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越王勾践の父、允常の墓

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2012年 4月18日(水)17時14分25秒
編集済
  浙江省紹興 印山越王大墓
http://www.cpcjapan.com/china/history/iseki/photo1/inzan_etsuoubo_enter001.html

紹興・印山越王大墓(春秋時代の越王勾践の父、允常の墓)


紹興・越王関連の地(春秋時代の越王関連地)《越王台・越王殿》
http://www.cpcjapan.com/china/history/iseki/iseki.html

http://www.esgweb.net/Article/Class58/Class124/guzhen/200810/40290.htm
須恵器の発祥地

児島宮に、奉献しないと、すべて捏造となるでしょう、証拠は児島宮にしかない。
邪馬台を日本で紹介した児島宮は、日本の歴史の証です。

児島宮歴研会による調査報告|福建省琅邪港から船出した http://lekken.progoo.com/bbs/lekken_tree_r_321.html

福建省永定の客家土楼巡り. 中国南西部、福建・広東両省の省境近くの 山間地。
茶の発祥地
重源上人や栄西上人も訪れ、容器を夜須に持ち帰っていた、夜須から歴史資料館に保管し、未発表のままにされている。西谷正さんは、?

武夷鳥 ・天夷鳥は越王勾践の子孫が福建省の城村に武夷宮を建てた、トーテム武夷鳥 は、神にましませば、である。 持って来たの意が鳥命という。 日本人が素直から、歪ん で、ブレて解釈するようになった。 鳥命という用語解説トーテムは持って来たという意味

http://6309.teacup.com/kobutu/bbs/592

二つの竜窯 - 『人民中国』越国の王城跡そばの古粤城村 ?越国の王城跡から出土
http://www.peopleschina.com/maindoc/html/guanguang/yichan/200303/yichan.htm

中国文明の全ては、
児島宮先祖にあり。

武夷山は福建省の北部に位置し、古来山水画を思わせるしっとりとした『もう一つの桂林 』と称えられている。 ... 武夷山で10余キロ離れている城村古代漢城遺跡は江南地区で 今まで保存された遺跡の中で、もっとも完全で文物出土が多い漢時代の都市http://www.fjkhly.com/aboutus.asp?typeid=3

福建省武夷山に移って、からは、城村に武夷宮を、. 移し、漢の武帝紀元前111年迄、 ここを都としていた。 武夷山は茶が有名でこの時期から、あったものと判る。 下水道が 完備していて、登り窯龍窯で、マツリの為の土器と宮殿の瓦等を焼いていた。
http://d.hatena.ne.jp/muoon/20111204

近年の 研究により、中国福建省平和県田抗で交趾の古窯が発見されているhttp://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_ko.html

考古学のおやつ
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000b_b.html
東京国立博物館保管青磁獣脚硯

天子とは、夏后(夏王朝の姒)越王祖=雲南福建省の会稽である。http://www2.ezbbs.net/22/yasumati/

龍泉窯は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する 龍泉県に窯が集中し、大窯、金村、渓口、王湖、安福、安仁口、梧桐口、周垟、王庄、道 太、小白岸、楊梅嶺、王石坑、坳頭、新亭、岱根など二十数カ所の窯が分かれている。

弘法大師が1200年前漂着した中国、福建省霞浦、赤岸村に到着した。いや桓武天皇のもとめに応じた。

児島宮先祖桓武天皇である。明治天皇は桓武天皇墓を壊して、そこに大室寅吉墓とした。桓武天皇墓石は近く境内に放置されている。

憎むべきは、在日韓国北朝鮮人の山口田布施村マンジュの大室寅吉明治天皇と以降の偽天皇である。
伊勢に入り込んだ?池田厚子?祭主に化けている?在日韓国北朝鮮人は日本人ではありません。
宮内庁から神社庁までトップは、在日韓国北朝鮮人だらけで、
日本は荒されている。


 

兔毫穴窯が明らかにする日本の歴史

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2012年 4月10日(火)12時46分1秒
編集済
  兔毫穴窯といえば、小隈穴窯は福建省の穴窯は共存している?

日本ではまで誰も、知らない?
それはまだ、日本の歴史が、解明されていない事を物語っている。
知っているのは?空想の域でしかないのです。
ん?空想の域?とは

それは照合できない日本の歴史ということ?
たとえば、
日本の土器にしても、日本で始まっては、いないのです。
縄文土偶にしても、日本で始まっては、いないのです。
それで照合できない、それを相対性論理という。

今までの日本の歴史は、根底から、間違っている?
それは朝鮮半島から移ってきたという説に、なっていたのでは?遭遇すら、相対しない?
いわれていた、朝鮮半島土器は、百済新羅で、
作られ、九州に運ばれてきたと、歴史書に記している。

児島宮歴研会が出版した、「豊葦原の国から、邪馬台国夜須へ」が、始めて、古代中国の福建省の都との、相対性を、
明らかに示したのが始まりで、今も不透明のままである。
つまり照合によって、貝合わせ方式で、解明しか、出来ないのである。

貝合わせ方式で、検証解明してみよう?
地名が消えた?筑前町事旧夜須町と、会稽安邑の二件を、
「豊葦原の国から、邪馬台国夜須へ」で取り上げたのが、
貝合わせ方式、夜須の昔は安村で呼ばれていて、
安村「四字熟語」では、福建省の都安邑とは、同じである。

祝詞でも安と詠っているのは、相対性を、表わしているのです。

そこで福建省の歴史を深く掘り下げていくと、「夏王朝」、「豊葦原の国から、邪馬台国夜須へ」記載
この頃に、中国福建省の調査が始まり、中華民国も、神話の中とばかり、と述べている、思っていたが、
調査により?」、「豊葦原の国から、邪馬台国夜須へ」手本として、、調査が試まれたのであろう。

証拠は立証できるモノが、相関しないと、立証は不可能である、今の歴史でも、立証は不可能である。
参考貝合わせ方式

金海式土器は、古代をにぎわさせていた。
今までは、ここが、土器のはじめであるとしていた。無論穴窯ではなく、野焼き土器とされていた。
ここが異なる場面であった?そんなもの縄文、弥生年代は一千年さかのぼる説、は関係がなかったのである。この時点では、困難であった。

 

太一と日本

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2012年 2月15日(水)19時09分55秒
  太一とは、
中国の古代思想で、天地・万物の生じる根源。
宇宙の本体。 2 天を主宰する神の名。
古代中国、特に
漢代に崇拝された。 3 「太一星」に同じ。

誰によるものか?
夏王朝の姒あね

越王勾践の流れ也り。


 

こうがいをつくる、しわす

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2011年12月 4日(日)13時37分18秒
編集済
  こうがいをつくる
まとめることの語源こうがいという。
しわすとは?ご恩にむくいる、ことを、わす。
ご恩にご報謝願います。賽銭

しめなわをとりつける、わす。

昔、神社やお寺では近在の家々を回ってお札を配って「寄付」などを集めていました。
この仕事をする人たちを「御師(おんし)・祈祷御師(きとうおんし)」と呼んでいたそうです。
つまり、正月(睦月)の前の月=御師が町中を走り回るようになる=師が走る=師走、と言うようになったようです。

風習から、その、しわすが、読み取れる。
恩に誰の恩に?むくいる事から、お歳暮に、走りまわる事から、師の恩に、和語わすという。

こりように、
九州制度と王の恩にむくい、て、いない現代には、通用しないことば。逆凛月
しめなわ、を、
取り付けるのは、これで終わりとしたことば。

恩にむくいなければ、無意味である、しわす。

クリスマスなんて外道のすること。

しわすとは?古代より、師の恩にむくいることである。

神社で賽銭する事はしわす、の由来。

願うことは逆送することで、逆鱗にふれる。
来年もしあわせでと、願うことは、禁句である、今までの前年の恩にむくいるというのが、賽銭する事はしわす、の由来。

「ひの丸の発祥は児島宮」

日、太陽に、感謝するのが、新年の由来です、しわす、の由来。

しわすとは?日の丸恩にむくいることである。

まちがえて、いませんか?


あらわす、恩をあらわす、の、わすである。
あら【粗】
「粗糠(あらぬか)」に同じ。
し、とは?学問・道徳・恩










 

天孫は朝倉の地夜須に、児島台、を建て、児島宮とした

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2011年10月15日(土)09時09分34秒
編集済
  天孫は朝倉の地夜須に、児島台、を建て、児島宮とした。
児島台と、基準のことで、神の地のことを謂う。
児島台におろし、降臨したのは、宮家でしか、まつりごとは、八千年前の古代より、伝わる祭礼の事。
台は太一なり、これは宇宙の構造、から、一つしかないという事である。
神社だか、なんでも、
台では、ないのです。

伊勢が古代は太一としたのは、時代が基準台と、なっていたという事です。

天孫の意味が、この太一(台)まつりごとで、夏王朝の構造の基準のことで、神の地会稽やす邑のことを謂う。

天皇とは?民族すべて、種族であっても、
天皇とはただ、夏王朝の、
後胤でなくては、宮の号、名乗れないのです。
宮の号は太一(台)なり、その先は、越王にて、福建省の越王台をいう。皆宮の号は太一(台)なり。
天孫とは?
宮の号は太一(台)なり、その先は、越王にて、福建省の越王台をいう。皆宮の号は太一(台)なり。
天孫とは?

天皇の系統がすべ、太一とは、ならない?太一とはその先「夏后」似て、三皇なり。

「児島台由来」
之、宇宙の構、の一なり。
似て天孫と「天のみなかぬし」号する。
児島台は日本の、いしずえ、似て、之を表わす、児島台は→佐久間信盛愛知広瀬→愛知児島高徳広瀬→後鳥羽京→後白河京→桓武→天智→舒明は平山なり→神武→ウガヤ丑王は平山なり→その先は越王勾践なり→その先は禹なり→その先は天孫という。

児島台さんの人運は24画の大吉! 金運 順調 家庭
運 興産 柔軟性 財成 創造. 性格や才能などを表す2番目に重要な運勢です。
児島台さんの総運は32画の5点の大吉! 柔軟性があり成功する。

児島宮は邪馬台の越王台

太一の用語解説 - 1 中国の古代思想で、天地・万物の生じる根源。
宇宙の本体。 2 天を主宰する神の名。北極星の神格化されたもので、古代中国、特に
漢代に崇拝された。 3 「太一星」に同じ。
たいいつ‐せい 【太一星】
中国の天文学で、北極星をさす。ただし、古代では、北極星ではなく、小熊座β(ベータ)星が太一2の居所と考えられた。
2 陰陽道(おんようどう)で、北天を運行して兵乱・禍災・生死をつかさどるという星。

し‐び 【紫微】

《「紫微垣(しびえん)」の略》中国古代の天文学で、天を三垣(えん)二八宿に分けた、その一。北極星を中心とした、小熊座・大熊座・竜座・カシオペヤ座などの星座群にあたり、天帝の住む場所とされた。転じて、天子・天位・宮廷を示す。紫微宮。

http://kotobank.jp/word/%E7%B4%AB%E5%BE%AE

てん‐てい 【天帝】
古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。

きゅう‐てい 【宮廷】
天子の居所。








 

日本の解明は、整合性の観点からつながる

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2011年10月 6日(木)14時02分15秒
編集済
  日本の解明は、整合性の観点からつながる?

日本は、はじめ、重複から始まる。
日本が始まる以前、
古代中国に、二つの民族が、ありました、夏王朝民族と臣下倭族で、始まっている。

時の経過と共に、夏王朝民族が台から、下がり、臣下倭族集団を殷王朝になりました。
殷王朝肘王の時、夏王朝民族の娘皇女が臣下倭族集団の周国の長男大伯に、くだされ、
周国の武王が、殷王肘王の悪政を倒し、呉国が始まりました。
武王には子が出来なかった為に、
長男大伯の子が周国の次の王になり、春秋時代となりました。

呉越同舟とは、むすばれ、つながり、で、こう呼ばれていました。
えっどちらが?↑でどちらが↓かって?
はじめ、はどちらでしょう?


古代中国は七つの国に分かれていました。戦国七雄といいます。

ここで、
日本は、に移ります。
時期は秦の時代、越国と秦の始皇帝に二つの王国がありました、このうち、
越国は、姒越王勾践の流れの、ビン越という国は、夏王朝流れで、呉民族の秦王、の時代紀元前二百年前、の事です。


時期は漢の時代、漢祖は、民間人で酒が好物で荒くれた、劉邦という人物が、
代頭していた時、楚という国が、あろうことか、
越王勾践の流れの越国を倒してしまいました。
これが、後に、始皇帝の時、
ビン越が楚国を殲滅させたので、
この時豊臣秀吉の時と同じ、よこ入りしたのが、
劉邦で、越国に恩を受けたと記している。

漢祖劉邦から何代か後、に武帝なるものが、後漢に王座についていた。
この時期、武帝は、南越王に、従属しなかった南越に、手を妬いていた、
そこで、東越王に、鎮めてといいました。
東越王と南越王は対戦となり、
南越王は東越王に、組み入れられ、百越民が集まり、ビン越としました。

この百越民が集まり、ビン越は越王の時より、福建省の武夷山の麓に、宮殿、があり、ここから中国の中心国家に、なっていたのが、欲の深い漢民族、武帝は、
攻め入り、倒しました。
東越王丑王は、戦闘に加担していなかったので、
こうじゅんの間に、移動せよと、命じたが、
福建省の武夷山百越民は、船で、東夷の国に、
移動中、結ばれたのが、古朝鮮の呉族豊玉姫と玉依姫の居た、新羅でした。
連れてきた土地がはじまり、なので、この土地を筑紫島と名づけます。
干潟はそのなごり、上陸地点となりました。

筑紫の日の差す場所を、小戸といいました。
そして大木原(夜須竹枝)に、祠を建てたとあります。349の地
大木原の川を中心に南北にわけて、北方に筑紫城宮を建てたとあります。
北方に筑紫城宮の場所を、見つけるのは、違い山の形の砥上山の麗にあります。
赤楠の船が、出たことから、
はじまりの、ちくし都となりました。










 

簪(かんざし)の使い方

 投稿者:児島宮暦研会著作製作  投稿日:2011年 9月17日(土)11時48分55秒
  かんざし
http://www.youtube.com/watch?v=__Qr_-vpPi0

越式簪(かんざし)の使い方

角飾り, 頭飾り

 

正式な冠や笄

 投稿者:児島宮暦研会著作製作  投稿日:2011年 9月17日(土)10時57分49秒
編集済
  こうがい元は中国のもの笄。
髷を形作る装飾的な結髪用具。
成人女性として扱われることも多く、笄で結い始める時の儀式である「笄礼」(けいれい)

おひめさまの着ける笄

正式な冠や笄

冕冠もしくは冕(べん)とは、もと中国に由来する冠の一種で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した。

子を言ふ男愚女醜稟天姿 男は愚、女は醜なるは天に稟うくる姿依礼冠笄共失時 礼。

礼に依る冠笄カンケイ、共に時を失ふ
笄年(ケイネン)」という言葉があり、はじめて髪に笄を挿す年齢、女子の成人となる十五
歳、また女子の結婚適齢期をいった。

成年に達すること、
男女の成年式の意で、女子は十五歳で笄を挿し、男子は二十歳で冠をつけた。

皇帝がかぶっている

広さ7寸、長さ1尺2寸、前はまるく後ろが四角いという形で、色は表が黒、裏は朱色か緑です。前4寸、後ろ3寸垂れます(どこがだろう?玉飾り?)。
前後についている玉飾りは、身分によって数が異なります。

皇帝…白玉で(前後各)12本

http://m-mikio.world.coocan.jp/koreatuukagirei.htm

角かくし
日本的な高い髷(まげ)を結った髪の上に、頭を覆う形で被る。
角かくしは、文字どおり「角」(気性の激しいところ)を隠す意味合いから
つけられた名称です。
角隠し(つのかくし)の意味・語源・由来
女の生霊が嫉妬で
鬼形になることから、また怒りの形相が角を生やした鬼に似ていることから、「つの(角)」
という語は女性の嫉妬や怒りのたとえに用いられた。 角の意味から見た場合、被る。越式








 

越語竹枝(筑紫)越族がなづけた地名

 投稿者:児島宮暦研会著作製作  投稿日:2011年 7月23日(土)19時34分1秒
編集済
  越語竹枝
竹枝 人を絆(むす)ぶこと
深く女兒, 越の羅 萬丈なれど竹枝 表(おもて)の 長(たけ)は 尋(一ひろ)女兒。

竹枝の体製、或は七言絶句の詩の如く、或は平仄に拘らず、5)ヨウタイの絶句の如く、而して其の風骨は、地に係けて情を言ひ、質俚に繊巧を寓し、放蕩にして而も6)オンシャなるを尚ぶ、堂々たる風雅の作にあらずと雖、才子慧媛にあらざるよりは未だ必ずしも為し易からざるなり。(「楼船断橋」P178)

越(えつ)の羅(うすぎぬ)萬丈(ばんじょう)なれど
表(おもて)の長(たけ)は尋(一ひろ)

《越女剣》手中竹枝迎掬而出

夜唱竹枝後;夜になって竹枝の歌を歌ったあと。
天人竹枝

越波乱万丈(竹枝)高的竹枝、《竹枝歌》

ちくしは、越族がなづけた地名で、竹枝 人を絆(むす)ぶことの意味。

その地の歌にひかれて作った「竹枝詞」に始まる。
ちくしのひむかの、たちばなの詞。原初のこと。

ここで(竹枝)と(女児)は「和声」といって、定型の合いの手である。

まだ誰も知らない、日本のなりたち?
原初が、まだ判明していないので、歴史は混迷している?
日本人はこれまでだと、
朝鮮半島から移ってきたという説になっていて、
考古学すら範囲内で書かれている。

「記紀」が日本で最初に書かれた書物であるが、
日本の原初には触れて、いません。
はじめは神話、で、天智天皇の時から編纂され、持統天皇に完成、していました。
『古事記』『日本書紀』の編纂も時を同じくして作られた。
いくら紐解いても、
原初には、いきつかないのが、現状である。
わが国の建国さえも、
今村峯男氏の炭素測定によるもので、
弥生時代は一千年さかのぼると、千葉の「日本国立歴史博物館」による、学問から域を抜けた説は、
考古学会では認められていません。

この頃、千葉の「日本国立歴史博物館」の今村峯男氏の、電話で、著者自が、何回か応対していただいた、
事が、考古学整合性の紐解き、になったのは、
いうまでもありません。
当時別府大学考古学の工藤啓二教授、佐賀教育委員会の七田氏、伊都博物館館長、九州大学名誉教授
と、電話に応対していただいた事が、
日本の歴史の本当の夜明けとなりました。

ここからが、「記紀」中の武夷鳥、の
整合性、相関や対等の幕開、となり、日本の祭祀土器と福建省「武夷宮」と自の証となりました。

これにより、
朝鮮半島から移ってきたという説が一般的になっていたのです。
古田武彦氏や安本美典氏、も「日本国立歴史博物館」から敬遠されていたが、
双方の説は、北部九州説の邪馬台国、の推定を中心とした説で、
日本の歴史の原初には、
至りませんでした。
古田武彦氏や安本美典氏、も、どちらかといえば?
朝鮮半島から移ってきたという説になっていました。

このうち、古田武彦氏に、電話で、著者自が、何回か質問し、話しあったことが、
邪馬台国の謎解きでした。
やはり、邪馬台国なしでは、
日本の解明は、整合性の観点から、
一神社の祭主説では、祭主原初本人は、判っていても、
みとめて、もらうに、は、いかなかったようです。

そうするうちに、
インターネット、が日本に普及しました、ここにようやく、
憲法に似る凝固から、ときはなたれ、てのが功を奏しました。
これでようやく、
日本の祭主原初本人の事が、判ってもらうには、
十一年の時が、流れました。
「大論争」というサイトで、
十一年前に、対立したのも、掲示板に、書き込んで、ありえないと一括されていました。
この時点といえば、
「日本国立歴史博物館」に凝固されていた、ので、
日本の歴史の原初には、
至りませんでした。

インターネット上で、著者一神社の祭主説では、
日本の歴史の原初の解説、はもっぱら、
邪馬台国の王は卑弥呼ではなかったが、
題【テーマー)で、解説しホームページと掲示板で、十一年間書き上げていました。
自は、日本の原初が、知り尽くしていましたので、
迷ったり悩んだことは、ありませんでした。

自は、自の、たちばが、優位にあって、
紫野大徳寺が、自の証でした。
自は、自の、たちばを、隠してばかりで、国民の前では、証には、ならならと、心にむち打って、
次第に、インターネット上で、証しました。
ここからは、すべての整合性、相関や対等、になっていない、
国民の側からは、小説域になってしまう事は気づいていた。

「すごろく」「歌合」「相撲」を整合性、相関や対等、のたとえ、にして、
解説していました。
そんなうちに、「早稲田大学考古学」が、インターネット上で目、つけたのでしょうか?
それは日本の歴史の原初の解説に整合性、証となり、かぼと、遺蹟の、発掘調査、に至ったのです。
この時から「天文学」が、僅かでした、
「天文学」サイト、が、インターネット上で見受けられました。

中華民国では神話の域が、
「早稲田大学考古学」の働きかけで、遺蹟の、発掘調査、で現実に取り扱われるようになったのは、四年位前が原初でした。
「早稲田大学考古学」意図は何か?それは、著者一神社の祭主と、相関関係は、なかったのです?
ただ単に、今までに解明出来なかった原初は、自一神社の祭主の証なくては、「早稲田大学考古学」の働きかけで、遺蹟の、
発掘調査、に、こぎつけなかった、でしょう。
すべて、ほんとうで、なくては、なにもないのです。
「早稲田大学考古学」の、【河姆渡遺跡】かぼと遺蹟の、発掘調査、働きかけは感謝しますが、事実はあくまでも、別です。
今までに日本の原初が解明できなかったのは?
1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき )
http://archives.chikyu.ac.jp/archives/AnnualReport/Viewer.do?prkbn=R&jekbn=J&id=87
早稲田大学考古学は何故?千葉の「日本国立歴史博物館」に凝縮されていた?
早稲田大学考古学は稲の籾からとしている、だけで、整合性は、世界各地へ、いくつもあり、日本との整合性は、
これで、ない?
日本との整合性は?自しか出来ない?

