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八四代順徳天皇の孫・尊雅王の息女・智泉尼聖通・
通玄寺開山とされる人物で、通清との間に石清水別当昇清及び女子三人をなしている。
足利義詮夫人良子の母であった智泉尼で、
暦応年間(1338〜42)に京都・三条通東洞院にあった高倉宮以仁親王邸跡に通玄寺
を創建して入寺し、その後境内に曇華庵を建てて隠居したことに始まります。
皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代?には安定した皇位継承?のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。
(石清水祠官系図)
智泉尼聖通の兄弟には、左大臣・四辻善成、天竜寺二世・無極志玄が居る。
皇位継承の伝統は断絶させてはならない。
女系天皇家創始が習いで、女が天皇の室に入っていなければ、適応しない。
天皇の女親が、皇統でなければ、天皇とは適合しないとする。
女帝容認と女系天皇は別次元の話である。
適合しなければ譲らねばならない。
ここでは順徳天皇の母親を見てみよう。
宇多天皇の孫、源雅信。だから頼通の子孫の近衛、九条、鷹司、一条、二条はみんな天皇の子孫。
順徳天皇の母。名は重子。はじめ範子また親子とも称した。父は従二位藤原範季(贈
左大臣正一位)。
母は中納言平教盛の女、従三位教子。後鳥羽天皇の後宮に入り二条君と称したが、建久八年(1197)九月、順徳天皇を生み、同九年十二月従三位に進み、承元元年(1207)六月、准三宮。同時に院号宣下を受け修明門院と号した。
承久三年(1221)七月、後鳥羽上皇の落飾にともない尼となる。法名は法性覚。
修明門院(1182〜1264.83歳)は源通親養女で土御門天皇(1195〜1231.37歳)母の承明門院(1171〜1257.87歳)にとってはライバル的存在だったが、承明門院は後鳥羽院より9歳上であるのに対し修明門院は2歳下ということもあって、寵は修明門院に厚かった。
承明門院は土御門天皇の遺児邦仁(後嵯峨天皇.1220〜1272.53歳)を養育した人。
後鳥羽天皇の母の藤原殖子は、藤原隆家の子孫。
後鳥羽天皇の子順徳天皇の母は平教盛の孫、土御門天皇の母は清盛夫人の姪、平頼盛の孫は後高倉院との間に後堀川天皇を産みました。
また、清盛の孫の孫が後嵯峨天皇に入内し亀山天皇と後深草天皇を産みました。
源通親 みなもとのみちちか 久安五〜建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく) 同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。
母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。
子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。
嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。
高倉上皇が崩御(二十一歳)。
政治の実権は後白河法皇へ移る。
通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。
通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。
源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
ここで、皇統の整理をしておこう。
源頼朝が生存の折に、息の後に皇統の頼任親王(児島宮)を後に院は決めていたが、果されなかった。
在子も通親養女となり、入内して1195年、為仁親王(土御門天皇)を生んだ。
久我家の祖である通光、土御門家の祖。
藤原範子さんは源通親と懇 (ねんご) ろになり、 源通親の奥様に。
在子お嬢さんは通親の養女と云う事に相成ります。
範子が先夫源通親。
間に儲けた在子(承明門院)を養女として入内させ、産まれた皇子が即位(土御門天皇)して、天皇の外祖父源通親となる。
源平争乱後は、後鳥羽天皇の乳母である高倉範子の夫となり、養女の在子(承明門院)を後鳥羽天皇に入内させ、生まれた皇子(土御門天皇)して、天皇の外祖父源通親となる。
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