|
|
《神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)二月》九年春二月。足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不従神教而早崩以為。知所崇之神。欲求財宝国。是以。《神功皇后巻首》日本書紀巻第九
令撃熊襲国。未経浹辰、而自服焉。且荷持田村〈 荷持。此云能登利。 〉有羽白熊鷲者。其為人強健。亦身有翼。能飛以高翔。是以不従皇命。毎略盗人民。
《神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月戊子(十七)》戊子。皇后欲撃熊鷲、而自橿日宮遷于松峡宮。時飄風忽起。御笠堕風。故時人号其処曰御笠也。
《神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月辛卯(二十)》辛卯。至層増岐野、即挙兵撃羽白熊鷲而滅之。謂左右曰。取得熊鷲、我心則安。故号其処曰安也。
仲哀天皇は新羅と羽白熊鷲のどちらを先に攻めるかで意見が対立
仲哀天皇は新羅などここから見えない、もっと現実的な羽白熊鷲攻撃から開始すべきだと主張して譲りませんでした。神功皇后はここから真北に進めば私の母国があると進言しました。仲哀天皇はその夜亡くなりました。
と、物語のくだり、であるが、
ここに邪悪心が出ているのに、注目しましょう。
神功皇后はここから真北に進めば私の母国
としている。
ところは、ここで神功皇后のどころ、を明かしています。
「郷土の豪族・羽白熊鷲は逆賊か?」
砥上岳
神功皇后が武運を祈るために登ったというこの山には山頂の「武宮」をはじめ「かぶと石」「みそぎの原」や「ひづめ石」など神功皇后関連の話が伝わる。「砥上」は兵士が武器を砥いだことからこの名になったと言い、この地の「夜須(やす)」は、神功皇后が羽白熊鷲を討って「心安らかになった」と言ったことから名づけられたという。
福岡県朝倉郡夜須町
とここまでで、見る限りでは、朝倉郡夜須町が舞台となっています。
この舞台がやまたい、という言語です。
いろいろと、場所探しは邪馬台国は何処かにあるとされていたが、本はこの朝倉郡夜須町が舞台です。
特に松峡宮の項は、
「多氏古事記」中でウガヤ王が君臨したと、記されています。
この書物が読めない人ばかり、で現実に証明できる裏づけは、誰も歴研会以外には、いないでしょう。
裏返せば日本の歴史も同様なのです。
それは「古事記」に従うほかは、何もないのですから。
荷持田村(ノトリタノフレ[甘木市野鳥])から鬼ヶ城山(甘木市荷原)にかけ
た山間部を根拠地に勢力を有していた。
神功皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、
砥上岳(朝倉郡夜須町)の南麓に中宿 (本陣)が置かれた(中津屋神社)。 と舞台は夜須町でした。
これで邪馬台国は何処かわかります。
町名の由来
日本書記によると、神功皇后が甘木朝倉の強力な豪族(羽白熊鷲)を倒したその安堵感からこの地で「我が心安し」と言われた「安」に由来するものだと語りつがれています。
荷持田村(のとりたのふれ)/羽白熊鷲(はしろくまし)
荷持田村とは現秋月のことです。
ここは昔のそしられ、単語から付けられている。
そしられとは=邪悪
伊都県主や岡県主熊鰐、夜須郡の羽白熊鷲など北九州に熊襲の伝承
熊=邪悪地 先住の呉人
荷持田村(のとりたのふれ)に住む羽白熊鷲(はしろくまわし)
南北朝時代に成立したといわれる「神道集」や、「諏訪大明神絵詞」では、「悪路王」と同類比。
熊鷲を取りえて我が心即ち安
有羽白熊鷲者。其爲人強健。亦身有翼。能飛以高翔。是以不從皇命。毎略盜人民。とあるのを、
筑前町教育委員会は毎略盜人民。とあるのを善人としている。
取得熊鷲我心則安。故號其處曰安也。
ここでの、安は安心の安。
地名の起こりは、「古事記神話」とは類比するが、ウガヤとは、天の神の総称であるから、真蹟は雲南省の会稽の王の後胤が、住んだところ、から、名づけられた地名である。
ここで羽白熊鷲とは邪悪な、地のこと、を表現する。
ここでの邪悪とは未開地という意味である。
神宮皇后であるが太一とか、天神とかウガヤとかに類比。
これは神という原語。
|
|