東京大学公開講座75「ヒト、人、人間」では植田信太郎さんも「DNAから見た日本人 」斉藤成也さんと同じで、山東半島の ... を経由して中国(河姆渡遺跡)、日本(鳥浜、 大坪貝塚)に及ぶとの指摘あり域か?http://osouji60.seesaa.net/index-5.html
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=90756

(河姆渡遺跡)、と日本のつながりは、証明出来ません?
何故か殷かある?
決定的なのは、(河姆渡遺跡)、と日本のつながりは、証拠が、まだ解明されていない?

それと、自の証となりました。

早稲田大学考古学の、(河姆渡遺跡)、と日本のつながり嘘が発覚した





越女王の復元図
 

平山は『夏后』後胤

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 6月30日(木)14時06分28秒
編集済
  平山は『夏后』後胤にあたる、それは夜須平山の姓が児島宮なのか、である。

平山について述べよう。
平山とは?
天空と書いてネットで検索すれば出てくるのは、平山の象形文字である。
又yme、でも出てくる、
このymeが天空である。

ここに出てくる相対、形象が、日本語の原形になっている。
これまで、
相対性、武夷山と「古事記」の武夷鳥命、があったとしてきたが、
ここ夜須、に、筑紫城『王の占い』とは?天文台が、松延に、越王丑によって築かれていた、が頑として、調査されていないのは、
今までの歴史が覆されるからである。

今までの歴史が覆されるという事は、今までは架空の、諸本となるからである。

これまでの夜須の調査と並びに、北部九州の遺蹟が、みな、揃って中国『夏后』ゆかりと、共通した土器しか出土しないからである。
歴史の原初は、ここ夜須から、始まっていた。

重ねて見る風習のビン越民、は、
丑王は、浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する城村城の王で、記録によれば、越王勾践の後胤としている。
写真で見ると、一本の道の南の直線にある、北の城村城の背面を見てみると、
児島宮神殿の背面の砥上山とそっくり、である。

児島に重なるのも、児島宮は後鳥羽天皇の息の名で頼任親王のことてある。
頼任親王の後胤が児島高徳で、『太平記』の作者である。
明治には架空とされた児島高徳、何故架空とされたのであろうか?
ここに答えが出ている?
今までの、天皇の歴史が、くつがえる、からである。

現代の皇室も、古来の天皇とは無関係となる。
ここに何故天皇と名乗っているのかが、
「帝国大学は」何故架空とされたのであろうか?
それは、児島高徳、と無関係になるからである。

なので『児島高徳』を、架空の人物として消滅させたのである。
が、おかしいことに、東郷元帥が明治天皇に従三位を与えさせたのに、は、
かすかに、出てくる時を想定したのであろう。
反逆者とならぬ、為である。

久米教授との著書の中にも、『児島高徳』を、抹消すれば、日本の歴史は、見えてこないからである。
その訳とは?
『児島高徳』や「佐久間信栄」ハビアンが、取り上げている天文学と、越王勾践が、日本の天皇の歴史にならなければ、
日本の実態は、なかった事になる。

「古事記」にも、
相対性、武夷山と「古事記」の武夷鳥命、があった。
ことば、にも、日本独特の相対がある。
「古事記」の武夷鳥命の解釈が依然として、されていない。

ここでは、武夷鳥命(ウガヤの相対名)を表わしている。「ひらやま」は、
鷲尾墳墓に埋葬されていた、平山御稜、と天皇系図に、書かれている。
平山の、いわれは、天空から神武が名づけた、神の形象である。

下の写真の越女王と判るのは、頭に三本足の冠は鳥の、越女王独特であった。
原初からこの鳥形の冠は、王のしるしと、
児島宮歴研会が発表する。
京都紫野大徳寺高桐院住職松長氏と児島宮後胤

 

相対性武夷山と古事記の武夷鳥命

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 6月 9日(木)10時21分26秒
  相対性、武夷山と「古事記」の武夷鳥命、があった。
ことば、にも、日本独特の相対がある。
「古事記」の武夷鳥命の解釈が依然として、されていない。

ここでは、武夷鳥命(ウガヤの相対名)を表わしている。「ひらやま」は、
鷲尾墳墓に埋葬されていた、平山御稜、と天皇系図に、書かれている。
平山の、いわれは、天空から神武が名づけた、神の形象である。

天空と書いてネットで検索すれば出てくるのは、平山の象形文字である。
又yme、でも出てくる、
このymeが天空である。

ここに出てくる相対、形象が、日本語の原形になっている。
中国中華は、漢文で、相対、形象が無いのは、
象形文字を解読できていなかったのである。
日本特有の日本語は、象形文字で生み出された「天皇による」、文字の始まりとなった。
「天皇による」、文字の始まりとなった。

漢文も『夏后』後胤、武夷鳥命(ウガヤの相対名)に「越王」よって、生み出した原形である。
古代中国で『夏后』によって、生み出された象形文字で、いろんな解釈も相対している。
ウガヤ王も象形文字で、いろんな解釈も相対している。
ウガヤ王が紀元前111~50存命中は、丑王である、
丑王は、浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する城村城の王で、記録によれば、越王勾践の後胤としている。





 

奏言群大領と天皇御領地

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 6月 9日(木)09時49分12秒
  (神功皇后)
卌六〔366〕年春三月乙亥朔、遣斯麻宿禰于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。於是、卓淳王末錦旱岐、告斯摩宿禰曰、甲子年七月中、百濟人久氐・彌州流・莫古三人、到於我土曰、百濟王、聞東方有日本貴國、而遣臣等、令朝其貴國。故求道路、以至于斯土。若能敎臣等、令通道路、則我王必深德君王。時謂久氐等曰、本聞東有貴國。然未曾有通、不知其道。唯海遠浪嶮。則乘大船、僅可得通。若雖有路津、何以得達耶。於是、久氐等曰、然即當今不得通也。不若、更還之備船舶、而後通矣。仍曰、若有貴國使人來、必應告吾國。如此乃還。爰斯摩宿禰即以傔人爾波移與卓淳人過古二人、遣于百濟國、慰勞其王。時百濟肖古王、深之歡喜、而厚遇焉。仍以五色綵絹各一匹、及角弓箭、并鐵鋋卌枚、幣爾波移。便復開寶藏、以示諸珍異曰、吾國多有是珍寶。欲貢貴國、不知道路。有志無從。然猶今付使者、尋貢獻耳。於是、爾波移奉事而還、告志摩宿禰。便自卓淳還之也。

日本の使者が卓淳でこの話しを聞き、さっそく使者を百済に派遣したというものである。卓淳も百済も日本を知らなかったことになる。
百済肖古王(このときは近肖古王である)
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note14.html

奏言群大領と天皇御領地本郡の大領を兼ね,試みに此郷の戸口を計る。
群臣奏言、
ここ夜須は昔より、祖武夷命の大領と、神功皇后は巡検している。地名は夏王朝時の福建省会稽の安邑に因み、名づけた地名である。

土着していた倭人、野鳥山頂に暮らしていた羽白熊鷲、の百姓の収獲した穀物を奪い盗りにくる、(後秋月)野鳥の、
盗賊を退治したことで、夜須と名づけたのは、「近年朝倉風土記」で、書かれた?地名とは、無関係で、(ならわし)習し、が、武夷命のように相対していなかった。
昔に因み名づけるのが、神のならわし、である。



敏達天皇
四年〔575〕(中略)二月(中略)乙丑、百濟遣使進調。多益恆歳。天皇、以新羅未建任那、詔皇子與大臣曰、莫懶懈於任那之事。

(四年〔575〕)夏四月乙酉朔庚寅、遣吉士金子、使於新羅。吉士木蓮子使於任那。吉士譯語彦使於百濟。

(四年〔575〕)六月、新羅遣使進調。多益常例。并進多々羅・須奈羅・和陀・發鬼、四邑之調。

發鬼は継体天皇23年〔529〕夏4月是月条の「上臣抄掠四村、【金官・背伐・安多・委陀、是爲四村。一本云、多々羅・須那羅・和多・費智爲四村也。】」の「多々羅・須那羅・和多・費智」http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note13.htmlリンク元

推古天皇
八年〔600〕春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。
○(八年〔600〕)是歳、命境部臣爲大將軍。以穗積臣爲副将軍。【並闕名。】則將萬餘衆、爲任那擊新羅。於是、直指新羅、以泛海往之。乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之擧白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々六城、以請服。時將軍共議曰、新羅知罪服之。強擊不可。則奏上。爰天皇更遣難波吉士神於新羅。復遣難波吉士木蓮子於任那。並檢校事状。爰新羅・任那、二國遣使貢調。仍奏表之曰、天上有神。地有天皇。除是二神、何亦有畏乎。自今以後、不有相攻。且不乾船柁。毎歳必朝。則遣使以召還將軍。將軍等至自新羅。即新羅亦侵任那。

継体天皇21年〔527〕夏6月までには失っていた南加羅もこのとき回復したのである。

十八年〔610〕(中略)秋七月、新羅使人沙[口彔]部奈末竹世士、與任那使人[口彔]部大舎首智買、到于筑紫。

『新唐書』には「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇〔581~600〕末、始與中國通」とある。

新羅は、任那は天皇の附庸国であるから領有することなどできないと日本の使者に答えるが、日本は新羅を襲撃し新羅は降服するのである。

新羅が、任那とともに日本に調を貢上する。

舒明天皇
十年〔638〕(中略)是歳、百濟新羅任那、並朝貢。
 新羅・任那に加え百済もともに朝貢してきた。

元年〔642〕(中略)二月(中略)戊申、饗高麗・百濟客於難波郡。詔大臣曰、以津守連大海可使於高麗。以國勝吉士水鷄可使於百濟。【水鷄、此云倶毘那。】以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。(中略)辛亥、饗高麗・百濟客。癸丑、高麗使人・百濟使人、並罷歸。

孝徳天皇
大化元年〔645〕秋七月(中略)丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平縁福、遇病留津館、而不入於京。巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。又詔於百濟使曰、明神御宇日本天皇詔旨、始我遠祖之世、以百濟國、爲内官家、譬如三絞之綱。中間以任那國、屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那國堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題國與所出調。




 

斎衛二年に前田臣市成が、奏言群大領は天皇御領地、であった

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 5月21日(土)12時56分10秒
編集済
  (朝廷)と官庁(官衙)は、同じ?
官衙(かんが)奈良・平安時代の群役所跡である。
『文徳天皇実録記』に、載せられている奈良時代の群役所跡である。
文徳天皇の代、嘉祥3年(850年)から天安2年(858年)までの8年間を扱う。略して文徳実録ともいう。
これによれば?
斎衛二年に前田臣市成が、奏言群大領という群があり?この奏言群大領守るのは、奈良宮廷から任された、と解るのが?
天皇御領地、であった事が、書かれている。

日本文徳天皇実録, 藤原基経・良香・良臣・菅原是善撰, 878年(元慶2)/文徳天皇時代8年半分の記録。
871年藤原基経らが撰して中絶、879年
菅原是善・都良香らが完成。文徳天皇一代の歴史を漢文・編年体で記述したもの。文徳実録。


前田臣市成は、菅原道真の祖であり、菅原家へ入り婿した事が知れる。
菅原是義の入り婿した事が知れる。
なので?
菅原道真の祖は、前田臣市成で、
奏言群大領(官衙)?に任地していたのである。

奏言群大領に(官衙)?は、果たして、あったのか?それは、『文徳天皇実録記』に、載せられているから、実在していたのであるが?様様にして、奏言群大領に(官衙)?は現在でも、
児島宮歴研会しか、解らない。
それは『児島宮系図』が明かすものとは?後鳥羽天皇や桓武天皇や天智天皇や神武天皇、を祖としている。
この中に?『文徳天皇実録記』が、事の成り行きを、明かしているのも、日本の歴史を、知るには、『児島宮系図』を、知らなくては、日本の歴史は浮かび、あがらない。
奏言群大領が天皇御領地としているのは?
筑前夜須郡『夜須」は、天空地帯で、ひらやまという?ウガヤの葬られた地は、ひらやま御稜となっている。
又これ前田臣に、かかわる、木簡が太宰府政庁跡の調査から、出土し、献納していた事、出土した、木簡で解った。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/maeda.html
古代筑紫の前田臣氏

藤原姓は菅原氏で、菅原道真が入り婿になっていた。


この平山御稜を、知るには、メソポタミアのウル王、が関係している。
ウル王はアナンヌキに、よって、つかされた、「文明のシンボル」から、つけられた名である。
「文明のシンボル」とは?
神の祭祀が、地球上で、始めて、行なわれたのが『ウル王朝』である。
王朝とは、神の祭祀であり、『その地を都」と、人々はよんだ。

筑前夜須郡『夜須」は、天空地帯で、ひらやまという、「神殿」児島宮が、日本の歴史を語る上での『神の祭祀のシンボル』で、なければ、歴史は空白となる。
天空地帯で、ひらやま、こそ、『奏言群大領が天皇御領地』でなければ、ならなかったのは、奈良・京都は古都と、される?基本が、なければ、ならぬ。

所謂相似していなければ、立証は成り立たないので?
奏言群大領が天皇御領地としていたのである。

天空地帯を、パソコン検索で、
すれば、ユメ、ひらやま、が邪馬台、である事、ユメ、Yum、が解る。台とは根源のことである。
天空地帯=Yum、が解る。台、『奏言群大領が天皇御領地』とは根源のことである。

根源=邪馬台

古代中国の古代文字、象形文字、が開かすのは?違い邪馬台のことである。

メソポタミアのウル王は鷲で表わされていて、ウガヤも鷲で表わされている鷲尾墳墓。


奈良・平安時代に編修された六つの官撰国史―日本書紀、続日本書紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録―を総称して「六国史」といいますが、その第5巻で、全部で10巻あります。

871年に、清和天皇が藤原基経、南淵年名、都良香、大江音人等に編纂を命じ、途中中断を経て、菅原是善を加えて879年に完成しました。

文徳天皇一代の8年間の歴史を漢文、編年体で記した歴史書で、「弘仁文化」から「貞観文化」への過渡期が描かれています。

「『日本三代実録』にみる貞観年間の地震・噴火・津波」
「貞観年間の地震」。貞観10(867)年頃から平安京では地震が頻発、播磨・摂津に大地震が起こり、陸奥の三陸沖には大地震・大津波が発生した。また、富士山や阿蘇山、鶴見岳(山麓には別府温泉がある)、さらには薩摩の開聞岳が次々と噴火し、九州に津波が押し寄せていた。
http://www.kyoto-minpo.net/event/archives/2011/04/30/post_3552.php

律令国家が編さん事業をおこなった正史
最古の地震は、そのうちの『日本書紀』に記された允恭(いんぎょう)5年(416)7月14日(新暦8月23日)に起こった地震です。
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/kikaku/19jisin/jisinsaigai.html

869年の貞観地震の後、887年に仁和地震(東海・東南海・南海連動型)が起きたという記録がある。



推古天皇7年(599)4月27日(新暦8月23日) 天武天皇13年(684)10月14日(新暦5月27日)
・続日本紀(150-172) 霊亀元年(715)5月25日(新暦7月5日) 天平17年4月27日(新暦6月5日)

藤原不比等(659年から720年)

720年. 西暦720年、日本書紀が完成しました。


・三代実録(31-60) 貞観11年(869)5月26日(新暦7月13日)  仁和3年(887)7月30日(新暦8月26日)
嘉祥3年(850年)から天安2年 (858年) までの8年間を扱う。略して『文徳実録』ともいう。
平安時代、後白河上皇により新たな熊野と意味を込め新熊野神社が創建されました。
850年前. 袖の湊. ■袖(そで)の湊(みなと)ができる 12世紀ごろ、平清盛(たいらのきよもり)が博多湾(はかたわん)に、日本で最初(さいしょ)の人工(じんこう)の港である「袖の湊」をつくったといわれています。

文徳天皇の東宮時に妃となり、即位の年に皇子を生みました。皇子(清和天皇)は文徳天皇 崩御により9才で即位。 幼少のため外祖父・良房が摂政となり、万事を執行しました。 しかし明子は終始表面に現れることなく、73才の長命で崩御。仁明天皇と藤原冬嗣の娘 順子の子。名は道康。

879年菅原是善・都良香等が完成。

桓武天皇─平城天皇、弟嵯峨天皇─仁明天皇─文徳天皇(弟光孝天皇、弟人康親王

和暦年別表目次 (8世紀)http://koyomi.vis.ne.jp/9reki/otonidx08c.htm

855 斉衡2年 http://koyomi.vis.ne.jp/9reki/otonidx09c.htm

854, 斉衡元年. 855, 斉衡2年. 856, 斉衡3年. 857, 天安元年. 858,

西暦 元号早見855(斉衡2)年http://www.sunfield.ne.jp/~inokuras/seireki1.htm

845, 6月25日 菅原道真 誕生. 斉衡2年, 855, 道真、初めて詩を詠む(11歳)

