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宮 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)は、備後国の大豪族宮氏の一族で、下野守を称し、後に入道して道仙と号した。
藤原 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)備後国の大豪族宮氏の一族
1364年~1365年 - 宮兼信
『太平記』巻三を初見
備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後. 三郎、 祠官)
これで紀臣族と読取れ、兼信は頼宴僧正と拘わっていたとなる、それが系図に見える、
頼宴僧正は宮家の頭領で、このほかはない。
紀氏族石清水八幡宮家の兼信と見て取れる。
頼宴僧正とのつながりは、石清水八幡宮家の男となっていた、児島範長は紀家弘の女を室に迎えていました。
この二人の間に生まれたのが、児島高徳です、高徳はきたりにのって、この時代の天皇の習いは、女元で育てられるのが習いでした。
本来は、(高徳幼名)高丸は亀山天皇女に預けられて育ちました。
そして醐醍醐天皇の跡を継承する事に亀山天皇から遺言されていましたが、約束を守らなかった、醐醍醐天皇によって、破談となりました。
この後、歴史は足利尊氏に移り、天皇も南北朝に別れました。
とざされた高徳父は、頼宴僧正は足利尊氏を備後に匿って、醐醍醐天皇から守り、九州に逃しました。
ここで足利尊氏は、宇佐の八幡宮一族等と組み、力をつけて、上り、醐醍醐天皇を下しました。
この陰には、頼宴僧正の力があったのでした。
この後、足利尊氏の子義詮の側室となる紀良子父は紀家弘でした。
繋がりが出来たのもここからでした。
父兼信と共に足利尊氏・義詮に仕え、備後に明極楚俊を開山として護国寺を建立する。子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持った。
上野介家として史上に現れるのは、満信(上野介、入道信雄)、教信(又次郎・次郎左衛門尉、上野介)、政信(若狭守)、實信(上野介)などである。
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