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やすみしし,わごおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,
ゆふべには,いよりたたしし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり,
あさがりに,いまたたすらし,
ゆふがりに,いまたたすらし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり
たまきはる,うちのおほのに,うまなめて,あさふますらむ,そのくさふかの
やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ
夕にはい寄り立たしし
御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり
朝猟に今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
(原文)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃音為奈里
やす(夜須)み(見)しし 我が舒明天皇大君(天子)
天皇か君と呼んでいたのでしょうか?「おおきみ」と「天皇」の違い
http://6102.teacup.com/sankaku/bbs
中国皇帝が天子と呼ばれたか否かは知りませんが天子が正式名称だったの >ですか?
答えはいいえ。
九州とは、元々は中国の言葉だということです。
中国には「天子は天の命によりその地位にあり、徳を失い天から 見放された王朝を廃すことは天の命を革めることだ」とある
封建制度では王の王(将軍)と、王(豪族とか大名)と、その豪族に直属する国民と言う3種類で国家が構築されております。
明治以降から現代は中央集権憲法国家では天皇とそれに直属する国民きりおりません
西洋ではその根拠を「神の下に平等」などと分けの判らない神なる概念を引っ張り出さなければ説明出来ないのです。日本でも明治以降から現代は同じです。
平等という概念を西洋に教わることなく、自前の千年にもわたる歴史から手に入れてきたのです。日本人の持っている徹底した平等意識は、アメリカを含め何処の国より優れていたのです。明治以降これは廃止されました
外国の支配は必ず自分に都合の良い法律と暴力組織を必要とします。
日本国民にとって今後天皇制は取り返しのつかないくらいの害になってしまう可能性すら考えられます
権力を手放し、権威のみの存在となったなぜなら、万民が納得する理由が必要だから。
皇室に兵権を持っていない。禁軍、近衛師団が無い。
天皇制
このなぞを解く鍵は天皇制のもとになった中国との比較からはじめなければなりません、
中国には「天子は天の命によりその地位にあり、徳を失い天から見放された王朝を廃すことは天の命を革めることだ」という。
日本はあっさり徳を失い天から見放された、変わりにと西洋方式の憲法を取り入れた。明治革命とはそういうこと。中央集権憲法国家で、万民が納得する理由が必要。神は無用とした。
憲法とは万民が納得する理由が必要、そういう、ものである。
王朝が起こっては消えてゆく王朝革命交代理論がありました
「神聖王」としての役割がいかなり「困難」
中国の皇帝は「天の命により天下を治めることを認められた徳のある人物」であり, つまりは「神の代理人」です.
日本の天皇は天照大神を祖とする「神の末裔」でしたが?明治以降からは違います。
大室海賊の流れが中央集権憲法国家で、万民が納得する理由が必要と支配しています。
(自分が「神の末裔」でなければ) 天皇の代わりになれないわけです
日本において「神の末裔」と「認定」されていたのは、後白河から使命された後鳥羽院の流れだけです。
現代では国民の総意が求められて、皇室会議にかけられて、民が決めています。
閑院宮家の侍医であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。書き残した日記の残片を、見つけ出し、読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、「これは大変な事だ。誰にもこんな事を話してはいけないよ」
と念を押し、判読を中絶してしまったのである。
幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。
駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったしかし、その公卿は一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした
座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。
医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。
仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された。
手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。
かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。
閑院宮家の侍医に、菅修次郎と云う中国人の医者(本名・菅之修)がいる。
計画したのは岩倉具視と閑院宮家そのものである。明治天皇と関係している。
菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いている。
NHK連続ドラマ篤姫でも、宮内庁に口止めされた形跡が出た?
桂小五郎が傍で見取ったように、作者が書き直していたのが、許せないと思った。
日本の歴史はこれと同じく書き直されていて、歴史ではないのです。
閑院宮家の侍医土肥一十郎(春耕)と云う、作家・南条範夫氏の母方の祖父
屋敷には、「熟知の同業者が顔面蒼白となって座して」いたというから、或いは先の菅修次郎だったのかもしれない。
横たわっている男ににじりよって見ると、「白羽二重の寝衣や敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至る迄、赤黒い血潮にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早手の下しようもない」状態だった。
維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎と云う人がいた。その人が私に『それ(孝明暗殺)は本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』といった事がある。岩倉は自分の妹(義妹の堀河紀子)を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を風呂場で殺したと云う。更にその妹はその直後に薩藩の浪人によって殺されたと云う事である。岩倉は死ぬ時、『俺の家は女で祟るぞ』といったと云う話がある。
植村氏は若い頃、京都のある未亡人の家に行った所、菊の紋章に付いた置物等を持っているので、その理由を問うた所、『自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷付いた体を診察した為、記念として頂戴したものだ』と語ったと云う
天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑った
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/koumeitennnouheikaansatu1.html
人物の死因を毒殺に求めるのは、、東洋諸国ではごくありふれた事であり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋(慶喜)によって(他の文献では、「の為に」と書いてある!
サトウは、事柄の性質上、孝明天皇の「毒殺」を教えてくれた「ある日本人」の名前を記録していないし、サトウがそれを聞いたのは、天皇崩御の「当時」ではなく、「数年後」、即ち倒幕勢力が政権を獲得したあとである、明治年間の事である。
アーネス・サトウは、「孝明天皇陛下が刺殺された」事実を隠す為に、毒殺の偽情報を流し、フリーメーソンの本部である英国が、伊藤博文を使っての刺殺の事実を隠す為に行ったでしょう。
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