斎衡 2年上座郡大領前田臣市成、善政を賞さる。斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成

(みさけ)前田

筑前國奏言、上座郡大領外從七位上前田臣市成、理レ郡年久、善政
日聞、百姓同聲謂二之不煩一、請假二外從五位下一、積レ効爲レ眞、從之、. 〔十訓抄
一〕. 天智天皇世につヽしみ給事ありて、筑前國上座郡朝倉といふ

云う天智天皇世夜須上座郡大領奏言はじまる。
『奏言群大領が天皇御領地』につヽしみ給事ありてとは根源のことである。


天智天皇世につヽしみ給事ありて、筑前國上座郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木丸殿と云、圓木にて造故也、〈◯中略〉さてかの木丸殿は、用心をしたまひければ、入來の人かならず名のりをしけり、 朝倉や木の丸殿に我をれば名のりをしつヽ行くはたが子ぞ、是天智天皇の御歌也。

理レとは訳という意味。

長い年月。年久しく。 奏言、上座郡大領に長い年月勤めた。

天智天皇世に夜須上座郡大領奏言に郡衙が設けられた。
以降平安末まで、続いていた。それは唐~宗の、窯の焼き物を取り寄せていた事が近年道路工事で、福岡県文化財の赤司氏により、発掘されて、いる。
夜須と雲南省の関係なくしては、なかった事は、
『奏言群大領が天皇御領地』だからでの、出来事である。

官衙としての荘厳化や対蝦夷の受け入れが、坂野上田村麻呂により、夜須で、行なわれたとあり、
百姓同聲謂二之不煩としている。

ここにも?蝦夷が東北から、送られたとある。故に『奏言群大領が天皇御領地』を、明治に撤廃させたのは、明治天皇である。明治天皇が、天皇を撤廃させたのは、記録に書いている。
現に今の天皇は奴婢朝鮮民である。
『奏言群大領が天皇御領地』を冒した事により、天災が東北で起きたのも、相似する。
訳レ、
『奏言群大領が天皇御領地』を冒した全ては、奴婢朝鮮民である。

これについては、官衙としての荘厳化や対蝦夷への視覚的な二の舞になるだろう?

http://archaelog.exblog.jp/tags/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9F%8E%E6%9F%B5%E5%AE%98%E8%A1%99%E9%81%BA%E8%B7%A1%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E4%BC%9A/
陸奥地方のそれとは異なり、
対蝦夷の儀礼を行う施設としての機能を重視する必要性があったのである、まったく神を恐れぬ事。


官衙(かんが)」とは役所の意味であるが、7世紀中頃から8世紀後半まで ... 筑紫天智
王朝によって計画的に造られ、平安末その滅亡と共に、朽ち果てていくことになったものである。

官衙(かんが)」と『奏言群大領が天皇御領地』を冒した事により、天災が東北で起きたのも、相似する。

政庁(長舎囲い官衙)が出現した可能性あり, ・西暦602(推古10)年4月 来目皇子、筑紫に至り嶋郡に駐屯. 7世紀第2四半期頃 この頃、回廊状遺構と回廊北方官衙等が夜須郡で成立した。
日本は、時の天皇は女帝でしたが、斉明天皇自らが中大兄皇子をはじめとして中臣
鎌足ら要人を従えて筑紫に赴きました。

万葉歌人 が夜須に赴いたのは、夜須官衙筑紫館(つくしのむろつみ)が存在したいた事を示している。
など、時に
応じてさまざまな名で呼ばれた。

斉明天皇は百済を援けるために筑紫に下ってきたが、まもなく朝倉橘広庭宮(現在の朝倉
郡朝倉町付近)で亡くなられた。
外国との
交渉の窓口としての役割を担う、重要な役所であり地方では最大の官衙があった。
それは、龍泉窯や越州窯の、茶壷が、夜須官衙筑紫館(つくしのむろつみ)から出土している。
龍泉窯や越州窯の茶碗が夜須城林遺蹟から出土して、津古の九州歴史資料館に、移されている。
これらの、茶具は、夜須官衙なくしては、あるまい。




筑紫と
高句麗とにはさまれた百済は筑紫に援助を請い、新羅は高句麗と好を通じた。








 

智星乃ち天徳に合す

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 5月 5日(木)15時57分20秒
編集済
  虚無 ( ニヒル )とは真我と同義です

終焉は虚無と知る
聖人の虚無恬淡にして自然に順い天道に合する様を示している。
故に曰く、聖人の生や天行す、虚無恬淡にして、乃ち天徳に合す、と。

虚無を心に蛇と唱えよ。

広辞苑を見ますと、虚無主義とは「真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場。」とあります。
空虚な感情。
天徳貴人, (月徳貴人・天徳合・月徳合) この星がある。

吉凶神殺の表の中に天徳貴人と天徳合がありますが、その二つを合わせて「天徳貴人」と言って居ります。
そして、四柱八字の中に天徳貴人と天徳合の二つが揃う場合には「四方干徳」の命となって、数々の功徳にあずかる事が出来る。


天徳は総ての災いを吉に変える力を持つ何事も裏面からそれを支える。孔子

その祖を想いて忠孝を報じ、その徳を尽くして天徳に合す。孔子

その祖を想いて悖らざる間、道に従いて上帝に通ず。孔子

虚無恬淡であって、はじめて天徳に合するのである。 〔養神の道〕心に憂楽がないこと
は、徳の至りである。自然と一体となって変わらないのは、静の至りである。何物にも
抵抗がないのは、淡の至りである。何物にも逆らわないのは、粋の至りである。

故に易に日く、神にして. これを明らかにするは、其の人に存す、と。






 

智星ニヒル八尾(ヤオ)よろず

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 4月 6日(水)19時47分35秒
編集済
  虚無 ( ニヒル )智星ちせ(女性)
智星の命星盤
http://27stars.jp/mobi/horoscope/005_chi.php

天文古玩道とかにも使います、ガンとは?象形文字では?形状が元の意味のこと。
「大禹的故事」
八尾(ヤオ)智星の石から生まれたという。
ガンの息子禹Yuさんという。元の息子。
八尾ゆうゆう古代の伝説

益が禹の息子の啓に帝位を譲ったことから 世襲制度が始まったとされる。
禹の治水事業の話は有名で、父の鯀(こん)が失敗した治水事業を継いで水に逆らうことなく流れのままに水を分かちて導き、農業などの産業を整備した。語彙



八尾ゆうゆう古代の伝説唐とタオは元々ダウン八尾族を参照する。 やおは名前

唐の文化の影響を受けた日本いや?そうではなく、日本民族特有な、楽奏である。
宮廷に伝承された歌曲で、歌曲名を伴っているものもあり大歌と呼ばれた。
宮廷伝来の歌謡が、古事記・日本書紀の中の旧辞(上古の諸事)と言われる物語的部分の芯になったという。

『越天楽』の舞は、何処から、始まったかは文字にあるように、越王の祭祀に、はじまっているといえよう。
越王の祭祀とは、古くは?
「夏后」五千年前にさかのぼる。
古代中国の雲南省の福建省武夷宮(神殿に於いて、舞が舞われていた。
越の舞は、天女の舞いといわれたほど、すばらしい、歌謡舞であった。
反閇の舞ともいう。
http://www.tudou.com/programs/view/_jLzjwIEbMQ/
山と水の流れの舞

洛水の流れ
http://www.tudou.com/programs/view/N-1VNTjK49Q/

巫女遠出舞い
http://www.youtube.com/watch?v=3cH_8nSZLCM

踏歌 TaGe(古典舞女子群舞)
http://www.youtube.com/watch?v=hipkcc40jPk

桃夭 (古典舞女子群舞CCTV版)
http://www.youtube.com/watch?v=E0Yd3Ffd2Ow

伝説の音
http://www.youtube.com/watch?v=eYgN-7O5Dqw

唐の舞?唐?府
http://www.youtube.com/watch?v=yfEUad1drfg

唐?府舞
http://www.youtube.com/watch?v=FrTLyUyaWMI

古代の伝説 ... 悠々自適 悠然自得 ( you1 ran2 zi4 de2 ) 「悠閑自得 」ともいう。
星空の間を悠々と流れる美しい天の川
これを天上の川として見ることです。
http://yumis.net/tanabata/mwg.htm

ヤマタノオロチ伝説

夜須の篠隈のコガンソンは?八尾(ヤオ)二ビル星から生まれたという。八尾(ヤオ)は邪馬台国ユメ。
筑前町役場は伝説八尾(ヤオ)隠している。
今天災がおきたのも、諸所と同一に重なる地球の浄化が行なわれる。
東北は整理に追われているが、
地球の浄化では焼け石に水である、神々に逆送するから、起きるのである。
罪人が六道の辻で閻魔(えんま)に会う。

(やお)と呼び、その後「八尾」に転化したとする説もある。

「八尾」とは夏后、に始まる。
転じたとする説。
に変化したという。
「八尾」と呼ばれるようになったとする説もある。
日本のものがたりも、「八尾」転じたとする説。

「八尾」八百(「八百」とは「数え切れないほど多数の」という意味)

「夏后」八尾族を参照する。

「古事記八尾族神話」

「八百(ヤオ)よろず神々」から、できていた。


これはインチキである、避難所訪問=東京八尾とは無縁。http://news.goo.ne.jp/photo/jiji/nation/jiji-0691948.html

本物は?みんながわかる?

所謂にせもの。ほんものを騙るにせもの。八尾族ではありません。

地球が浄化されるのは、↑も一因也。
避難所訪問は逆効果です。
訪問をされる側も、も一因也。

何故地球が浄化されるのかが、でています。あらぶれる者達とみなされる?転じたとする説。「数え切れないほど多数の」という意味)呼ばれるようになったとする説もある。
原子炉災害は、九州電力が?天に逆送したから、ネット2011/3/10日で、東北に転じたとする説。

怖ろしきは神々に逆送する者の為に、八百(ヤオ)よろず、に転化したとする説もある。

 

武夷山古願尊古い尊の形状が元の意味のこと

 投稿者: 児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 3月22日(火)18時30分4秒
編集済
  古願尊(コガンソン)古朝鮮では?(コジョソン)女神のこと。
『日本書紀』では、天地開闢(かいびゃく)に際して最初に顕れた神 を、国之常立神(書紀の表記は国常立尊)とする。

女尊(じょそん)女性を男性より尊いとすること。
女尊 【じょそん】
じょそん だんぴ, 女性のほうが男性に比べて尊重され優位な立場にあること。


「類似」
コガンソン地名古い尊の形状が元の意味のこと。
日本の元祖形状「夜須コガンソン」ウガヤの元の意味のこと。
「夜須コガンソン」は夜須王ウガヤの元の意味のこと。古玩尊
武夷山古願尊(yam天空部落 )
福建省以北是著名的旅遊勝地“武夷山”

窯(磁器を焼いたところ)の遺跡や、武夷宮などの見所も点在する

武夷山 天王峰

武夷山 玉女峰

武夷山 両乳峰

天文古玩道とかにも使います、ガンとは?象形文字では?形状が元の意味のこと。
「大禹的故事」
八尾(ヤオ)智星の石から生まれたという。
ガンの息子禹Yuさんという。元の息子。
八尾ゆうゆう古代の伝説

益が禹の息子の啓に帝位を譲ったことから 世襲制度が始まったとされる。
禹の治水事業の話は有名で、父の鯀(こん)が失敗した治水事業を継いで水に逆らうことなく流れのままに水を分かちて導き、農業などの産業を整備した。語彙

コガンソン地名古い尊の
形状が元の意味のこと。
日本の元祖形状「夜須コガンソン」ウガヤの元の意味のこと。
「夜須コガンソン」は夜須王ウガヤの元の意味のこと。古玩尊
武夷山古願尊

『万類共尊』。共に存在する

根本の考え方に据える
多様な生命が繁殖していくことが「善」奪われることは「悪」である。
世界を変えられるのは、日本しかない。
願いが叶うとされています。

日本はここから始まった?コガンソン地名古い尊の土地名
それから願いが始まった。違い山紋はユウユウである。
「YouYou」夏

(違います)http://6302.teacup.com/kodaigiten/bbs禹的越

「大禹的故事」

八尾(ヤオ)智星の石から生まれたという。

八尾部族

八尾(ヤオ)智星ニヒル

手と2つの指)の先端八尾智星、4つの関 ジンの意図を、移動、
太陽系の内惑星の軌道内にやってくるとしたら、 もう惑星軌道は太陽を遮り止まる。
ニビル星が話題地球滅亡になるという?

何故そうなるか考えたほうがまし?
毒吐姫と星の石
石将軍とは悪神の名前。
夢幻の幻星石


相対性武夷山 両乳峰 二上山 砥上山
 

天文古顔元の息子の語彙形状が元の意味のこと。違い山紋はユウユウである

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2011年 1月12日(水)19時56分41秒
編集済
  古玩とは中国語で骨董品、古美術品のことです
天文古玩道とかにも使います、ガンとは?象形文字では?形状が元の意味のこと。
「大禹的故事」
八尾(ヤオ)智星の石から生まれたという。
ガンの息子禹Yuさんという。元の息子。
八尾ゆうゆう古代の伝説

益が禹の息子の啓に帝位を譲ったことから 世襲制度が始まったとされる。
禹の治水事業の話は有名で、父の鯀(こん)が失敗した治水事業を継いで水に逆らうことなく流れのままに水を分かちて導き、農業などの産業を整備した。語彙

四字熟語について
「烏丸うがん・鮮卑せんぴ・東夷とうい伝」という夷蛮伝が魏志の末尾におかれて いる。
「帝紀」と相対せしめられているのである
門三級(うもんさんきゅう)「碧巌録」 黄河上流の龍門(禹門)山の三段の滝を魚が 登ってゆくと龍になる。(登竜門)

東岸西岸之柳遅速不同(とうがんせいがんの やなぎ ちそくおなじからず)「和漢朗詠集」 川の両岸の柳の芽吹きは同じではない。

貫胸(かんきょう)国の起源は昔、大禹(だいう)が天下を平定し、会稽(かいけい)の郊外の野原で諸侯に会した時、防風氏が遅れて来たために、大禹は防風氏を殺した。
夏の朝代には清らかで盛んに人々に対し有益な政治が行なわれ、そのため、朝廷に二匹の龍が降臨した。
大禹は范成光に車の運転をさせ、国外を巡った。大禹の巡行が終わった後で、南海に戻り、防風氏の領地を通過した時、防風氏の二人の臣下は防風氏がと山で大禹によって殺害されたので、大禹を見て、すぐに怒りを覚えて大禹に矢を射った。
突然、大風が吹き荒れ、雷が鳴り、雨が降って、二匹の龍が飛び去った。二人の臣下はとても恐れて、刀で自分の心臓を突き刺して死んだ。
大禹は彼らを悲しみ哀れんで、すぐに彼らの胸の刀を抜き、不死草を用いて傷を癒した。彼らの子孫は貫胸人である。

【大禹】:夏の禹王。大は美称。
【会稽】:山名。浙江省紹興県の東南。(『山海経』・南山経)“さらに東へ五百里、会稽の山といい、(山は)四角。”
【防風氏】:夏の諸侯。大禹が治水の時、臣下の一人。かつて、大禹は祖父の黄帝に倣い、神々を会稽の山上に召集して、会を開き、治水の事を協議した。しかし、防風氏は会に遅れ、大禹は怒り、任務に従わずとして、大衆の面前で処刑した。防風氏の身体は巨大なので、死後、骨を車を用いてしまい込んだ。
【不死草】:草名。(『淮南子』・地形訓)“さてこそ、南方では、枯死しない草が生じ。”
http://www.otona-column.com/www/index.php?module=User&action=SerialPopup&id=640

中医学を知る上で、まず知っておかなければならないのが、この「陰陽五行説」です。
 『陰陽五行説』という言葉は『陰陽説』と『五行説』が組み合わされたものですが、二つの説が別々に論じられないほど、混ざり合ってしまったので、現在では『陰陽五行説』として一まとめで考えられています。

そして、《陰》と《陽》はお互いに消長(衰えたり盛んになったりすること)を繰り返し、《陽》が極まれば《陰》が萌(きざ)してくるというようにして、新たな発展を生むという考え方です。

元年がんねん

コガンソン地名古い尊の
形状が元の意味のこと。
日本の元祖形状「夜須コガンソン」ウガヤの元の意味のこと。
「夜須コガンソン」は夜須王ウガヤの元の意味のこと。古玩尊
武夷山古願尊

その願いを聞いた桓雄は、瞬時に変身して熊女と情を交わし、二人の間に男児が誕生した 。この男児に、桓雄は祭壇を支配する統治者という意味をもつ檀君(だんくん)と命名した 。これが古朝鮮建国の始祖とされる檀君王倹である。

『万類共尊』。共に存在する

根本の考え方に据える
多様な生命が繁殖していくことが「善」奪われることは「悪」である。
世界を変えられるのは、日本しかない。
願いが叶うとされています。

日本はここから始まった?コガンソン地名古い尊の土地名
それから願いが始まった。違い山紋はユウユウである。
「YouYou」夏

(違います)http://6302.teacup.com/kodaigiten/bbs禹的越

「大禹的故事」

八尾(ヤオ)智星の石から生まれたという。

八尾部族

八尾(ヤオ)智星ニヒル

手と2つの指)の先端八尾智星、4つの関 ジンの意図を、移動、
太陽系の内惑星の軌道内にやってくるとしたら、 もう惑星軌道は太陽を遮り止まる。
ニビル星が話題地球滅亡になるという?

何故そうなるか考えたほうがまし?
毒吐姫と星の石
石将軍とは悪神の名前。
夢幻の幻星石





 

越王宮跡の越王台

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2010年12月25日(土)17時25分5秒
  城村ビン越王宮

西施出身地は浦陽江の近く金鶏山の「ルチ湾村」とされます。
越女は、越王台にも記載があります。
明代の「春秋列国志伝」では、
今度は越王が色香に惑わされると心配した范蠡が西施を湖に誘い、
湖の底に沈めて溺れさせ、それを聞いた勾践が、
「嗚、これ寡人の過なり。とセツ東へ帰った」とあります。

『西施之沈,其美也』『吴起之裂,其事也』とあり

『杜秋娘詩』にある『西子下姑蘇,一舸逐鴟夷』から来ている。

「西施」は、「呉越春秋」や「越絶書」などの『雑史』や、
「呉地記」などの『野史』
それらを基にした『演義』には登場します。

西施(せいし。本名は施 夷光)。
浙江省紹興市諸曁(しょき)県(現在の諸曁市)の生まれといわれ、諸曁市には、西施を祀った西施殿もあります。


臥薪嘗胆の主人公 の一人、越の王「勾践」もこの地に19年間すんでいた。
紹興は春秋時代に栄えた古都でもある。紀元前500年頃、越王勾践は当時会稽と呼ばれていたこの地に都を置いていた。
http://travel.explore.ne.jp/zhejiang/shaoxing.php

「呉越春秋」には、
苧羅山で西施と 鄭旦という名の薪売りを見つけ出し、
薄絹で着飾らせて、ゆったりと静かに歩くことを土城で習わせ、
都で三年の間訓練させて、呉に献上したとされます。

九つの故事に倣った九術のひとつとされます。
これは、「越絶書」にも記載があります。

「越絶書」には、
「土城は、邯鄲から5里離れた所にある、
周囲五百九十歩、二つの陸門と一つの水門があり、
西施と 鄭旦を教育した場所である。

十四歳にして、管弦音律を心得て言うことなしとあります。

越天楽(えてん らく)は越国の樂奏です。
日本人いや夷民は、物まねで自分のものにしたがる民族のようです?
又宮廷の服装も、神社の神官が真似ているようです、宮廷にふさわしいのに、すぐ、まねしたがる。

明治天皇も天皇の真似ているようです、奴婢というのに?

