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官職の従三位左近衛中将藤原助安

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月27日(木)07時16分50秒
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  『太平記』にみられる。宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。しかし、後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。
尊氏公之時賜案堵之御判兼信・氏信、元弘より永和ニ至り
父子数年関東帝都五畿西国所々合戦軍功抽群
宮下野守氏信 從四位下 始下野次郎
氏信者尊氏公御味方、忠節依御感氏之字頂戴、
猶子之御契約、氏信一代賜源姓、
被補御一門之列賜屋形號、宮屋形是也
康応元年死、八十歳
とある。

越前守満盛下野守満重
小野宮下野守盛重→式部大輔師盛→越前守満盛→刑部大輔満重→新五郎元盛→左衛門佐
教元→下野守政盛→新五郎親忠. これは他の各種文献に登場する宮氏の実名

「宮修理亮藤原満盛」

小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛越前守満盛下野守満重下野守元盛駿河守教元下野守政盛親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

小野宮下野守盛重式部大輔師盛越前守満盛刑部大輔満重新五郎元盛左衛門佐教元下野守政盛新五郎親忠


亀寿山城は南北朝時代において大織冠鎌足胤藤原宮下野守兼信 ・氏信父子が居城としていた。偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。
下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342) (藤原胤宮下野守兼信)

後鳥羽胤児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安

満盛は藤原兼信の猶子となったと見られ、藤原を名乗る。
助安父は宮修理亮藤原満盛、
修理亮 とは修理職の次官で定員は一人。相当官位は従五位下です。
修理職 しゅりしき。和名で「ヲサメツクルツカサ(乎佐女豆久留豆加佐)」と読んで令外官のひとつである。
職掌 宮城・内裏の造営と修理が職務である。出典・官位辞典より
朝廷の官位として「修理亮」(しゅりのすけ)を受けていた。

佐久間孫五郎助安は、
民部丞。 位階は、従五位下。(1446)民部丞の官途吹挙状を得ている。
それから、同民部丞助安以後代々城主となる。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞

孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のるこの後左近衛中将藤原助安となる。
官職の従三位左近衛中将藤原助安 吹挙されていた。

近衛中将とは、律令官制における職の名前です。いわゆる通名ですね。
従四位下相当の官職ですね。で、前とつくと「さきの〜」と呼んで、もじどおり前の近衛中将、ということになります。
前右大臣とか使いますね。藤原助安は左近衛中将ですね。後鳥羽帝胤
 
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