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徳川家は三代家光の後、日本の礎は側近が居なかった為薄れた

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月28日(月)10時42分49秒
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  日本の礎は徳川家からも天皇家からも、失われました

ここに、天皇とのつながりは出来たが、正室には子が、つくられませんでした。孝子にも子が出来ていませんでした。
この時期、三千石扱いで、伽衆が秀吉から家光まで、続いていました。
これに、奏して筑紫入りが、決まったのです、甚九郎正成は、松延村に居し、それから、福岡藩から、土地をあてがわれ、四熊と定めました。
ここに、徳川家とは無関係になりました。

徳川嫡継は、この形式とはなりませんでした、ここに近衛家皇孫姻戚が離れていったのが、徳川家の流れです。
これは天皇家にあっても、同じように、皇孫との関係は薄れたとなるでしょう。
残りの、血縁だけが、孝明天皇まで、続いていたようです。
この天皇家も徳川家のように、臣下の武官の娘との、婚姻関係になっていて、ここにも、皇孫との関係は薄れていきました。

このような経過から日本の礎は筑紫国現福岡県朝倉夜須四熊にしか、受け継がれなかった為に、文化歴史は、その後開かれなかったといえましょう。
江戸以降の主な物語や、文化は、相撲にしても、福岡県朝倉夜須四熊から、熊本の吉田家に、相撲御用の認可をしてから、開催されていたのです。この相撲御用とは?、「宮廷文化」を幕府の礎とされていたからでした。

徳川綱吉は母桂昌院の出が良くなかった為に、事件が頻発に起きていました。
それが後鳥羽流佐久間家関連に対しての、暴虐赤穂事件とともにお玉(この頃は桂昌院)です。生類憐みの令、ここに赤穂浅野事件がおきる。は民に生活の基盤まで、なくして苦しめて、しまいました。

それほど、日本の礎は日本には欠かせないものなのです。

堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推した綱豊の将軍就任は採用されなかった。

宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。側室お喜世
江戸幕府第6代将軍徳川家宣母はお保良の方(長昌院)
正室は近衛基熙の娘・天英院熙子。
子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。

新見左近、松平虎松(幼名)幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。徳川綱豊(初名)→家宣
経歴
父が正室を娶る直前の19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、新見左近と名乗った。
伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗り、延宝6年(1678年)の父の死後、17歳で家督を継承し、祖母・順性院(祖父・家光の側室で父・綱重の生母)に4代将軍・家綱の次の将軍になるために育てられた。
宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任する。
生類憐れみの令や酒税を廃止する
柳沢吉保を免職する
家宣と次代将軍・徳川家継父:徳川家宣、母:お喜代の方(月光院)側室お喜世(官位正二位、内大臣兼右近衛大将)
の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。

八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀州徳川家から徳川吉宗父:徳川光貞、母:女中父巨勢利清の娘が迎えられた。

吉宗に正室との間の子がいなかった延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重第九代将軍正室:伏見宮邦永親王の娘・比宮増子(証明院)伏見宮第14代当主。伏見宮貞致親王の女培子女王(第9代江戸幕府将軍徳川家重室)
(在職1745年 - 1760年)に譲る父:徳川吉宗、母:深徳院徳川吉宗(後の第8代将軍)の側室父は紀州藩家臣の大久保忠直。名は於須磨の方、あるいは於須摩の方。吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。

家重は5月13日(6月25日)に長男・第10代将軍家治正室:閑院宮直仁親王の娘・倫子女王
に将軍職を譲って大御所と称した。家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。母:至心院不明

天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍家斉)を自らの養子とした。

徳川 家斉(とくがわ いえなり)正室:島津重豪の娘・近衛寔子は、日本の武士・徳川幕府第11代将軍。(将軍在職1787年〜1837年)父:徳川治済、母:慈徳院
養父:徳川家治
御三卿の一橋家2代当主徳川治済の長子。母は側室の慈徳院。

徳川 家慶(とくがわ いえよし)正室は有栖川宮織仁親王の娘・楽宮喬子女王、第12代征夷大将軍父は徳川家斉(家慶は次男)。母は側室の押田氏の娘

徳川 家定(とくがわ いえさだ)正室:鷹司政煕の娘・天親院
は、江戸幕府第13代征夷大将軍。継室:近衛忠煕の養女・天璋院

天保12年(1841年)に祖父で第11代将軍、大御所であった徳川家斉が薨去したため、第12代将軍・家慶の世子となる。

斉彬の養女になり源 篤子(みなもと あつこ)実父は薩摩藩々主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。島津斉宣の孫にあたる。
天璋院(てんしょういん・一(かつ)→島津篤子→近衛敬子
近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら すみこ)と名を改めた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2
 
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