古の越の地域には南越の宮署と比定される南越宮署遺跡と、みん越王宮 に比定される武夷山城村漢城遺跡という2つの膨大な瓦を出土する遺跡がある。

争覇 越王に仕えた男(そうは えつ)
http://www.hualiu-special.jp/tvb/title/souha/

現在雲南、江西壮族自治区、貴州一帯に住むトン語系や苗語系の民族は
言語だけでなく、文化習俗の上でも、百越族とつながりがあるといわれる。

「高句麗 山上王」

山上王、諱は延優、一名に位宮。故國川王の弟なり。魏書に言う「朱蒙の裔孫の宮」。

生まれたときから目が開いており、視力があった。これを太祖となす。今の王はこの太祖の曾孫。また彼も生誕時から人が見え、曾祖の宮に似ていた。高句麗では相似を位という。
魏書に言う「朱蒙の裔孫の宮」とは、位宮(在位197-227年とする)

三国志魏書』高句麗伝

伊夷模無子、淫灌奴部、生子名位宮。伊夷模死、立以為王、今句麗王宮是也。其曾祖名宮、生能開目視、其國人惡之、及長大、果凶虐、數寇鈔、國見殘破。今王生墮地、亦能開目視人。句麗呼相似為位、似其祖、故名之為位宮。


中国の正史では「宮と位宮」を明確に区別している。魏志は伊夷模(故國川王)の弟ではなく庶子だと母親が灌奴部(かなべ)の女だとも記している。
灌奴部(かなべ)とは龍神という。










 

城村ビン越王ウガヤ龍窯※注山の斜面などを利用した細長い窯

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2010年11月 4日(木)20時19分55秒
編集済
  後漢代に武夷山城村で創焼龍窯※注山の斜面などを利用した細長い窯。龍に似た外観から、この名前がある。「越州窯」
中国越州窯の影響のもと、9世紀に朝鮮半島 で初めて青磁が焼かれた。
越州窯のあった地域に属します。宋代には,南宋官窯や龍泉窯の哥窯 をまねて青磁の生産をおこないます。

前漢時代の終わり頃から後漢時代(前1~後2世紀頃)にかけて、鉛釉系の褐釉や緑釉をかけた陶器が盛んに作られた。

唐時代(618~906)では白磁と越州窯風の青磁を焼造していました
青磁とは宋代を中心とする中国の高級陶器で、もともとは官立の龍泉窯を中心とした越州 (浙江省)の窯でつくられた。
越窯系, 東漢, 唐王朝の越州 (現浙江省余姚、慈溪、上虞など) 東漢時代から、古 陶の生産地。越窯の中心地域である上林湖(じょうりんこ)では、「秘色(ひしょく)」 と呼ばれる青磁を生産し宮廷にも納められていた。

弥生夜須では鳥巣窯が武夷山城村から移ってきた、越王の龍窯である。
時代とともに、燃料の松がなくなり、紀元前70年前、三十年期に移動した。鳥巣窯→横隈窯→山隈窯→

京に移動してからは、唐の越州窯から取り寄せていたようである。
平安末にも、さかんに唐の越州窯から取り寄せていたようである。
夜須三牟田前田遺蹟の越州窯壺も、茶とともに、持ち込んだようである。

唐中期以降、越州の上納用磁器は「秘色」と称され、五代呉越の王室はこの窯場を監督下 に置き、磁器産業の精緻化と普及化に寄与しました。新興の茶文化では、障迫qの白磁を「 銀の如く、雪の如く」、越窯の青磁を「玉の如く、氷の如く」と形容し、磁器の鑑賞
http://www.npm.gov.tw/exh95/suitang/subject_ja.html

浙江省紹輿周辺に起きた窯。唐末五代に「秘色」と呼ばれる青磁を完成し、最盛期となっ た。
夜須というよりは日本との関係は、武夷山城村ビン越王ウガヤの関係が、あったからである。

越州窯では日用の器物の他に、墳墓に副葬するための明器や俑が作られ、それらは発掘 されている。http://www7a.biglobe.ne.jp/~ikka/gyokka.htm
弥生の須恵器は越州窯と同じである。

焼き物としての青磁は、中国の唐代に越州窯(浙江省)で大量に焼かれるようになったの がはじまりと. 考えられています。

高麗青磁は、すでに高度な陶磁器焼成技術を保有していた朝鮮陶磁が、9~10世紀ごろ 中国越州窯青磁を受容して始まったと考えられている。それは越東明王によるものである。

本来は種壷、茶壷、甕、擂鉢などの雑器が中心であった。

中国の越州窯青磁の技術を受容して発達を遂げるが、12. 世紀前半から中ごろにかけて 最盛期を迎えた。高麗時代(918 1392)李氏を通じて、素文・陰刻・陽刻・. 透彫・彫刻など 、純青磁として分類されるものと、象嵌という独自の装飾技法をともなう。

越州窯か同安窯に似ている。 しかし、浅く薄い輪高台や器 表面一面に刻まれた牡丹の葉は 北宋から南宋時代の12世紀頃を示している。

越州窯-中国浙江省一帯の中国の代表的な青磁窯、後漢末から三国時代頃が起源と思わ れる。
 

武夷の天子夜須筑紫城ウガヤ尊

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2010年10月 6日(水)20時31分47秒
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  武夷の天子夜須筑紫城ウガヤ尊

『日本書紀』崇神天皇60年7月己酉(14日)条
詔二群臣一曰。武日照命。一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。
この武夷とは武夷山の城山宮は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する。

窯跡→呉興(ごこう)・紹興(しょうこう)・上虞(じょうぐ)・余姚(よよう)・鄞県(ぎんけん)・寧波(ねいは・にんぽう)・奉化(ほうか)・臨海(りんかい)・蕭山(しょうざん)・余杭(よこう)・湖州など浙江省の各地。

山の斜面などを利用した細長い窯。龍に似た外観から、この名前がある。

鉛釉陶器

 後漢初め(前漢末)に創始。三国時代に衰亡(※注1)
(※注1)漢の武帝在位紀元前141年 - 紀元前87年)
前漢第七代皇帝(在位前141~前87). 劉徹(以後武帝)により、

閩越(びんえつ)は、現在の中国福建省に存在した政権。ウガヤの鳥命である。
閩越王無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E8%B6%8A
春秋時代後期から戦国時代(紀元前475年 - 紀元前221年)前期にかけて、勾践により復興され、現在の浙江省紹興市一帯に存在した越であるが、紀元前334年に勾践7世の孫無彊が楚との戦いに敗れて殺害され、ここに越は滅亡した。越の王族は海路閩に入り、越の国人も遷山(現在の福建省長楽市)に至った。このようにして越人が福建北部に定住し、当地の原住民である百越族と融合、やがて閩越を建国することとなった。

紀元前206年に秦が滅亡して楚漢戦争が始まると、無諸は再度中原に北上し、劉邦を支援して項羽を撃破、漢朝の創建に貢献している。紀元前202年、漢朝は無諸の支援に感謝して閩越王に封じ、閩中の統治を認めた。無諸は仙游一帯をその影響下に置いた。またこの年、無諸は閩越王城の再建に着手している。

閩越王城は面積約48万平方メートル、4つの城門を有していた。東西城門間には丸石で舗装された10メートル幅の大通りが整備され、通りの北側には2万平方メートルの宮殿区が設けられた。当時の閩越は東南一帯の最大勢力であり、王城も現地最大の都市であったと考えられている。1世紀に及ぶ発展の中、閩越人は百越文化の風俗習慣、宗教、文化、芸術等を維持し、政事経済面では華夏文化の影響を受け、燦爛たる閩越文化を創造していた。

無諸の死後、その子孫の間で内訌が発生し、しばしば内戦に及んだ。そうした中でも北方の東甌、南方の南越を攻略し、百越諸民の服従のみならず周辺諸国の朝貢をも実現し、前漢南方の一大勢力となっていた。

武帝は匈奴を攻略して北方を安定させた後、数十万の兵を閩越に派兵した。同時に漢朝は閩越に対して政治工作を行い、一部勢力を漢朝に帰順させることに成功している。事前準備を整えた武帝は紀元前110年、大軍をもって閩越を江淮の内地へ遷すことを命じ、閩越はこうじゅんの間には、いかず、
渡海して東夷に九州をもって、
都を築いたのが、日本である。

九州の都を後にした神武は、奈良に熊野宮を建て、倭を大和とした。
天智から、桓武にいたるまで、奈良を都としたが、
桓武の時、北陸まで広げ、祖の築いた母系ウバイド、
封建制度確立をめざしていた。これが宇宙観である。天動説地動説

運ぶ鳥によって、連なる命、を、はぐ、くんだ。関連という。

匈奴の王/單于をおびき出し て撃つ謀り事を武帝が採用する前、南越がビン越に攻められて漢に援軍を要請した。田 フンは越人の争いは昔からのもので不介入を主張する。

きょうど                 きょうど    かこうし  う       じゅんい
 匈奴に代表される、中国北方の異民族の伝。匈奴の祖先は夏后氏(禹)の後裔で、淳維

という人物であるとされています。
この時匈奴を率いていたのは頭曼単于で、秦が滅亡し楚漢争覇のころに頭曼単于の子の
ぼくとつ       ぜんう               とうこ げっし
冒頓が父をころして単于となり、当時北方で勢力のあった東胡、月氏を伐ち、最大の勢力
      かん        りゅうほう きょうど
となります。

漢による統一のあと、劉邦が匈奴討伐を行いますが敗退し、和議を結びます。
匈奴はその後、烏維単于、烏師廬単于、[口句]犂湖単于、且[革是]侯単于と続きます。

ビン(門+虫) 越(越王句践の子孫の国 福建省)が南越を攻撃した。

東越(ビン(門+虫)越王 鄒郢を殺した王の弟 鄒余善の国)も滅ぼされ、南越を頼っていた西南夷の夜郎国(夜郎自大……しつこい)も漢に臣従した。
これより、漢の1000年にわたるヴェトナム支配が始まったのである。



びんえつとは? 中国、古代、江南の江流域を中心に福建地方から台湾などの海島にかけて 分布した越族。

中国、秦・漢時代、現在の福建地方に住んでいた越族 。

ビン越 楚によって滅ぼされた越の人間が南方に逃れ、現地の百越族と同化して興した国 。

武夷山には、紀元前2世紀の前漢のころ、ビン越(びんえつ)という王国があった。

福建では[ビン](門構えに虫)が海上交易を以て 発展を促し、広東の南漢も同様に海上でペルシアやアラブと交易をした。
 

武夷鳥。又云。天夷鳥。従レ天将来神宝。夜須筑紫城ウガヤ尊は武夷の天子

 投稿者:児島宮歴研会監修  投稿日:2010年 9月30日(木)17時22分15秒
編集済
  『日本書紀』崇神天皇60年7月己酉(14日)条
詔二群臣一曰。武日照命。一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。従レ天将来神宝。蔵二于出雲大神宮一。是欲レ見焉。則遣二矢田部造遠祖武諸隅一一書云。一名大母隅也。而使レ献。当二是時一。出雲臣之遠祖出雲振根主二于神宝一。是往二筑紫国一而不レ遇矣。其弟飯入根則被二皇命一。以二神宝一付三弟甘美韓日狭与二子鸕濡渟一而貢上。既而出雲振根従二筑紫一還来之。聞三神宝献二于朝廷一。責二其弟飯入根一曰。数日当レ待。何恐之乎。輒許二神宝一。是以既二-経年月一。猶懐二恨忿一有二殺レ弟之志一。仍欺レ弟曰。頃者於二止屋淵一多生レ菨。願共行欲レ見。則随レ兄而往之。先レ是。兄窃作二木刀一。形似二真刀一。当時自佩之。弟佩二真刀一。共到二淵頭一。兄謂レ弟曰。淵水清冷。願欲二共游沐一。弟従二兄言一。各解二佩刀一置二淵辺一。沐二於水中一。乃兄先上レ陸。取二弟真刀二自佩。後弟驚而取二兄木刀一。共相撃矣。弟不レ得レ抜二木刀一。兄撃二弟飯入根一而殺之。故時人歌之曰。椰句毛多菟。伊頭毛多鶏流餓。波鶏流多知。菟頭邏佐波磨枳。佐微那辞珥。阿波礼。於レ是甘美韓日狭。鸕濡渟。参二-向朝廷一曲奏二其状一。則遣三吉備津彦与二武渟河別一。以誅二出雲振根。故出雲臣等畏二是事。不祭二大神一而有レ間。時丹波氷上人。名氷香戸辺。啓二于皇太子活目尊曰一。己子有二小児一。而自然言之。玉菨鎮石。出雲人祭。真種之甘美鏡。押羽振。甘美御神底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神底宝御宝主也。菨。此云レ毛。是非レ似二小児之言一。若有二託言乎一。於レ是。皇太子奏二于天皇一。則勅之使レ祭。

「武夷鳥。又云。天夷鳥。従レ天将来神宝」
とあるように、夜須筑紫城ウガヤ尊は、古代中国紀元前111年前の、武夷の天子だと、記している。
又云天夷鳥。(武夷の天子)


『日本書紀』推古天皇25年6月条(617)
出雲国言。於二神戸郡一有レ瓜。大如レ缶。


『日本書紀』斉明天皇5年条(659)
命二出雲国造一。闕レ名。修二厳神之宮一。狐噛二-断於宇郡役丁所レ執葛末一而去。又狗噛二-置死人手臂於言屋社一。言屋。此云二伊浮瑘一。天子崩兆。又高麗使人持二羆皮一枚一祢二其価一曰。綿六十斤。市司咲而避去。高麗画師子麻呂設三同姓賓二於私家一日。借二官羆皮七十枚一而為二賓席一。客等羞怪而退。

三月(9日)、詔して、「筑前国宗形(むなかた)・出雲国意宇(おう)の二の郡司は、並びに三等已上の親(三等親以上の者)を連任する(続けて任ずる)ことを聴(ゆる)す」とのたまふ。(10日)、諸国の郡司を任じたまふ。よりて諸国司らに詔して、「郡司を銓擬(せんぎ。人の才能を測って適任かどうか決める)せむに、偏党(へんとう。偏る、えこひいきする)あること勿(なか)らしむ。郡司、任にいて須(すべか)らく法の如くすべし。いまより以降、違越(いえつ。違い超える、違反する)せざれ」といふ。>(文武続紀二年条、698年)http://blog.goo.ne.jp/jess2666/e/1e6f456a8dd3dfed854ad24baffa91f0
大和王朝の「郡」制度を発足させる


『続日本紀』霊亀2年2月丁巳(10日)条(716)
出雲国々造外正七位上出雲臣果安。斎竟奏二神賀事一。神祇大副中臣朝臣人足。以二其詞一奏聞。是日。百官斎焉。自二果安一至二祝部一百一十余人一。進レ位賜レ禄各有レ差。

『続日本紀』神亀元年正月戊子(27日)条(724)
出雲国造外従七位下出雲臣広島奏二神賀辞一。

『続日本紀』天平10年2月丁巳(19日)条(738)
筑紫宗形神主外従五位下宗形朝臣鳥麻呂授二外従五位上。出雲国造外正六位上出雲臣広島外従五位下一。

『続日本紀』天平勝宝2年2月癸亥(4日)条(750)
天皇御二大安殿一。出雲国造外正六位上出雲臣弟山奏二神斎賀事一。授二弟山外従五位下一。自余祝部叙位有レ差。並賜二絁綿一。亦各有レ差。

『続日本紀』天平宝字8年正月戊午(20日)条(764)
以二外従七位下出雲臣益方一為二国造一。
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/410102.html

奏言(お伺いを立てるには)

「筑紫の国奏言郡大領の前田臣市成」文徳天皇時世
斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成
斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成が「郡を理めて年久しく、善政は日に聞こへ、百姓も声を同じくす」として、筑前国は彼を外従五位下に仮し、功を積めぱ真となすことを申請して許されたが、彼の具体的な事績は明らかでない。

夜須郡の郷  夜須郡の郷の名はすべて『和名抄』に初見されるもので、その刊本によれぼ、中屋(なかつや)・馬田・賀美(かみ)・雲提(うなで)・川島・栗田の六郷からたっていた。  前述のように、史料的には夜須東郷という名も見えるが、これは夜須郡東半部の総称であり、固有名詞としての郷名ではない。  これから各郷が東西両郷に大別されていたことも判明するが、具体的な区分は示されていない。  また、夜須東郷司の名が見られるように、郡司と郷長との問に数郷を統括する郷司が置かれていたが、具体的な権限などは明らかでない。  ともあれ、これらはいずれも平安時代の史料に見えるもので、奈良時代の状況については明らかでないが、基本的には大差なかったと考えてよいだろう。  それでは、各郷ごとに見てみることにしよう。
馬田郷  現在もその名が見られるように、甘木市馬田地区を含む地域に比定できる。  その訓は記されていないが、マダと通称しているし、前述のような末多国造の例からして、当時もマタあるいはマダと訓まれたのであろう。  ただ、『和名抄』では下座郡にも同じ郷名が見え、刊本はそれを無万多と訓しているので、これもムマタと訓まれたのかもしれないが、ここではいずれとも判断できないので、両説を併記しておく。
栗田郷  現在も三輸町にその名が見られるように、栗田地区を中心とする地域に比定できる。
近世に開拓された山隈地区はともかく、ここから上高場にかげての現三輪町の西部地区をその郷域としたのであろう。 http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi12.html

神武即位前紀戊午年12月4日紀元前90~57
孝元  紀元前57年~
崇神元年紀元前27年
垂仁28年~0年
景行西暦26年~38年

神宮皇后卑弥呼西暦39~149
応神天皇西暦150年~180年

仁徳西暦181年~266年
履中267年~269年

允恭270年~312年 木梨軽太子、群臣人民の離反することを知り、物部大前宿禰の家に身をひそめたため、穴穂皇子、これを包囲する。大前宿禰、軽太子の助命を嘆願するも、太子は自害する。一説に伊予に流すという。

安康313~316年 天皇、泊瀬朝倉宮に即位する。物部連目、大伴連室屋を大連とする。

雄略年316~346年 吉備下道臣前津屋、舎人の吉備弓削部虚空を自分のもとに留めて、幾月も帰京させず。身毛君丈夫を遣わし呼び戻したところ、虚空の報告するところによると、前津屋は天皇を侮辱する遊びに興じているという。天皇、それを聞き、物部の兵士三十人を遣わして前津屋とその一族七十人を殺さしめる。

仁賢347~477年 仁賢天皇崩御。稚鷦鷯太子、物部麁鹿火の娘・影媛を娶ろうとするも、平群臣鮪がすでに影媛を犯していたことを知り、平群臣の無礼を怒る。太子の命を受けた大伴金村連の兵により鮪は殺され、影媛は悲しみ歌をつくる。

