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九条兼実の娘任子
局は刑部卿藤原範兼(のりかね)の女で名を兼子(かねこ)と申し、その叔父で義理の兄に当たる高倉範季(のりすえ)は後鳥羽上皇を養いまいらせて、践祚の時も専ら御世話申し上げた上、その女重子(しげこ.後に院号があって修明門院という)に宮仕えさせ、また局の姉範子(のりこ)はもと法勝寺執行(しゅぎょう)能円(のうえん)の妻で、上皇の御乳母(おんめのと)をも勤めたが、能円が平家に従って没落の後、通親に思われてその夫人となりすまし、連子(つれこ)の在子(ありこ)は通親の養女として上皇の妃となった。承明門院と申すがそれである。
その御腹の順徳天皇は皇太弟に立たせられるという風で、ようやく一門栄達の曙光(しょこう)も見えた。七十歳近くの範季が三位に叙せられ、兼子が典侍に任ぜられたのもこの際の事である。
『愚管抄』に、「故卿の二位(兼子)は刑部卿三位(範子)が弟にて、ひしと君(上皇)につき参らせてかかる果報の人になりたるなり」と見えるから、浮気な読者は上皇との御関係を疑いもしようが、第一、人もあろうに二十五も年上の老女では、問題にもなるまい。
順徳天皇(1197〜1242.46歳)母君任子
任子の母君は藤原範兼ー藤原範子
藤原範子と法勝寺執行(しゅぎょう)能円(のうえん)の妻
能円が平家に従って没落の後、通親に思われてその夫人となりすまし、連子(つれこ)の在子(ありこ)は通親の養女として上皇の妃となった。承明門院と申すがそれである。
ここには法勝寺執行(しゅぎょう)能円と皇統の連系はない。
所謂紀氏が要等となる。
承明円院(じょうめいもんいん)
1171〜1257(承安元−正嘉元)
後鳥羽天皇の妃。名は在子。父は内大臣土御門通親。母は刑部卿藤原範兼の女、範子。実父は法印能円〔1140〜99.60歳〕で、母範子は能円と離婚して通親と再婚し、在子もその養女となった。後鳥羽天皇〔1180〜1239.60歳〕の後宮に入り、宰相君と称された。建久六年(1195)十月、後鳥羽天皇の第一皇子為仁親王を生む。同じころ九条兼実の娘任子〔宜秋門院.1173〜1238.65歳〕が女子を生んでおり、このことは翌七年十一月の政変の一つの要因となった。同九年正月、為仁親王が即位した。これが土御門天皇〔1195〜1231.37歳〕である。父通親は天皇の外祖父として権勢をふるった。正治元年(1199)十二月、従三位に叙され、同日准三宮となる。建仁二 年(1202)正月十五日、院号宣下、承明門院と号す。建暦元年(1211)十二月、落飾、法名は如観。正嘉元年(1257)七月五日、八十七歳で没す。
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