、正五位下に叙されて元服し右少将に任ぜられる。1589(天正17)年、従一位に進み、1606(慶長11)年に内大臣より左大臣、更に関白に任ぜられ、氏長者となる。1608(慶長13)年、関白・左大臣を辞す。岳星院との間に七人の子女をもうけた、関白・左大臣となる嫡子信尚、将軍家光の正室となる中丸殿などがいる。

「佐々 輝子」佐久間信盛の女(さっさ てるこ、? - 寛永7年(1630年))は安土桃山時代から江戸時代にかけての女性。
初め従兄弟の佐々清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。
 
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