継体元(507年~(529)年物部麁鹿火、許勢男人とともに、大伴金村の議る男大迹王擁立に同意する。

安閑元(534年閏12月筑紫国胆狭山部などを献上する。


雄略、推古、皇極・斉明女帝、天智天皇、天武・持統夫妻」天皇年期10年~20年

紀元前50年(崇神天皇48年)4月19日 (旧暦) ― 崇神天皇が豊城入彦命に東国を治めるよう命令する
姓氏録や三代実録貞観5年(863年)の奏言では「為名真人は宣化天王皇子火焔王の後裔」 という。
百済本記531年の記事には日本の天皇とあるだけ継体天王か欽明天王
欽明天王
安閑天王・筑紫国の凶作に備える詔。物部大連麁鹿火は新家連を遣わし、新家屯倉の籾を運ばせる。
宣化天王の二王紀をいれたのです。
継体二十五年を531年にするには、継体即位年を後方に移動する必要がありましたから、
本当の継体天王即位年503年を変更して507年としたのではありませんか。
そうして、507年から二十五年後の531年に崩御されたように装つたのではないでしょうか。
古事記は次ぎのように述べています。
【(継体)天皇の御年、四十三歳[丁未の年(ひのとひつじ・527年)の四月九日に崩りましき]御陵は三島の藍陵なり。
書紀は崩御の年を
二十五年(531年)春二月七日に磐余玉穂宮にお崩れになつた。時に御年八十ニ。


雄略天皇470~490 征新羅将軍配下に蝦夷
清寧天皇491~536 隼人昼夜哀号陵側、七日而死
宣化536~539
欽明540~582       蝦夷・隼人、並率衆帰附
敏達天皇583年~586 蝦夷数千冦於辺境是召其魁帥綾糟等三輪君逆使隼人相距於殯庭
崇峻天皇587年~607 遣近江臣於東山道使、観蝦夷國境
推古天皇608~628
舒明天皇637~ 641   蝦夷叛以不朝
皇極天皇642~     越辺蝦夷数千内附・饗蝦夷於朝
斉明天皇655~662     朝倉宮
天智天皇663~
持統夫妻
http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage23.html


「前田臣文徳天皇記記載」家系図
『続日本紀』『続日本後記』『文徳天皇実録』『三代実録』などに記されている。
土師氏は筑紫の国奏言郡大領の前田臣市成の祖先が旧夜須町三
牟田に住み、すぐ傍の三並鳥巣窯で土師を焼いて耶麻王の祭礼の担当を、命じられていた。

前田臣市成は土師氏の祖で、貝原益軒も系図に上げている。
http://www.rak2.jp/hp/user/yasukuhu/dialy1.html
菅原道真の後裔で前田臣市成が前身である。

上座郡大領前田臣市成、善政を賞さる。855斎衡2年
http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/housyuyama/sanpo/nenpyo.htm
斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成が「郡を理めて年久しく、善政は日
に聞こへ、百姓も声を同じくす」として、筑前国は彼を外従五位下に仮し、功を積めぱ真
となすことを申請して許された。
http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi12.html

太宰府歴史資料館に前田臣市成木簡が保管している。

安平時代 855年 斎衡 2年上座郡大領前田臣市成、善政を賞さる。

応永1397 4年児島正信、小田の開墾を始める。
http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/housyuyama/sanpo/nenpyo.htm

「基肄郡 郷六所 里十七  驛壹所 小路」『肥前国風土記』
昔者纏向日代宮御宇天皇、巡狩之時、御筑紫国「御井郡高羅之行宮」、高良山
遊覧国内、霧覆基肄之山、
天皇勅曰、彼國可謂霧之國、後人改号基肄國、今以為郡名

(702) 八月。以 正三位石上朝臣麻呂 為 ⇒〔大宰師〕。

725 神亀2, 閏1.4 陸奥国俘囚(蝦夷)蝦夷が帰順を伊予・筑紫・和泉に移配。百姓となす。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで

《天平神護二年(七六六)高野天皇

《天平神護二年(七六六)二月丁未【廿一】》○丁未。命婦外従五位下水海毘登清成等五人、賜姓水海連。」賜従三位山村王功田五十町。従四位上日下部宿禰子麻呂。従四位下坂上大忌寸苅田麻呂。佐伯宿禰伊多知。正五位上淡海真人三船。従五位上佐伯宿禰三野五人。各廿町。従五位下紀朝臣船守。外従五位下民忌寸総麻呂二人各八町。並伝其子。
《天平神護二年(七六六)二月癸丑【廿七】》○癸丑。右京人従六位下私真縄。河内国人少初位上P4131私吉備人等六人、賜姓会賀臣。


《天平神護二年(七六六)十月甲申【二】》○甲申。授無位大神朝臣田麻呂外従五位下。為豊後員外掾。田麻呂者本是八幡大神宮禰宜大神朝臣毛理売時。授以五位。任神宮司。及毛理売詐覚。倶遷日向。至是復本位。


続日本紀 巻第廿七〈起天平神護二年正月、尽十二月
大宰府言。防賊戍辺。本資東国之軍。持衆宣威。非是筑紫之兵。今割筑前等六国兵士、
http://www.j-texts.com/jodai/shoku27.html


『三国遺事』には、北扶余の祖・解慕漱は天帝が「訖升骨城」に降りてきて自ら名乗ったものと記し、訖升骨城を大遼医州の地にあると割註する。
「大遼医州」が現在の遼寧省西部の医巫閭山の一帯とすれば
高句麗の地がもと孤竹国※だというのと符合する。

戦国期の燕が山神を祀ったと『周礼』に見える。
中国の中原で洛陽近隣にある嵩山(中国の聖山五嶽のなかでも中央の中嶽とされ、似通うが、嵩山を羌族などが尊崇した。
旧唐書の「矩伝」には、その奏言に、「高麗(高句麗)の地はもと孤竹国であったが、周が箕子を封じて朝鮮とし、漢代には三郡に分けた。
天神を帝として祀る祭儀も行われた。
神を降し甫と申とを生めり
解慕漱の子・東明が高句麗の祖・朱蒙と同人
箕子朝鮮に先立つ孤竹の国には、それが東夷で同じ種族系統であった。

「其れ筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋と、二人、元より大皇 ... 男、筑紫に 至る、時に栗隈王、符を承けて対へて曰さく |「筑紫国は、元より辺賊の難を戍る。

建武中元二年,倭の奴国,奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。
ビン越では大夫あり、文種 はんれいあり。



また垂仁 の巻にも「筑紫に坐 (ま)す三神」ととあるのも、これである。

神宮皇后卑弥呼西暦39~149天皇筑紫に行幸して,将に救兵を出さんとす。三笠となづく。
其の国,本亦男子を以て王と為す。住まること七,八十年。倭国乱れ,相攻伐して年を歴たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて 卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし,能く衆を惑はす。年已に長大なるも夫壻無し。男弟有り,佐けて国を治む。
『魏志倭人伝』

大人の敬する所を見れば,ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。……その俗,国の大人は皆四,五婦,下戸もあるいは二,三婦。……その法を犯すや,軽き者はその妻子を没し,重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり,相臣服するに足る。租賦を収む。邸閣あり。国国市あり,有無を交易し,大倭をしてこれを監せしむ。…女王国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。…下戸,大人と道路に相逢えば,逡巡して草に入り,辞を伝え事を説くには,あるいは蹲りあるいは跪き,両手は地に拠り,これが恭敬をなす。

景初二年六月,倭の女王,大夫難升米等を遣わし,郡に詣り,天子に詣りて朝献せむことを求む。…其の年十二月,詔書して倭の女王に報じて曰く「…今汝を以て親魏倭王となし,金印紫綬を仮し,装封して帯方の太守に付し仮授せしむ…」と。
『魏志倭人伝』

卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩,徇葬する者,奴婢百余人。さらに男王を立てしも,国中服せず。更々相誅殺し,当時千余人を殺す。また,卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と為し,国中逐に定まる。
『魏志倭人伝』

日本の朝鮮進出
百残・新羅は旧是れ属民にして,由来朝貢す。而るに倭は,辛卯の年を以て来りて海を渡り,百残・□□・□羅を破り,以て臣民と為す。

興死して弟武立ち,自ら使持節・都督,倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事,安東大将軍倭国王と称す。順帝の昇明二年,使を遣して上表して曰く「封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を貫き,山川を跋渉して,寧所に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国,西は衆夷を服すること六十六国,渡りて海北を平らぐること九十五国…」と。詔して武を使持節・都督,倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事,安東大将軍倭王に除す。
『宋書倭国伝』

志癸嶋天皇の御世戊午年十月十二日,百済国主の明王,始めて仏像経教並に僧等を度し奉る。勅して蘇我稲目宿禰の大臣に授けて興隆せしむる也。
『上宮聖徳法王帝説』

左京 諸蕃 百済 和朝臣 朝臣   出自百済国都慕王十八世孫武寧王也

「日本書紀~」欽明16(555)年、17(556)年、百済聖明王が新羅 と戦い戦死したと聞き、使いとして遣わされた百済王子の恵(余昌の弟、百済第26代。
「志癸嶋天皇(しきしまのすめらみこと=欽明天皇 )の御代、戊午年(五三八)十月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教并びに僧等を 度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。

朱蒙が国主となったことを知り、母が死ぬとすぐに、ここに達したので、 これを閭達(ロタツ)と名づけ、彼に国事を委ねた。 ... 百済と明記しているが、太熙 元年(290年)、馬韓が西晋の東夷校尉「何龕」に貢献したとの記録がある。

『三国史記』高句麗本紀

諱は類利、あるいは孺留ともいう。朱蒙の元子、母は禮氏。
紀元前19年-西暦18年(高句麗本紀の在位年数から算定)。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/kokuri-king2-ruli.htm
 

朝廷直営の官窯と夜須三牟田前田太宰府管内郡役所遺蹟

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 9月22日(水)16時31分59秒
編集済
  板橋村西湖の南の閘口烏亀山の麓に位置しています。
宋を再興し高宗(在位1127年~)となって、紹興8年(1138)には臨安(浙江省杭州)を都に定めました。

そしてこの臨安に磁器の職人を北から呼び集めて、朝廷専用の御器を焼く窯「南宋官窯」が開かれました。


朝廷直営の官窯では、釉薬や陶土の秘密を守るために、部外者は立ち入り厳禁でした。そして製品は、1回に百点以上焼いたとしても、最上のものだけを1点選び、残りは総てたたき壊されたと云います。そして1点1点の記録が残されています。
官窯の特徴は、素地が黒の陶胎でその上に厚く釉薬がかかっています。
宋を再興し高宗(在位1127〜1162)

http://ch08180.kitaguni.tv/e178933.html

郊壇(歴代の皇帝が天を祀る天壇)の下に新窯が築かれましたが、これは杭州の西湖の南、烏亀山(うきざん)の麓にあると記録に残されていました。都臨安(杭州)

このように、官窯の製品が夜須町全体に行き渡っているのは、日本との特別な関係が伺える。
栄西が尋ねたところは、烏亀山の麓でした、天皇から耳にしたのが、ここに日本人の先祖が居たという証拠になります。
越窯青磁標本
官窯の製品
北宋龍泉窯粉青標本

浙江省龍泉県その青磁技法のルーツは越窯となんらかの関係があると考えられます。
北宋→南宋

哥窯器の遺品は南宋官窯が写したものとの説 もあります。
官窯というのは宮中御用品を焼く陶磁器製作所です。

中国南宋時代,都のあった浙江省杭州に設営された 青磁の窯。宮廷御用品も注文に応じて焼成した官窯。文献上は,〈修内寺(しゅうないじ) 官窯〉〈郊壇下(こうだんか)官窯〉がその官窯に相当すると伝えられる。

南宋時代(1127~1279)、都であった臨安(現在の浙江省杭州)には宮廷専用の製品を生産する窯、いわゆる「南宋官窯(なんそうかんよう)」が設置されました。この南宋官窯には、修内司(しゅうないし)官窯と郊壇下(こうだんか)官窯があったことが文献から知られており、郊壇下官窯については杭州烏亀山(うきざん)山麓にその窯址があることが発掘により明らかになりました。

児島宮歴研会では烏亀山と筑紫野城山遺蹟とビン越板橋村城山遺蹟と、つながりが、あると見ています。

『茶経』:「四之器」の盌(わん。茶碗)では、「盌は越州が上品。~或いは邢州(けいしゅう)を越州の上に処(お)くが、決してそうではない。もし邢州の磁器が銀に似ているとすれば、越州の磁器は玉に似ている。~もし邢州の磁器が雪に似ているとするならば、越州の磁器は氷に似ている。~邢州の磁器は白いので、茶の色は丹(あか)く見える。越州の磁器は青いので、茶の色は緑に見える」とある。

 越窯(えつよう。越州窯)

 後漢代に創焼(※注1)し、三国・両晋を経て南朝に至るまで急速に発展。龍窯(※注2)で焼造。

 窯跡→呉興(ごこう)・紹興(しょうこう)・上虞(じょうぐ)・余姚(よよう)・鄞県(ぎんけん)・寧波(ねいは・にんぽう)・奉化(ほうか)・臨海(りんかい)・蕭山(しょうざん)・余杭(よこう)・湖州など浙江省の各地。

山の斜面などを利用した細長い窯。龍に似た外観から、この名前がある。

鉛釉陶器

 後漢初め(前漢末)に創始。三国時代に衰亡(※注1)
 北魏時代以降流行(※注2)→北斉期→隋唐期

 緑釉・褐釉・黄釉。二彩(黄釉緑彩)

越窯(えつよう。越州窯)
呉越国銭氏の庇護(※注3)のもとに「秘色磁」(※注4)が生まれた

「官」の銘のある瓷器  越窯、定窯、耀州窯、南宋の官窯

このように、朝倉郡夜須三牟田太宰府管内郡役所前田遺蹟に見られる、白磁青磁、越州窯の磁器、茶壷は、栄西の茶が、これより普及していたことが判る。
朝倉郡夜須三牟田太宰府管内は天皇御領地であった。

筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館 兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっ ていた。
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E8%87%9A%E9%A4%A8

承和5年(838年)には第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年(842年)の太政官符にも鴻臚館の名が記載されており、嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。
貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。この傾向は菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止されたのちに強まった。

当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。その後延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営に移行していることが窺える。そして延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。

大宰府鴻臚館の前身は筑紫館(ちくしのむろつみ)で、記録にはじめてでるのは、『日本 書紀』の持統3年(688年)に、新羅使節を筑紫館で応待したことが、「霜林らを筑紫館に 饗(あ)える」と、記されています。


龍泉窯は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する龍泉県に窯が集中し、大窯、金村、渓口、王湖、安福、安仁口、梧桐口、周垟、王庄、道太、小白岸、楊梅嶺、王石坑、坳頭、新亭、岱根など二十数カ所の窯が知られています。

龍泉の名の起りは、山に登る龍に見立てた窯の事から名づけられています。
南宋期(1127~1279)の頃から東西貿易が盛んになり、南宋は金銀の流出を恐れて絹と陶磁器の輸出しか許しませんでした。http://ch08180.kitaguni.tv/e1292383.html
龍泉窯(りゅうせんよう)は、夜須の越王(児島宮祖)が、紀元前111年前移動前に、居住していた武威山の城山遺蹟の窯を引き継いだ窯です。

日本の歴史は武威山の城山遺蹟児島宮なくしては、語れないのは、その為です。

ここで、解明されなかった?邪馬台国を、説明します。
邪馬台にふれて、おきましょう゜?
邪馬台とは?天の昇るという、形容で、天の事を「天空、平山、ヤマ」といいます。
ここで邪馬「天空、平山、ヤマ」と台とは、磁器を形作る時、ロクロ台、と同じ意味のことです。ロクロ台がなかったら?磁器は造れないのです。

ロクロ台とは、磁器にする為の用具の役目の事です。人間に大切な役目とは何?と同じ、役目を、知らない現代は、無意味としか言えないでしょう。
核家族は、人間の本質までも変えてしまいましたね?民営化のようにね?意味をなくしたら、人間はおしまいです。

国家の本質までも、変わっていることに、気付いていますか?

登り窯は、天に向けて、築いてあります、これが龍窯の始まりです。
武威山の城山の主は「夏后」の王の「夏王朝」の王越王勾践の、ビン越の総称です。
夜須の始まりはこの「雲南省の都会稽の安邑のビン越王」の末裔によって、始まっています。
宮崎の天孫降臨はつくりもの、なのです?根拠と証拠となる磁器「雲南省の都会稽の安邑のビン越王」が一つもないからです。
都の意味もどこにもありません?
都とは?これは秘宝です。
天にのぼるとだけ、しておきます。

ここに示した画像は、根拠と証拠となる磁器との関係歴史が、しのばれる、からです。

中国の文明文化はすべ、「雲南省の都会稽の安邑のビン越王」なくしては語れません。
中華民国は、「雲南省の都会稽の安邑のビン越王」とは無関係なのです。
それは歴史がないから、韓国や、朝鮮国のように、「他民族の歴史」を、自分の歴史にしているだけです。

このように文明文化の歴史を継承していなくては、すべてが、無意味なのです。

明治以降の月日は?他民族韓国や、朝鮮国が、日本の天皇のふり、をしているので、明らかに、なって居なかったのです。これが無意味の根拠です。
今の民主党や自民党、公明党、共産党、民社党のどれを、とっても、?他民族なので、日本の歴史とは、言えないのです。

横領占領歴史だけなのです?中華民国や韓国のように。アメリカでさえ?横領占領歴史でしかないのです。歴史とは基準固定したものです。
憲法は、日本の歴史とは、いえないのです。憲法は改正しますね、都合が悪くなると、だます、ように?
それは皆同じ事がいえます。

現代は無の歴史しかないのです?ここで台の意味が何を意味するか?かたちと、することが、出来ないという事です。
 

万物の生成論理学

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 9月15日(水)15時30分52秒
  交錯し立線上に新たな点を作ることによって「三角形」を形成する、どの方向から力を加えても形体は崩れない。
万物は陰を負いて陽を抱き、冲気もって和を 為す、と相まって根元的な実在である道と万物を構成する気という宇宙生成論。
万物は流転し巡廻する。

古代イラクイランでは、模様の△形土器があることから、
八千年前に、宇宙生成論があった事が判る。

気の集合離散が万物の生成消滅という変化を起こしている 。
気持ちの気。
自然界は常に変化 している. と万物流転を唱えた。
月と太陽の女神であり「天」を司る
「コノハナサクヤビメ」の名が「桜の花美しい女性」を意味する。「地」を司り万物の豊穣を育む女神でもある。

対等性と運動性で物が形成される。
万物は繋がっている。
何処にいても一緒、という夏后は 児島宮と同体でもある。
明治大正、昭和天皇は夏后とは別体である。?

これ△なくしては、歴史は語れません?

『淮南子』は、宇宙の生成を次のように記述して いる。
天と地との精気は重合して陰陽をつくり 、陰と陽との二精気は団集して四時をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物を つくった。

みかがやけるものは、高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは、凝滞って大地となった。
たるものの集合するは、たやすく、重濁するものの凝固するは、困難。
天と地との精気は重合して陰陽をつくり、陰と陽との二精気は団集して四時をつくり、四時それぞれの精気が散布して万物をつくった。(『淮南子』

△の結合によって、万物をつくった。

(古代中国で万物を構成する ものとされていた:火、水、木、金、土)

現代は休日や地名が変更されて、結合できないようになり、終息へと向かう?

