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後鳥羽後胤の、後継者を天皇に

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)14時35分35秒
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  承久の乱後、皇位の継承と院政を担当する上皇の決定権は幕府が握っていました。
執権北条泰時の指示によって後嵯峨天皇が即位、後深草天皇に譲位して院政をとり、後嵯峨上皇の強い意向もあり、後深草天皇の弟・亀山天皇を皇位につけました。
文永5年(1268)、後嵯峨上皇は亀山天皇の皇子・世仁親王を皇太子に指名しました。

さらに後嵯峨上皇は文永9年(1272)に院政の後継者の選定を幕府に委任して崩御、幕府執権北条時宗は院政後継者選定に関与、後嵯峨上皇の中宮・大宮院(後深草・亀山の母)と亀山天皇に決定し、天皇は世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始。
後深草上皇は幕府の調停で後宇多天皇のあとに後深草天皇の息子・煕仁親王をたて、その時に院政を行わせる。
皇統が亀山天皇の流れである大覚寺統、後深草天皇の流れである持明院統のふたつにのふたつにわかれる。
まさに、執権北条の意のままに、していた。
ここにきて、倒幕の、のろしが、あがり、院政の快復の為として、執権北条は打倒された。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。
倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚隠岐島に流罪となる
後醍醐は光厳天皇の皇位を否定し、建武の新政を開始する。
また大覚寺統の嫡流である兄後二条天皇の遺族を皇太子に指名せず本来傍流であったはずの自分の皇子を後継者として指名し、自己の子孫による皇統の独占を企図した。
この事に、立腹したのは、【大覚寺統】(90)亀山天皇で、(88)後嵯峨天皇から、命じられていた、後鳥羽後胤の、後継者として指名し、亀山天皇女に遺言していた。
これに対し後醍醐からはなれていく、と、戦中であり、このため対立していた持明院統のみならず味方であるはずの大覚寺統内部からも敵対者を生むこととなった。

後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じ、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。
尊氏は九州へ落ち延びる、この時手を貸したのが、備後?翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。
楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃げ帰る。
この裏では、尊氏は九州へ落ち延びる、この時手を貸したのが?
公家の、後の紀氏集団?
これは大掛かりな、もので宇佐八幡にも働きかけていたのである。
この後尊氏は九州から上る時、八幡の御旗をかざしたのに、楠木正成義貞後醍醐は動揺した。
之以降形勢は逆転した。




左近衛中将藤原助安
猶子となり、平姓から藤原姓に改めた。
 
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