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大織冠鎌足胤宮下野守兼信

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)09時33分30秒
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  宮下野権守盛重
宮下野守兼信

大織冠鎌足二十三代
宮左馬頭正信(太郎左衛門)
下野判官 從五位下
此代迄公家ニ而侯処、応長元年賜備後國守護職、
下向彼國號宮殿、弓馬達人也
元弘弐年死、六拾六歳
宮下野守兼信 従四位下 後入道
從此代武家改之也、亀地山之城主也、
尊氏公之時賜案堵之御判兼信・氏信、元弘より永和ニ至り
父子数年関東帝都五畿西国所々合戦軍功抽群
宮下野守氏信 從四位下 始下野次郎
氏信者尊氏公御味方、忠節依御感氏之字頂戴、
猶子之御契約、氏信一代賜源姓、
被補御一門之列賜屋形號、宮屋形是也
康応元年死、八十歳

亀寿山城を本拠地として、備後南部に勢力をもっていた国人
領主の「宮氏」や、相方城より南を本拠地としていた宮氏一族の「有地氏」などにより、16世紀前半には中世山城とし
て整備されていた。
天文21年(1552)に宮氏が滅んだ
http://www.geocities.jp/hadoukenkou/page012.html

備後宮氏の本城として有名な亀寿山城跡
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/010/index.html
貞治元(一三六二)年から翌年にかけて行われた「備後宮内合戦」
貞治二年春、道仙の嫡子下野次郎氏信に敗れた直冬は備後を没落し行方知れずと成った。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/010/index.html
幕府もこの宮氏の働きを高く評価し、道仙を備中国の守護職に命じた
子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持った
備後の宮下野守兼信、左右
に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入ける
こそ、いかめしかりし行迹なれ。
太平記(国民文庫) 太平記巻第二十二 畑六郎左衛門事 S2201 去程

http://www.j-texts.com/taihei/tk022.html

越前守満盛下野守満重
小野宮下野守盛重→式部大輔師盛→越前守満盛→刑部大輔満重→新五郎元盛→左衛門佐
教元→下野守政盛→新五郎親忠. これは他の各種文献に登場する宮氏の実名

宮修理亮藤原満盛

小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛越前守満盛下野守満重下野守元盛駿河守教元下野守政盛親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

小野宮下野守盛重式部大輔師盛越前守満盛刑部大輔満重新五郎元盛左衛門佐教元下野守政盛新五郎親忠


越前福井
越前・加賀の利仁流藤原氏などの諸氏の系譜となっている。
佐久間信盛失脚後水野忠政4男水野忠守が緒川水野忠政9男水野忠重は刈谷の旧領に復した。忠重は織田信雄に仕えた後、刈谷城主として豊臣秀吉の家臣となる。1600年、関ヶ原の合戦の直前に石田三成方に殺害されるが、その子水野勝成と水野忠清は直臣として家康に仕え、勝成が備後福山藩・下総結城藩水野家の祖、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となる。また水野忠政4男水野忠守は出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政8男水野忠分の子水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

父は越前守満盛甚九郎満盛で、岡山に生まれた。 天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安となった。

児島高徳五代左近衛中将藤原助安系譜 児島系譜帳 児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー甚九郎文八ー甚九郎某

満盛の満は源氏の満からきている。尊氏によるところの号からきているのだろう。
子甚九郎助安は、天皇の拝名から藤原と号している。
 
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