昔も今も、「同体ではなくなった」と?感じる日本人が一人も居なかったから?変更されたのである。
つまり、民営化でどうなったか?
地名が消えたので、日本人のつながりが消えたのです。
在日韓国、北朝鮮人とユダヤは狙っていたっていうこと?
同体ではなくなった。

新しいものではなく、別体になったのである?魔術と魔法「異能」のカテゴリーが付く[13]など、明確な基準は現在明らかにされていない。別体は出来ないのである。

「万物の始まりにして終焉」

先天的な才能が必要不可欠
陰陽の二気が感応し合って第三の冲氣すなわち「湧き起る気」を生ずる。五行説、陰陽説も 離反・集合をくりかえしていた。

万物の生成の源である原水が動きだす。すると新しい大陸 が生成され、さまざまの 種族が新たに膨大な溶液から析出するという。
古代ギリシャ文化 ... 宇宙は永遠に繰り返す円環運動であり、万物 も永久に繰り返す円環運動である。
しかし、世界は今「虚無(ニヒル)」である。
苦しく、矛盾に満ちている。この苦悩の生が永遠に生死の反復を繰り返し続ける。
世界は今停滞している。世界は終焉を迎えている。

民主党は今停滞している。民主党は終焉を迎えている。在日韓国、北朝鮮人だから?
 

二者あいまって万物が生成化育することを意味する

 投稿者: 児島宮歴研会  投稿日:2010年 8月26日(木)15時11分38秒
編集済
  人面蛇身の伏義氏
は人面蛇身の女性で子孫を生んだといわれる。
炎帝神農氏は産業を興し、医術を教え、火をつかさどり、火の使い方を教えた優れた知性の神とされていて 、医術の神で衛生的であり、生水を飲まず、火を使って水を煮沸して飲むことを人々に教え、神農自らも煮沸 したものしか口にしなかったといわれている。

農耕竃と甑の始まりを意味する。
ここ夜須干潟に於いては、紀元前百十一年まの開始となる。
あしはらくに、に船で降りたとしている。
ビン越丑王の、開花となる。
ビン越丑王の墓鷲尾古墳である。
これが、墓鷲尾古墳の葬り方である。墳丘墓
万物が育成するという夫地自然の本質を表わしている?

陽の光と熱が強くなり、万物を育成する時である。 陽の火は丙で強い火気であり、 太陽の強い光・強力な光熱を表す。 陰の火は丁で弱い火気であり、 ..... 虚勢を張らず に、本質に徹すると物事がうまく進みます。

乾為天という卦は全爻陽ですが、陰が隠れており、坤為地という卦は全爻陰ですが、陽が 隠れているのだそうです。

乾(陽)の色である玄(黒)と坤(陰)の色で ある黄は、天地同根、万物一体であることを象徴している色であり、相対立すると同時に 相待つという

茶の始まりは中国であり、茶が昔から薬用効果があり、特に不老長寿の霊薬としての神秘的な薬用効能が重視された。

いろいろな物質と結合しやすく変化しやすいのが特徴で、カテキン類が酸化酵素で酸化されると、きれいな赤色を表し、いわゆる紅茶色となります。カテキン類は渋みの主成分

「生命とは何か」本質を語ることは できません。
自然界と主体的に対峙する主体性、自己 の個性を啓発育成する成長性、結婚して子供を産み、家庭を築く繁殖性ということができ ます。

太陽神の真の名を知ることは、万物を支配できる から蛇の毒なんか消せますという。
緑を支配する神であり、麦粒が育成し、 死んで種子を残し、再び芽吹くように首尾良く再生される。物事の本質を正確にいいあらわす言葉

中国人は天地の間の万物に「気」が存在すると考える。

「気」と自然の中に存在する「気」が同じ性質 のものであり、おたがいに通じ合い、影響し合っているという

山川草木万事万物 は循環・輪廻するがそれは、円をなしていると考えている。
自然の一つ一つの真実を 体得し、自然の本質をより深くつかんでいる。
万物の理を窮めることは、物的存在に あっては自然法則性を理解することである。


現代には憲法で遮断し、通じない?

その原理・法則は必ず. 存在している。事例見本で通じる。

「 自然界に行われている生滅転変の原理」や「自然が万物を育成する力」という意味です。
万物を育みそだてる育成作用という陽の気という正反対の二つの作用を 持っているということなのです。人間の法則であるのに、憲法が阻止している日本。

反映 させたものが「土用」であり、 過ぎ去るべき季節を殺し、来たるべき季節を育成する もの。
五行の形体と作用は万物の育成を助ける。
万物は「陰と陽」というように対立してばかりいるものではなく、循環するものである。

児島宮の先人が八千年前に、考え出したものづくり極意。

汗や尿ではなかなか出せないような体内の不純物とも くっついて、体の外に排出してくれます。

万物を創造しこれを育成していく大きな力、これを元という字で表します。
司祭王の目による呪力で土地を抑えることを意味していた
土(土行): 植物の芽が地中から発芽 する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。

生を成し育て化する。
プラスの面として創造と発展、マイナスの面として衰退と滅亡を表す。
生と死は一体である。

人は宇宙生成化育のお手伝いをするために誕生し、生きているという 。

「しろしめす」「しらす」は、「うししはく」領有私有と異なり、自己を空しうして宇宙 萬有を生成化育する精神 により治めるという。
児島高徳も悟していた。

五行が生じて万物化育するも、その本性はどれも一となる。

天の道たる乾は男を成し、地の道たる坤は女を 成すに至る。

火水の二元素が土と密合して、土が力を発生し、万物が生成化育されるので ある。
 

越州窯製土器出土三牟田遺蹟

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 7月 1日(木)21時13分42秒
  越州窯の土器といえば、栄西が、船で運んできたと見られる。
この夜須に、まとまって出土しているのは、栄西(1141~1215年)と関わりが深い人物が鎌倉から着任していた事が証明できる。
その人物の名は平氏である。

名は平山重村といい、幕府と深いつながりがあった。朝日に住した。

平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。父は平山直季(成田成任)。子に平山重友、 平山重村、平山季武、栄西。 武蔵七党、日奉西党の平山氏のその後の系譜平山李重ー本 告季能櫛田宮の宮司職に補任されたのである
http://blog.goo.ne.jp/yastyan/e/550215ac58aca7adc112cef7ea183803

季重は嫡子平山小太郎重村と参戦、義経を討つ功をあげた。
日奉宗頼の曾孫宗綱の子直季は、武蔵国多西郡平山に居館を構え平山氏を称した。これが平山氏のはじめで、直季の子が源頼朝から厚い信頼を受けた平山季重である。平山氏はこの季重によって、世にあらわれたのである。季重は平山武者所と呼ばれるが、これは大番として京都に上り、上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来している。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_hirayama.html

平山(日奉)八郎直季は甑島小川氏系図での直季祖となっいる。

平山季重には嫡男の重村、二男の重友、三男の季武がいた。重村は建久七年(1196)に頼朝が上洛したとき、随兵として供奉している。三男の季武は伊賀守・検非違使に任じられ、晩年は平山に帰って一生を送ったという。執権北条氏によって創業の功臣たちが粛正されていったことに対して、平山氏は幕府と一定の距離をおいて世を韜晦した結果と思われる。
http://adumakagami.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/1190-5d03.html
鎌倉幕府唯一の公式記録七番 平山小太郎重村
http://adumakagami.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/index.html

大永4年(1524)、北条氏は扇谷上杉氏を破って江戸城を支配下におき、さらに天文六年(1537)には河越城も攻略するに至った。有名な河越の戦いで、結果は大軍を擁した山内上杉氏ら連合軍の敗戦となり、北条氏康が一躍関東の太守に躍り出た。この戦いに平山政重は上杉方として出陣していたようだが、戦後、北条氏に属するようになった。そして、岩槻城攻略戦に参加した政重は二十一歳の若さで戦死してしまった。
 政重のあとは幼い長寿が継ぎ、北条氏は長寿ら政重の遺児を保護し、やがて成人した長寿は伊賀守氏重と名乗って檜原城主となった。そして、北条氏の支城であった八王子城の出城として、関東侵攻を目論む甲斐武田氏に対する最前線の役割を担った。永禄二年(1559)に作成された『小田原衆所領役帳』は、後北条氏の家臣名や知行地などを知ることができる貴重な史料である。そのなかに、三人の平山氏がみえる。一人は本光院殿衆知行方に平山源太郎、そして他国衆に平山長寿・平山善九郎の二人である。平山長寿は伊賀守氏重であり、平山善九郎は弟の綱景である。 関東で越年した景虎は、翌四年春、小田原城を包囲、攻撃した。しかし、落すことはできず、鎌倉に入ると、鶴岡八幡宮において関東管領就任式を行った。このとき、上杉氏の名字も譲られ、景虎は上杉政虎(のちに謙信)を名乗った。氏重は檜原城主として檜原衆を率い、北条氏の最前線をよく守った。
 やがて天正十八年(1580)、天下統一事業を進める豊臣秀吉の小田原城攻めが開始された。秀吉軍は小田原城を包囲すると、関東各地に点在する北条氏の支城を次々と攻略していった。檜原城が属する八王子城は前田利家、上杉景勝らの攻撃にさらされ、ついに落城の運命となった。このとき、八王子城太鼓郭を守備していた氏重の弟綱景も戦死したという。檜原城が落城した七月十二日に小田原本城も落ち、平山氏らの抗戦が北条氏最後の戦いとなった。
鎌倉武士平山季重を祖とする平山氏は没落の運命となった。
その後、隠蔽して、黒田長政が福岡城に入ると、小田原北条の落ち武者となり、筑前山家西山へ隠蔽している、佐藤平田平山氏は小田原北条の、落ち武者である。

参考 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_hirayama.html

栄西は、二度中国に渡っている。中国浙江省の寧波(ニンポウ)博多津にいた中国人乾道三年(一一六七)とあり、日本年号では仁安二年に該当し、平清盛の全盛期であった。
仁安二年鎮西に行き、宇佐や阿蘇山で修行、よく三年二月に博多の「唐房」に行
き、四月に中国(宋)に向けて出発した。この間に唐房宋人から、語学研修を受けた。
博多湾外交に力があったのは比叡山延暦寺で、その出先が大宰府後方、大山寺(宝満山
麓)、そして箱崎神宮寺で、ふたつの寺は兄弟寺院だった
永久四年(一一一六)の経巻奥書に、「博多津唐房の
大山船□三郎船頭房」とある。三郎という名は日本にも中国にもある。http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/mtobo.html
博多湾岸で活動を開始した栄西に対し、猛烈な妨害をした人物が箱崎の良弁や比叡山勢力
であった。朝廷は栄西の禅宗禁止の宣旨を出し、抵抗した栄西は『興禅護国論』を書いた。

栄西が唐から持ち帰った茶の種を植えた
建仁2年(1202)源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。

建永元年(1206)重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
建暦2年(1212)法印に叙任。
建保元年(1213)権僧正に栄進。

明庵栄西が唐より持ち帰った宗派であるが、栄西は元来の所属は天台僧であり比叡山の圧力を考慮してか、建仁寺は比叡山延暦寺の京都出張所的な存在であった。
臨済宗には本山を「ずら」呼びする風習があり・大徳寺を「茶ずら」・妙心寺を「算盤ずら」・東福寺を「伽藍ずら」・建仁寺を「学問ずら」・相国寺を「声明ずら」などと呼ばれていた。
建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。

箱崎大夫則重の祖父貞重が博多にいた宋人金貸しから大金を借りた話が、『今昔物語』
に見える。箱崎宮は朝廷直轄の神社だった。

背振山に茶の種を植えたとある。栄西は僧明恵(1173~1232年)と親しい。
栄西は源実朝に養生の良薬としている。
 

禹は萬年、子々孫々禹の祭祀をたやさず宝用せよ

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 6月10日(木)16時17分3秒
編集済
  神の起こりは、古代中国の夏王朝の禹が開いたのが、根源となっている。

禹は萬年、子々孫々宝用せよ。
現代では、越天子は夜須に、あり、全国の神社は、まつりごと、には、なっていないのです。
だから児島宮だけにしか、神まつりは、残されていないのです。
児島宮の胤は児島高徳だけ、「宮家」を名乗っているのは?児島高徳が「太平記」文中に認めたように、「宮家」としてのは?禹の祭祀を、する越王の家に、なるからである。
越王勾践は禹の祭祀をたやさず、と言い残したいる。
http://www.clubit-arena.net/yahoo/titletop.php?titleid=D-COM301

禹の祭祀?門外不出之http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=kojima&dd=22&p=3

児島宮は古代中国の夏王朝の越王勾践の末裔にあたります。
「禹の祭祀」は日本の神神事、の原点となっています。
現代日本の神社で行われている、祭祀の原形となっています。

禹の祭祀とはその先祖は禹の後裔
中国浙江省紹興市東南部にある会稽山のふもとには、大禹陵(禹陵、禹廟、禹祠を含む) が古. 代の宮殿のように聳えており、そのため、禹の祭祀や禹の神話など禹に関するもの は紹興地方. にとって特別な意味を持っていて、禹を祭る伝統が伝承している。

越王句践世家
封禹山をまもり、始祖である禹の祭祀を奉じた。句践は会稽山に苦しみ、種( 大夫種)と蠡(范蠡)を用いた。句践が蛮夷のなかにありながら、よくその徳を修め、 強大な呉を亡ぼして周室を尊んだことを嘉する。
これは中華に大きい禹を譲って文明の歴史重要な歴史地位を持っている人物
禹が生活するための竜山文化時期の一切祖先の残った遺跡と遺物で、これによって竜山文化を証明して淮河流域の存在と影響にいる。

禹の祭祀や禹の神話など禹に関するもの は紹興地方. にとって特別な意味を持っていて、禹を祭る伝統が伝承している。
現在の日本の神社は、禹の祭祀に似せた衣装を身にまとい、神まつりというが?
禹の祭祀ではない。

白土陶キの出土は今年始まった3回目の発掘が収めた重要な成果で、禹墟で行われていた 集団祭祀活動がレベルの高い、規模の大きなもので、領袖が大きな権力を持っていたこと を証明するもの。
禹墟で高さ約30センチの白土陶キ(キ=古代の炊事用陶器で、中が空洞になった3本の足がついている)を発見した。

陶キは竜山文化時代の典型的な陶器で、最初は炊事用陶器として使われていたが、その後は酒器として使われることが多くなった。http://www.china-news.co.jp/culture/2009/11/cul09112101.htm
禹墟は竜山文化時代の遺跡であることが立証されている。

黄河中下流、淮河流域、長江下流に囲まれた竜山文化圏が形成されていた。
鬲(れき)とは、古代中国において用いられた中空構造の三足を持った沸騰機。3本の足 の中の空間に水を入れ、その上に甑(こしき/そう)を載せて火にかけ、水を沸騰させる ことで粟や稲などを蒸した。鬲と甑を1つと看做した場合には女B(げん)とも称する。
禹の祭祀は農業の神まつりである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%B2

「鬲」字は中国古代の炊具。火で くべることができるように三足になっており、「鼎」に似る。
中国の三足容器の一種。器形は鼎(てい)に似るが,足が 中空の袋足である点で鼎と異なる。陶製のものが殷(いん)代以前からあり,殷代中期以後 青銅でも作られ,戦国時代,竈(かまど)と釜(かま)がつくられるまで煮炊きに用いられていた。
http://kotobank.jp/word/%E9%AC%B2

画像は朝倉郡夜須町松延梨の木遺蹟から、ビン越民族の、初期須恵器が出土して、福岡全域から、ビン越陶器が出土している。
黄河中下流、淮河流域、長江下流から、漢の武帝時、ビン越民族が移動したのが、地名夜須で、浮かび上がった。
始祖である禹の祭祀を奉じた。句践は会稽山に苦しみ、種( 大夫種)と蠡(范蠡)を用いた。

武王は商に打ち克つと、夏の禹の末裔を捜した。
日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が見つかっていたことが分かった。中国新聞網が伝えた。
周民族は、インドラ民であり、殷民と同族也。姫姓。周民族で楚の昭王の時、越王句践の娘が嫁いだ事から、始まる。

日本では越王句践の後胤児島宮さえ、判っておらず、児島宮なくしては、無意味である。
それは?禹の祭祀に関わって、いないからである。
禹の祭祀は誰が行なうかにある?越王句践の後胤しか、出来ない。
祭祀に関わる越王句践の後胤、「宮家」を名乗ってる。

重点是在其祭祀台。
説明を加えない故號天告亂 。
大地を開かしめ、蒼海 を乾かして、 過ぎし世々の出来事と。
【天爵】(てんしゃく) 生まれつきそなわっているすぐれた徳。

これを助けて長ぜしむる者は、苗を堰く者なり。徒に益無きのみに非ず、而してまたこれ を害なう(そこなう)と。何をか言を知ると謂う。
所謂天爵を樂んで人爵を尊ばざる は、固より當然である。

天爵(天の地位)、人爵(人から与えられた地位)というものがある。

昔の 人は天爵を修行して、人爵がこれについてきた。今の人は正反対になっている憲法で、逆行する。
国という一本柱が立っていない」という天からの警告
民主党がどう、鳩山さんがどう、小沢さんがどうと言うよりも、国民一人ひとりの問題だと思います。

天爵を修めれば人爵(人や政府が 与える地位や賞)が自然とこれについてくる、というのが孟子。
 

天地を開拓した五服制度

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 5月 9日(日)12時57分41秒
  天地を開拓した地理学書のことで、此れを持って農耕を開拓した。これが九州制度のこと である。
崑崙の山というのは、「禹は土を盛って」云々という記述に従えば、
「崑崙山は天の真ん中の柱である。」(『芸文類聚』巻7)

、「崑崙に銅柱がある。その高さは天に入るほどである。所謂天柱である。周囲は三千里、円い周囲は削ったようになっている。銅柱の下には建物がめぐらされている。」(同巻7)となっています。山とはいっても、天に向かってまっすぐにどこまでも高く聳える山を、柱のイメージで捉えた

『淮南子』墜形訓では、「これを太帝(天帝)の居という」
「注釈」
一種の「天梯」
『山海経』海内経
木があり、葉は青で茎は紫、花は黒く実は黄色である。名を建木という。百仞の高さで枝が無く、上に九つの(枝の曲がりくねったところ)があり、下には九つの枸(根がわだかまり交錯したところ)がある。その実は麻のようで、その葉は芒のようである。大(三皇の一人・伏羲)がここを過ぎたところである。黄帝が為すところである。

「建木」も、「崑崙」と同様に人工の「天梯」である
中国古代の結婚制度は一夫一婦多妾制で、皇帝、貴族、官僚、妻妾の群れの存在は、天地 の大義、当然の道理であった。

天地の間に条理がある
混沌から天地が生じ、天体の運行が始まり、 人類や様々な生物が発祥する
八咫烏が、日本の国土を開拓した

僧侶なら出家を · 戒名、法名とは · 坊主ぼったくり

天照皇大神の宣(の たま)はく、人は則(すなわ)ち天下(あめがした)の神物(みたま ... 六根清浄なる が故に五臓(ごぞう)の神君安寧なり、五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり、 天地の神と同根なる。

服喪基準=等親基準とする中国の五服制が日本律令において「五等親条」と「服紀条」の二条になった。
皇統の父系母系の双方的正統性を主張するために用いられていることを明らかにした。

