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天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
佐久間美作守家勝、同民部丞助安以後代々城主となる。(尾張国愛知郡誌)一則 佐久間美作守居之。(尾張徇行記)
児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー孫五郎助安
この孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のる。
宮氏は南北朝の一時期、備中国の守護職に補任将軍より御料所の知行を受け、勢力を伸ばしていったものと思われる。
『近衛官職と児島宮家の関係 』
この時期から近衛、との関係がはじまった。
孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のる。左近衛中将藤原助安となる。
近衛中将とは、律令官制における職の名前です。いわゆる通名ですね。
従四位下相当の官職ですね。で、前とつくと「さきの〜」と呼んで、もじどおり前の近衛中将、ということになります。
前右大臣とか使いますね。藤原助安は左近衛中将ですね。後鳥羽帝胤.
近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。
天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに、従四位下の官位相当。以後、定着する。当初は1名だった
http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛中将
【近衛中将】(このえのちゅうじょう) 左右各四人。もとは各一人だったが、のち二人になり白河天皇の時代に四人となった。それぞれ略して「左中将」「右中将」あるいはただ「中将」という。従四位相当の役だが、三位でなったものを三位中将、参議でなったものを宰相中将といった。
国司家御客殿後鳥羽帝胤児島高徳
児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安. ・大洲旧記には、「左近衛
中将藤原助安居る 大城なりしや 六町. 程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記
されている。 鹿嶋城は、築城者や築城年代については定かでない。
http://www.ikedakai.com/rekishi-kansyoku.html
大内裏のうち、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側を担当。行幸などの際には護衛として随員。また、皇族や高官の警護も担当。
足利義詮
生没年:1330-1367 も任じられている1350 左近衛中将 1356 従三位
側室:紀良子(父:石清水善法寺法印 通清)
この時期、紀家弘女が紀良子(父:石清水善法寺法印 通清)であり、宇佐にいた宇都宮時枝の力も、善法寺なので、挙手となったのであろう。(時枝宇佐職)
(時枝宇佐職)江戸期に至るまで宇佐職は定着している。
甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎は織田家に組みするが、信長によって、退けられた。
甚九郎朝次弥平次は官職がなかったようである。後鳥羽帝胤.
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