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紀家弘室東郷胤時女血流

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 5月18日(日)19時41分39秒
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  紀家弘事善法寺通清別当(石清水八幡宮)の嫁は、東郷胤時女である。
この紀家弘との間に生まれた女の婿になったのが、児島範長である。
児島範長との紀家弘女の間に、誕生した女が、頼宴僧正室という訳である。

紀家弘(善法寺通清別当)女は、これで三人居た事になる。
次女は、後光厳天皇家に女崇賢門院仲子嫁し三女良子は足利家に嫁した。
善法寺通清別当ー長女児島範長室ー長女頼宴僧正室ー══高徳ー女脇屋義助室
善法寺通清別当ー次女後光厳天皇室ー══後円融天皇
善法寺通清別当ー三女足利義詮室ー══義満

脇屋義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟。
康永元年/興国3年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国の国府で突如発病し、そのまま病没する。齢38。
明徳四年。携孥西入伊豫。邦族以舊誼善視之。館于

宇和島。無幾卒。河野氏以其不得志而湮沒也。爲立

祠於道後云。子孫居伊豫。傳至君。天正中。避亂於豊

後。依大友氏。大友氏尋亡。乃家于速見郡小浦。
子孫 伊豫に居り、傳へて君《脇八郎次郎》に至る。天正中、亂を豊後に避け大友氏に依る。大友氏尋[つ]ぎて亡し、乃ち速見郡小浦に家す。
孥=妻や子  邦族=この場合は河野氏を指す
舊誼=古くからの付き合い(父の脇屋義助と伊豫国の河野氏の間柄)
視る=面倒を見るの意 大友氏尋[つ]ぎて亡し=大友氏も間もなく滅亡して

新政府は尊氏討伐を「新田義貞」に命じ、大友一族は「新田義貞」のもとで、諸将に混じって足利尊氏を攻めました。大友千代松丸(氏泰)、貞載、戸次、志賀・・等がこれに参加しました。新田義貞軍のもとで、大友軍は二班に分かれました。「千代松丸は箱根まわりの隊、貞載は「竹の下」に向かう軍に分かれました。

 初戦は官軍が敗れ、二日目の戦いの時、「大友貞載」等の軍勢350騎が突然「寝返り」、足利軍に加わりました。このため、新政府・天皇方は総崩れしてしまいます。尊氏軍は勢い付いて、一挙に都に迫ります。都に着くと、大友千代松丸も足利尊氏軍に寝返ってしまいます。反感をかった大友貞戴は降参を装い近づいた「結城親光」に切り付けられ、親光を討ったものの深手を負い死亡します。

 速見郡史

「延元元年正月 大友左近将監大友貞載 足利尊氏供奉上洛、貞重(木付)随順、同十一日、洛陽東洞院烏丸において、結城判官藤原親光と組み討ちて、親光の首級を穫て 尊氏の実検に備ふ。貞載深手を受けて、同十四日二条にて死す。此時、(木付)貞重郎従「西・上・東・是久」共に死す。
佐々木信胤(のぶたね)の挙兵によって四国への通路が開けたので、脇屋刑部卿義助は暦応参年四月一日、勅命により、四国、。中国の大将として伊予へ出発した。

脇屋義助と言う人物は、「新田義貞」の弟です。常に、義貞の右腕として活躍し、南朝軍の武将として、種々の戦いに大将や副将として参加しています。
 
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