天地を開拓した五服制度九州制度は戦国から漢まで行われた楊州越は二の字ばかりではなく、同声同語である禹都在九州名称の由来禹。 この墳墓は吹田区にある鷲尾墳丘墓のことで、あまり知られていない。

五服制度の礼法を. 継承しながら、日本の親族関係の秩序を再構築したのが服紀条である。

服喪の期間は、君(天皇・太上天皇)・父母・及び、夫、本主(帳内・資人が仕える あるじ)のために1年。祖父母・養父母に5ヶ月(1ヶ月30日と単純固定計算するので =150日)。
三位以上が、祖父母・父母、及び、妻の喪に遭った場合、四位が父母の喪に遭った場合、五位以上が亡くなった場合、いずれも奏聞すること。使(=弔使)を派遣して弔わせること。{殯斂〔ひんれん〕(=死者に用いる棺・衣等の支給)の事は、いずれも別式に従うこと。}
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/yoro26.html

皇都条
皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならない。

三位以上条

三位以上、及び、別祖(=分立した氏の始祖)・氏宗〔ししゅう〕(=氏の長)については、いずれも墓を営むことができる。それ以外はしてはならない。墓を営むことができる場合でも、大蔵〔だいぞう〕(=火葬・散骨)したいと願ったならば許可すること。
 

逆引きは、正引きとの組み合わせによって、識別の正確性を高める働きをもっています

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 5月 8日(土)18時40分55秒
編集済
  不干斎は、
あなたが、天というのは、この地球のここに、たっての上である。
球形の下にいる人々には、天は下である。
しかし天の下というのは、

林羅山は、天の下とは解せぬ、天と地が反対にあるとは、なお、解せぬ。
上下がないとというのは、理しらざるなり。

不干斎は、地球儀を示して、
地球儀には南北はあるが、
東西はない、なぜなら、東に、東に、すすめば、地球を一周して、西に来る。

林羅山は、儒教的な方円形大地を頭に描き、
南北あれば、なんぞ東西なからんや。
方円形の地図、の二次元の朱子学と、三次元の球形を知る、不干斎とは、意見がかみ合わなかった。

逆引きは、正引きとの組み合わせによって、識別の正確性を高める働きをもっています
大いに活用してみてください。
認識された情報の中から真実かつ公正な情報を特定し(識別)出来る。

同一性こそが最も重要 であり、その識別過程の正確性こそが中心的問題である。

モノゴトの始まりに同一性がないと、不確性になっているのが判る。

持ち主と、泥棒は不確性になっているのが判る。それは、始めが持ち主だから。

はじめと、つづきの、組み合わせによって、識別の正確性が出来る。「神の法則から」

歴史の組み合わせによって、識別の正確性が出来る。正当性が出てくる。
憲法の不確性は、改正していて、前後が違うので、憲法は不確性である、騙しの憲法は、卑猥である。
 

.『妙貞問答』「人間の生き方の教義書」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 4月10日(土)09時24分45秒
  すべて等しいもの
ありもしないモノをむりやり、おしつける、のは禅学。
日本語が特に“日本語”として聞こえず

寛永八年家光時佐久間不干斎江戸城に於いて、没す

25歳の林羅山は42歳の佐久間不干斎に、「大地とはいかなるものや」儒学では方円と聞くが、いかんと、尋ねた。
大地とは球形であると、不干斎は、南蛮寺にある、地球儀を指差した。

林羅山は、
万物を見るに、皆上下にあり、地は下にある。
これは天地の礼なりと。

不干斎は、
あなたが、天というのは、この地球のここに、たっての上である。
球形の下にいる人々には、天は下である。
しかし天の下というのは、

林羅山は、天の下とは解せぬ、天と地が反対にあるとは、なお、解せぬ。
上下がないとというのは、理しらざるなり。

不干斎は、地球儀を示して、
地球儀には南北はあるが、
東西はない、なぜなら、東に、東に、すすめば、地球を一周して、西に来る。

林羅山は、儒教的な方円形大地を頭に描き、
南北あれば、なんぞ東西なからんや。
方円形の地図、の二次元の朱子学と、三次元の球形を知る、不干斎とは、意見がかみ合わなかった。

コンテンツの「根幹」

由緒ある女性等を対象に、妙秀尼とキリシタン女性幽貞と の問答体(共同体・男女・兄弟)という形式を採っている。「古事記形式」
神学説の正否

林羅山 v.s. 佐久間甚九郎正勝
古代中国宇宙観太極説) v.s.  天地創造説
天動説 v.s.地動説

古代中国宇宙観
太極説の陰陽思想の二元論

宇宙 天)は球体で地はその中にあり、あくまでも地は平面。
古代中国宇宙観 (太極説)天動説宇宙(天)のみが動いている説。林羅山v.s.天地創造説の佐久間甚九郎正勝は天地創造説である。


真実の観点から判断されるべきであって、何かにとって都合が良いとか悪いとかであってはならない。
その説自体に対する徹底的な神学的究明と、時によっては、否定されているように見える信条自体の再解釈の努力である。

真実は、唯一の真理の本源である神から出るもの

人間共同体の一員である
様々な面で、規制を受けるのはやむを得ない。その発言は、賢明でなければならない。
神学自体の自律を損なうものであってはならない。

主人公「雪」のポルトガル 行き「ハビアン 藍は藍より出でて」

転向後のハビアンが、流れ商人尾花丸へ自分の編した平家物語の語りを通じて、転向へ至る心境を説いている。ポルトガル人のパードレらはついに日本古来の神佛への信仰を理解しえなかった、とハビアンに言わせている。

ハビアン『妙貞問答』(『キリシタン教理書』)『ハビヤン抄キリシタン版・平家物語』
http://www32.ocn.ne.jp/~tsuzu/tsuzu_library.html
 

「ひですの経」教義書を作成した不千斎ハビアン

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 4月 5日(月)17時56分16秒
編集済
  江戸時代初期の宗教書「キリシタン版」の一つで、長崎で印刷された「ひですの経」が米ハーバード大の図書館に保管されていることが2日、日本大商学部の折井善果講師の調査で分かり、15日発売の月刊誌「日本古書通信」で発表するとのことです。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/46ae7c48a5256c03507411b7c1324f0f

作成した不千斎ハビアン、の事も、伝えてね。一人歩きはよして。
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009090201000831.html

「ひですの経」は1611年、イエズス会が刊行。約180ページで、和紙に漢字と平仮名で印刷されている。「ひです」はラテン語で「信仰神」の意味。
これは、キリスト教修徳書「信仰綱要序説」の一部が日本語に翻訳されたものとのことです。
西欧伝来の活版印刷機を使用して1591年から九州の各地で印刷された<キリシタン版>は、その前期にあたる加津佐版や天草版の国字本においてはもっぱら大型の金属活字が用いられたそうです。

これだけの出版物が作成されたのですが、日本では殆ど残りませんでした。

『サントスの御作業の内抜書』 1591年、日本語(洋字)
『どちりいなきりしたん』   1591年、日本語(国字)
『ドチリナ=キリシタン』    1592年、日本語(洋字)
『ヒィデスの導師』      1592年、日本語(洋字)
『ばうちずもの授けよう』   1593年、日本語(国字)
『平家物語』         1592年、日本語(洋字)
『イソポ物語』        1593年、日本語(洋字)
『金句集』          1593年、日本語(洋字)
『アルヴァレス拉丁文典』   1594年、ラ語・ポ語・日語(洋字)
『羅葡日対訳辞書』      1595年、ラ語・ポ語・日語(洋字)
『心霊修行』         1596年、ラテン語(洋字)
『精神修養の提要』      1596年、ラテン語(洋字)
『コンテンツス=ムンヂ』    1596年、日本語(洋字)
『落葉集』          1598年、日本語(国字)
『サルバトル=ムンヂ』     1598年、日本語(国字)
『ぎやどぺかどる』      1599年、日本語(国字)
『ドチリナ=キリシタン』    1600年、日本語(洋字)
『どちりなきりしたん』    1600年、日本語(国字)
『おらしよの翻訳』      1600年、日本語(国字)
『倭漢朗詠集』        1600年、日本語(国字)
『金言集』          1603年、ラテン語(洋字)
『日葡辞書』         1604年、日本語・ポルトガル語(洋字)
『日本大文典』      1604~08年、日本語・ポルトガル語(洋字)
『サカラメンタ提要』  1605年、ラテン語(洋字)
『スピリツアル修行』     1607年、日本語(洋字)
『聖教精華』         1610年、ラテン語(洋字)
『こんてむつすむん地』    1610年、日本語(国字)
『ひですの経』        1611年、日本語(国字)
『太平記抜書』         ?年、日本語(国字)

戦争記念館よりも、日本人の為になるのに、筑前町役場は、児島宮の価値が、わからない。
どれだけの、多くの、日本人が、誇りに思っているか?
「イソポが作り物語の抜書(=すなわち「イソップ 物語」である)」

信長も秀吉も、家康も権力、欲ばかりで、ほんんどが、不千斎ハビアン文明によるもの。
?「サントスの御作業」. 1591成立。最古のキリシタン版 か。詳細不明。解ってるのは私だけか?
http://nihongo.human.metro-u.ac.jp/~long/longzemi/takeda.htm

すべて、佐久間甚九郎正勝、の菩提寺、京都紫野大徳寺の教本を、作った佐久間甚九郎正勝だから、書きえた。
「イソップ 物語」も、京都紫野大徳寺の教本と合致している。

外国人は作成、出来ない内容でした。
佐久間甚九郎正勝だから、出来たのは、後鳥羽院の影響が大きい。外の人では出来ない?

肥前名護屋城に在城の折、茶会を開いたと記されている。
大名は、朝鮮征伐に行っている最中に、天草でも、不千斎ハビアンは、「イソポが作り物語の抜書(=すなわち「イソップ 物語」である)」を作成している。

兄信盛や甥信栄は茶会に出席しているが、信直(信盛の弟。山崎城主という(張州雑志さ)永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いの時は、兄信盛とともに善昭寺の砦を守った(公記)。信長入京後の同十二年八月には、伊勢大河内城攻めに従軍(池田本)。

の名も、天正五年(1577)二月十日、 同年十二月十一日の二度見える(宗及記)。斎号不千斎。法名宗岩。 いは「信栄」 のほか「定永」と自署した文書もある
1578年佐久間信栄を招き茶会。

佐久間 信栄文禄元年(1592)七月、肥前名護屋城本丸番衆の中にその名が 見える(太閤記)。 http://www.hakataboy.com/etc/NagoyaJyou/m.html

佐久間 信栄 (さくま のぶひで)ハビアン不千斎
弘治二年(1556)~寛永八年(1631)四月二十七日。
甚九郎、駿河守。斎号不千斎。法名宗岩。
 

文禄二年(1593)教義書を作成した不千斎ハビアン

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 4月 5日(月)17時35分35秒
  1591年、日本語サントスの御作業の内抜書
文禄二年(1593)に“Esopo no Fabulas”と題して天草のキリシタン学寮から出版
教義書を作成した不千斎ハビアン

【日本国内で印刷されたキリシタン版】 『サントスの御作業の内抜書』 1591年、日本語 (
http://www.pluto.dti.ne.jp/~tadao/zenbun55.htm
『サントスの御作業の内抜書 = Sanctos no gosagueo no uchi nuqigaqi」

『平家物語 = Feiqe no monogatari」ということである。

天 正 遣 欧 少 年 使 節 と印 刷 機 の 到 来
【日本語を洋文字で表した<ローマ字本>】(カッコ内は刊行の西暦年)
[サントスの御作業の内抜書](1591)
[平家物語](1592)
[金句集](1593?)
[伊曽保物語](1593)
[コンテンツス=ムンヂ](1596)
[ドチリナ=キリシタン](1600) など。
【日本語を日本文字で表した<国字本>】
[どちりいな・きりしたん](1591)
[ばうちずもの授けやう](1593)
[サルバトール=ムンヂ](1598)
[ぎやどぺかどる](1599)
[おらしょの翻訳](1600)
[こんてむつすむん地](1610)
[太平記抜書](?)など。

天正遣欧使節がヨーロッパに向かう際、印刷機も注文したのであった。
佐久間信盛父子が注文した。外はとんちんかん、だった。

1590年にまず加津佐のコレジヨに置かれた印刷機は『サントスの御作業』を始めとし、『どちりな・きりしたん』『すぴりつある修行』『こんてむつすむんぢ』『ひいですの導師』『おらしょの翻訳』など次々とキリシタン書を印刷していくのであった。

ここで「宇宙について」のテキストの一部ともなっている(楽譜37ページ参照)『どちりな・きりしたん』と『スピリツアル修行』についてとりあげる。

『どちりな・きりしたん』
1591年版は『どちりいな・きりしたん』、1600年版は『どちりな・きりしたん』と標題にはある。
‘どちりな’とは教理のことで、その名の通り、キリシタンの教理書である
「宇宙について」の5章B1~12のオラショは、この『どちりな・きりしたん』に所収されている。

秀吉の伴天連追放令以後、も、不千斎ハビアンは、書き残したのは、教理書である『どちりいな・きりしたん』より先に印刷されることとなった。
翌1592年に出版された『ヒイデスの導師』にも、殉教に関する章が含まれている。
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/kyouri.html
生き方に学び、倣い生きることを論じた本である。

また『おらしょの翻訳』には「宇宙について」の五章、A,B1~12が所収されていることになる。
『サカラメンタ提要』(1605年刊)は、日本文化・習俗を考慮した上で編纂された儀式書である。五つの秘跡に関する説明と教会法による規定、信者への訓辞などが示され、他にも各種の祝別や行列、埋葬式などへの指針が書かれている。

現代のように、憲法が続くと、除籍謄本みたいに、廃棄されてしまい、何も残らないのは、見えている。
人間が、廃棄されたので、今判るのは、祖父迄、で処分、している日本。
この祖父が?居たのか、居なかったか、現代憲法で、廃棄されている。
確定できるのは、父母迄である。

伝えることは、残す大切さが、なければ、今が何か解らない。

キリシタン版(きりしたんばん)とは、近世初期(16世紀末-17世紀初め)に日本を中心にイエズス会によって刊行されたローマ字、あるいは漢字・仮名による印刷物の通称である。

佐久間甚九郎正勝(不千斎ハビアン)が居なかったら、伝わっていなかった、でしょう。
武士は、殺しあうしか、知りませんでした。
文禄二年(1593)教義書を作成した不千斎ハビアンの祖先は、児島高徳や後鳥羽院でしたので、伝えることが、出来たのです。この私も同じです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%89%88

島原半島の南端・加津佐のコレジオにおいて洋装仕立てのローマ字本『SANCTOS NO GOSAGVEO NO VCHI NVQIGAQI (サントスの御作業の内抜書)』が刊行され、また和装仕立ての国字
雄松堂出版刊
復刻版『キリシタン版精選』

大字本『どちりいな・きりしたん』も印刷された。
九州の各地で印行された出版物は<キリシタン版>と呼ばれており、現存が確認できるのは30数種におよぶ。それらはいずれも新渡の西洋式印刷機により、鋳鉛活字と油性インクを使用して印刷されたものであった。
http://yushodo.co.jp/pinus/69/gviadopecador/index.html

http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kotohajime/011.html
佐久間信盛父子が注文した。外織田信長も、とんちんかん、だった。
キリシタン版の印刷所は、加津佐、天草、長崎2カ所、京都の原田アントニオ印刷所である。
(サントスのごさぎょう), イルマン ビセンテ(ら訳), 1591刊, キリシタン資料集成, 「サントスの御作業の内抜書」

三宝絵詞 (さんぼう えことば)

1592~1593、文禄の役(豊臣秀吉×朝鮮軍・明軍、朝鮮半島各地)秀吉、諸将を朝鮮に出兵させる
佐久間甚九郎正勝(不千斎ハビアン)が天草で、清原女と、改訳して、印刷した。
今の児島宮の祖である。
時は、秀吉、諸将を朝鮮に出兵した時期に、唐津城に居た佐久間甚九郎正勝(不千斎ハビアン)が見える。
キリシタン版刊行の初め(サントスの御作業の内抜書)1591年

ローマ字


1. ローマ字の歴史
1591年にポルトガル式ローマ字で出版した使徒行伝『サントスの御作業の内抜書』() が現存する最古のローマ字文書である。
現存する最古のローマ字文書である。

1600年前後に刊行されたキリシタン版の中に『ばれんちぬす上人の事』と題された一書がある。ローマ字日本語表記で、刊行年、筆者は記されていない。どういう経緯で印刷されたのかは明らかになっていないが、活字を他のキリシタン版と照合した結果から、間違いなくイエズス会の印刷機で刷られたものであると考えられている。
http://d.hatena.ne.jp/bachihebi/20100214/p1

『サントスの御作業のうち抜書』(1591)を皮切りに、『平家物語』(1592)、『伊曾保 物語』(1593)、『日葡辞書』(1603~04)、ロドリゲス(J. Rodriguez、1561~1633) 『日本大文典』(1604~1608)など多くの文書が出版された。

日本人の為に、佐久間甚九郎正勝(不千斎ハビアン)は、残したもの、は、日本の伝統だった、のです。
憲法が、あると何も残らない?日本の伝統もなにもかも?
 

明徳3(1392)帯刀宮修理亮藤原満盛足利義満時

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 4月 4日(日)11時20分39秒
編集済
  満盛、満重
宮修理亮藤原満盛
小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔 師盛→越前守満盛→下野守満重→下野守元盛→駿河守教元→下野守政盛→親忠が記され、 将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

品治郡(福山市新市町新市)の亀寿山城を本拠に備後屈指の勢力を誇った国人領主宮氏の庶流で、芦品郡有地村(福山市芦田町上・下有地)に土着したため「有地氏」を称した。しかし分出の年代ははっきりしない。
http://arichi-n.hp.infoseek.co.jp/5.3.htm

南北朝時代、足利尊氏に味方して、備後の砦として活躍した宮氏一族の姿が『太平記』にみられる。
宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。

後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻めに参加した。尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱(1351)」には尊氏方に属し、観応二年(1351)、高師泰の石見攻めの軍勢に加わって奮闘している。

南朝方の京都進攻によって足利義詮は近江に逃れたが、その後の義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が備前の松田氏らとともに参加して功をたてている。兼信が活躍したころ宮下野権守盛重がおり、貞和二年(1346)、幕府の命を受けて備後国内の所領押妨人を排除する使節として活躍しており、兼信と同じく尊氏に味方して活躍していた。盛重を兼信の長子とする説もあるが、名乗りや活動時期などから、別流宮氏の人物と思われる。

康安二年(1362)、直冬の大軍が宮氏の居城亀寿山城を包囲し、味方になるように誘ったが下野入道(兼信)と子の下野二郎氏信はこれを撃退している。

このような宮下野入道の忠勤に対して幕府は、貞治三年(1364)、備中国守護職に任じて報いている。このとき、源氏の姓を与えられ屋形号を称することが許されたようで、のちに宮氏が源氏を称するもとになった。

。『西備名区』に記された亀寿山城主の系譜は、小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛→越前守満盛→下野守満重→下野守元盛→駿河守教元→下野守政盛→親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

亀寿山城は南北朝時代において兼信・氏信父子が居城としていたことが知られ、いつ、盛重系が亀寿山城主となったのかは不明である。

ここに断絶したとある下野守家は盛重系の宮氏と思われる

児島高徳ー高光─正 綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安

大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安居る と記す。助安事甚九郎助安 文安三年(1446)佐久間孫五郎助安と見ゆる。

(『近衛家文書』。村田正志『風塵録』五九頁)
天皇家の僧には条件が整っていなければならない、それは皇統の親王である事が課せられている。
この諸条件は、近衛家との縁戚が、求められていた?
児島高徳後胤である助安が、天皇の側近に入るには、この諸条件が満たされていなければ、ならない。
故に、
藤原北家に改めたのである。そして藤原助安をなのった。
近衛経忠の子として認知されていたのであろう。

朝明宗朝子甚九郎盛保とあるが、宗朝とは?藤原宗朝?
藤原為明(甲斐守) 中原宗家(大蔵大輔) とみえる
藤原為明は新拾遺和歌集(二十一代集第二一冊)を残している藤原為明編


「佐久間系図」
によれば総五郎? 朝次朝明子弥平次満盛? 安盛朝次子安通. 盛通安盛
子与六郎御器所城主. 盛明盛通子与六郎家勝美作御器所城主安土城番.となっている。

藤原宗朝からの寄進により元亨三年(一三二三)六月に完成
http://www.db.fks.ed.jp/txt/10090.002/html/00126.html
鎌倉時代元亨三年(一三二三)


宮家系図では、つづく
甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成(児島社)

宗朝為明子甚九郎満盛とあるのは?甚九郎満盛事であろう。
甚九郎満盛の子は甚九郎盛保?となっている。

児島高徳孫正光の男甚九郎満盛から見えていて、その子甚九郎朝明助安は 備後に城を構えていて、・大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安」居る 大城なりしや 六町 程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記されている。

平高望 ー良望ー貞盛ー維衡ー正度ー貞季ー正季ー小野範季ー季房ー季宗ー宗清ー
平経盛女(藤原範季室)

児島高徳──高光──正綱──正光──甚九郎満盛ー甚九郎助安「佐久間系譜」 朝明 ー満盛ーー甚九郎助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー甚九郎ー甚九郎信盛ー甚九郎 信栄(正勝ハビアン)ー甚九郎夜須児島宮系へ

千葉介常胤流粟飯原氏系に、宮修理亮藤原満盛見ゆ(????-1340)鎌倉時代半ば、粟飯原氏は北条得宗家に仕える御内人であった

朝廷軍には脇屋義助など新田一族・股肱の臣ほか、旧御家人の巨頭・佐々木高氏入道道誉など近江源氏佐々木党も加わっており、千葉介貞胤も朝廷軍の一翼として京都を出陣した。
京都になだれ込んだ官軍と足利勢は京都市街で激戦となり、足利勢は劣勢となり尊氏は京都を捨てて摂津国へ逃れ、2月、摂津国でも敗れて九州へ落ち延びていった。

4月には一族・一色範氏を筑前に残して京都へ向けて軍勢を発すると、播磨国兵庫湊川の戦いで新田義貞の大軍を破り、楠木正成一党を討ち取った。この足利勢の中には千葉介貞胤と惣領をめぐって争っていた千田太郎胤貞(貞胤の従兄弟)が加わっていた。

阿波国に繁栄した粟飯原氏は「太平記二十七巻ニ出ル、粟飯原下総守清胤之末葉也 千葉氏紋月星」とあり

○明徳3(1392)年8月28日「相国寺供養参仕人」要旨抜粋(『相国寺供養記』:『国史大系』35「後鏡」所収)
戦陣郎従三十騎 斎藤次郎左衛門尉利宗、斎藤孫左衛門利房、斎藤次郎基則、三宅次郎慶明、斎藤四郎国家、和田太郎正友

「三番」
粟飯原九郎左衛門尉平将胤、佐々木三郎左衛門尉高光、

「先駆」
佐々木越中守頼泰、

「帯刀」
宮修理亮藤原満盛、佐々木五郎左衛門尉満秀、佐々木大原五郎左衛門尉源満信、佐々木田中太郎源頼兼、佐々木備中守源高数、佐々木六郎左衛門尉源信長

「御車」
足利義満

●応永元(1394)年9月11日「将軍家日枝社参詣供奉人」要旨抜粋(『日枝社室町殿御社参記』:『国史大系』35「後鏡」所収)

「狩衣」
足利義満(准三后従一位前左大臣征夷大将軍)合力十八人

「女中」
紀良子(大方殿)

時代は三代目の足利義満時に見える、「帯刀」宮修理亮藤原満盛とは、宮修理亮職となっていた。
明徳3(1392)年8月28日「相国寺供養参仕人」三代目になっていた、宮修理亮藤原満盛と見ゆる。
児島高徳男正光の男孫男、藤原甚九郎満盛と見ゆる。
藤原甚九郎満盛男は、宮家、修理亮甚九郎助安とある。
「左近衛中将藤原助安」
令外の官。左近衛府の次官。従四位下相当。左近中将(さこんのちゅうじょう)。
左近中将藤原朝臣


修理亮甚九郎助安は、左近近衛中将助安と名乗っていた。
児島高徳──高光──正綱──正光──甚九郎満盛ー甚九郎助安
摂関近衛家の諸大夫であるため天皇よりしばしば官位を下され、叙任し、修理亮任官
和名で「ヲサメツクルツカサ(乎佐女豆久留豆加佐)」と 読んで令外官のひとつである。 職掌 宮城・内裏の造営と修理が職務である。

修理職(しゅりしき、すりしき)は平安時代に設置された令外官。和名は「をさめ(おさめ)つくるつかさ」。

主に内裏の修理造営を掌る。 弘仁9年(818年)嵯峨天皇の代に令制で造営・建築を担当する木工寮の事務が繁雑であったため、いったん併合した造宮職の業務を独立させ、令外官として新設された。
天長3年(826年)に木工寮と合併して廃止。寛平2年(890年)に復活設置。


1333元弘3鎌倉幕府滅ぶ。後醍醐天皇隠岐脱出。足利尊氏丹波で挙兵、六波羅攻撃。
光厳天皇退位、この頃、児島高徳見ゆ。


1401応永8足利義満対明貿易を始める。
 

合致が歴史を証明すしている

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 4月 3日(土)19時24分53秒
編集済
  土岐頼員(ときよりかず)この頼員の妻(つま)が、北条六波羅探題の役人であった斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘?
「太平記」に記されている“倒幕計画発覚のいきさつ”です。

後醍醐の天皇としての年数は、10年と決められていました。これは自分が「徳のある王者である。」と考えている後醍醐にとっては、我慢(がまん)ならない。と後醍醐の“倒幕”が。

後醍醐の天皇としての年数は、10年と決められていました。

ここに、後醍醐の裏切りに、頼宴僧正は、高丸を、後醍醐、後座天皇に、なるのを、反古にしたので、
斎藤利行(さいとうとしゆき)に命じ、防御した。
京都ほか(奈良東大寺・興福寺、比叡山などでも動きあり)正中の変


土岐頼員(ときよりかず)斎藤利行(さいとうとしゆき)斎藤利三は附合している。
土岐頼員(ときよりかず)は三宅光春と附合している。
両家は、甚九郎正勝不干斎と、附合している。

斎藤利三娘春日局
春日局子家光

土岐 頼貞(とき よりさだ、文永8年(1271年)- 暦応2年(1339年))は鎌倉時代から南北朝時代の武将。土岐氏一族土岐光定の七男。母は鎌倉幕府の執権北条貞時の娘。妻は平宗頼の娘。
鎌倉幕府から重んじられ北条氏とも縁を結んでいた。

土岐氏の一族(土岐頼員など)が後醍醐天皇の最初の討幕計画(正中の変)に関与し、六波羅探題に察知されて多治見国長(美濃源氏)ら一派は追討を受け、土岐氏惣領の頼貞も幕府から関与を疑われている。『太平記』

土岐頼員(ときよりかず)は、六波羅庁(ろくはら ちょう)の局長・斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘と結婚、二人は相思相愛の仲であっ た。

鎌倉末期、倒幕を企図する後醍醐天皇の側近日野資朝は、武士のなかに同士を求めて関東 に下り、土岐一族と接触をもち、土岐頼兼、その従兄弟頼員、同族の多治見国長らの参加 を得た。
既に味方に引き入れてゐた土岐伯耆十郎頼員と多治見四郎國長の二人の武士が、六波羅探題襲撃を實行することと決められてゐた。

頼員の妻の父は六波羅の奉行斎藤利行だったため、妻は父に一部始終を打ち明けてしまった。
斎藤利行は、ひとまず、娘婿である土岐頼員を説き伏せ、謀議への加担を思いとどまらせ、すぐに六波羅⇒幕府へと六波羅襲撃謀議のことを報告しました。

頼兼や国長の京の宿舎が襲われ、頼兼・国長は、まさか一族の頼員の口から計画が洩れたとも知らず、探題軍に攻められて討死した。ここに後醍醐天皇の倒幕計画は失敗してしまった。これが世にいう正中の変である。

「土岐多治見等討死の事」 (「太平記」巻第一)
 『謀反人の與黨、土岐左近藏人頼直は、六波羅の奉行齋藤太郎左衞門尉利行が息女に嫁して、最愛したりけるが、世の中すでに亂れて、合戰出で來ては、千に一も討死せずといふ事あるべからずと思ひける間、かねて餘波(なごり)や惜しかりけん、ある夜の寝覺の物語に、「一樹の陰により、同じ流れを汲むも、皆多生の縁淺からずとこそ承れ、いはんや相馴れ奉つて、すでに三年になりぬ。等閑ならぬ志の程をば、氣色に付け境に触れて思ひ知り給ひぬらん。さても定めなきは人間の習ひ、相逢ふ中の契りなれば、今ももし我が身はかなくなりぬと聞き給はば、なからん跡までも貞女の心を失はで、我が後の世を問ひ給へ。人間に歸らば、再び夫婦の契りをなし、淨土に生るれば、同じ蓮(はちす)の臺(うてな)に半座を分けて待つべし」と、その事となく掻き口説き、涙を流してぞ申しける。女つくづくと聞き、「怪しや。何事の侍るぞや。明日までの契の程も知らぬ憂き中に、後の世までの兼言は、忘れんとての情けかや。さらでは、かゝるべしとも覺えず」とて、泣き恨んで問ひければ、夫は心淺くも、「さればよ、我不慮の勅命を蒙つて、君に憑まれ奉る間、辭するに道なくして、謀反に与しぬる間、千に一つも命の長らへんずる事は、あぢきなく存ずる程に、かねてはかやうに申すなり。この事、あなかしこ、人に知らせ給ふな」と、よくよく口をぞ堅めける。』


※「花園天皇宸記」の中の「或語云」中に記されている
九月十九日未明 錦小路高倉にある国長宿所を六波羅探題軍に急襲される。
主従二十余人で奮戦するが、追い詰められて自害。

之以降、高丸は混乱した、後醍醐天皇と北条六波羅探題幕府の間に立たされた。

後醍醐天皇による、二度目の討幕計画で、吉田定房の密告により発覚し、天皇が隠岐に流される。
この七年後の元弘元年(1331))に再び、討幕計劃の実行を圖られた。所謂「元弘の變」である。
ここに至り頼宴僧正、足利尊氏と接触、一旦尊氏を九州へ逃がし、宇佐を味方につけ、南朝は破れ、九州武士を引き連れて、其の二年後の元弘三年(1333)五月、遂に鎌倉北条六波羅探題幕府は倒れる。

高丸は?この時、児島範長に守られ、児島範長(和田範長 わだ‐のりなが)通称は和田二郎。この時、妻は、紀家弘の女だった、範長は女婿となっていた。
石清水八幡家の紀家弘である。

間に生まれたのが、頼宴僧正の妻となる女、そして、高丸が生まれた。

後嵯峨の遺言で、亀山天皇の女に高丸を、天皇後継に、せよと、高丸を養育した。「皇統の習わし」
そして、後醍醐天皇傍に、置いたが、後醍醐天皇は、後醍醐の天皇としての年数は、10年と決められていました。

これが語られていない、史実。
児島盛綱ー加地信実ー時秀ー東郷胤時ー女 紀家弘室(善法寺通清)ー女児島範長ー女頼宴室ー児島高徳トゾ とも、「太平記」書物の中に記してい ます。

頼宴僧正の妻父は紀家弘(善法寺通清)。
紀家弘(善法寺通清)の次女は天皇室と、足利尊氏男の室となっていた。
児島高徳は混乱の時代を乗り越えていた。

備前国(岡山県)邑久郡の住人。後醍醐天皇の第2次討幕運動に共鳴。元徳3/元弘1(1331)年8月,天皇が笠置で挙兵するや,これに応じて備前において蜂起した。

足利尊氏(あしかが‐たかうじ)方の赤松則村(のりむら)の動きを牽制するため、高徳らと備前(岡山県)熊山で挙兵。播磨(はりま)(兵庫県)で赤松軍に敗れ、同年5月児島範長は自害した。

(伊達)政宗の妻は石清水別当善法寺通清の女(むすめ)なり。
室町時代には、善法寺通清の娘紀良子が足利三代将軍義満を生んだ 。

武士の多くは天皇を捨てて足利尊氏を、かつぐ、ようになった。

後光厳天皇室、=藤原(広橋)仲子(崇賢門院)(1339-1427) - 善法寺通清女
崇賢門院は足利義満の生母・紀良子の姉妹であり、将軍足利 義満にとって崇賢門院は伯(叔)母にあたるので、義満は後円融天皇の従兄弟となる。
北朝、後円融天皇の生母・崇賢門院仲子。
『群書類従』二十八輯の『海人藻芥』(あまのもくず)に、

  八幡祠官ノ女ハ皆中臈ニ被召仕也。但俗人ノ猶子ニ成也。後円融院ノ御母儀崇賢門院
  ハ八幡祠官ノ女也。而ニ広橋大納言兼継(綱)卿猶子ニシテ後光厳院ヘ参ラセケル
  ヤ。初メハ三位局トテ中臈ニテ宮仕ハセ給ヒケリ。」
北朝の後円融天皇の御母であらせられる女院・崇賢門院は石清水八幡宮祠官の娘で、広橋大納言兼継(綱)卿の猶子となり、後光厳天皇にお仕えした、とある。『海人藻芥』は、崇賢門院の生前、応永二十七年(一四二〇)に書かれたもの。

崇賢門院の御名は紀仲子、御父は紀通清、弘和三年(一三八三)四月二十五日院号宣下、応永三十四年(一四二七)五月二十日崩御八十九才とある。
紀通清(号・善法寺)は石清水別当である。通清は『石清水祠官系図』では「道清」「異本 通清」とある。

『石清水祠官系図』により、通清(道清)の子女とその生母を調べると、次の通り。

  匡清・母は尭清女。

  昇清・母は三説記載されてあります。
     母行然女[城内類也]。
     異本母尚淳女[法師。不審。]。
     異本母通玄寺開山聖通。智泉。号清水殿。鹿園寺殿(足利義満)外祖母。[通清室。巫女。]

  女 ・母同

  女 ・母同

  女 ・母同

  聖鼎・禅僧。

  女

  女

  女

とあります。

石清水別当通清娘・仲子は、権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として女院号・崇賢門院を宣下された。『尊卑分脈』の広橋家の系図に、権大納言広橋兼綱の娘として「准三宮・叙二・異本従三位・国母・崇賢門院仲子」の記載がある。
http://homepage2.nifty.com/H-Suga/suukenmonninn.html
伊達氏に政宗と名乗る人物が二人あり、周知の独眼竜・伊達政宗は奥州伊達氏で、後世の豊臣徳川時代の人。駿河にも伊達家があり、駿河伊達家と奥州伊達家は祖先をともにするので、京都大学文学部博物館所蔵の「駿河伊達家文書」の「駿河伊達系図」には、奥州伊達家の資宗より初代政宗を経て氏宗まで九代が記載されている。「駿河伊達系図」によると、初代政宗は応永二年(一三九五)九月十四日卒、法名を儀山円孝、東光寺と号したとある。足利時代の人です。

八四代
┌─順徳天皇───善統親王───尊雅王───┬─四辻善成・左大臣
│                                          │
│                                          ├─無極志玄・天竜寺二世
│                                          │
│  八三代        八八代                    └─智泉尼聖通・通玄寺開山
└─土御門天皇──後嵯峨天皇─┐                  │
                              │                  │  ┌──昇清・石清水別当
                              │                  ├─┤
                              │                  │  ├──良子★───足利義満
                              │  別当        別当│  │     奥州伊達
    石清水別当宮清──────┴──尚清────通清  ├──女・初代政宗室★
                            後嵯峨院皇胤              │
                                                      └──崇賢門院仲子★
                                                            │北朝五代
                                                            ├─後円融天皇
                                                    北朝四代│
                                                      後光厳天皇

●承久の乱の影の犠牲者・建春門院土佐局。


『太皇太后宮小侍従ノート』「三九章小侍従、高倉天皇に出仕(一)」の「二、建春門院の理趣三昧」末尾で、『たまきはる』に登場する建春門院女房・土佐局について、次の如く紹介した。


『健寿御前日記』(たまきはる)「六、女房の名寄せ」に、番の女房として「土佐 八幡の別当がむすめ。」
とあり、『石清水祠官系図』によると、この娘は成清女である。

承明門院在子
            │
            ├──────土御門上皇
            │
      後鳥羽上皇      ┌─順徳上皇─────────九条廃帝(仲恭天皇)
            │        │
            ├────┼─六条宮雅成親王
            │        │
      脩明門院        └─冷泉宮頼仁親王



父は足利義詮。母は石清水八幡宮社務善法寺道清女・紀良子。
室は善法寺通清の女(紀氏の女)。伊達氏中興 ノ主とされている。 政宗室の善法寺通清女は足利義満の生母の妹。

美濃一国に君臨することになった土岐氏は、室町将軍家とのつながりを深くし、たとえば持益は将軍義持の偏諱を、政房は将軍義政からの偏諱を与えられるというように、室町幕府に忠実な守護・守護大名として安定的な領国支配を展開していた。

《石清水八幡祠官家》御豊─良範─延晟─良常─聖清─定清═兼清─頼清─光清─成清─祐清─栄清【平山氏】

石清水八幡宮 神主 武内宿禰後裔 紀臣氏
       1 備後氏 兼清-兼信-琳光(児島高徳・備後三郎)祠官

『太平記』巻三を初見備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後. 三郎、 祠官) これ で紀臣族と読取れ、兼信は頼宴僧正と拘わっていたとなる、それが系図に見える。
兼清──兼信──琳清【備後氏】

宇佐宮寺と石清水八幡宮寺関係年表 兼清の子息(元命の孫)頼清が権 別当となる。
康平6年(1062)  石清水八幡宮別当兼清、石清水八幡宮宝殿の前で、舌をかみ切り、自殺する。
廷久4年(1072)    清成の弟戒信(弥勒寺講師)石清水八幡宮別当の宣旨が出される。
同日、兼清の子息(元命の孫)頼清が権別当となる。

康和3年(1101)   頼清、死去、円清、石清水宮別当となる。


平山氏 善法寺祐清─平山栄清 少別当 法眼


《百練抄第七》保元3年6月29日右秦兼清。 同兼任。
保元の乱; 保元3年 1158年後白河天皇が二条天皇に譲位し、院政を開始.
宮 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)は、備後国の大豪族宮氏の一族で、下野守を称し 、後に入道して道仙と号した。

「宮」に、「神のおわす所(神宮)」と、「宮(兼信)」とをかけている。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e04/e38s02.html
宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻め 、観応二年(1351)の石見攻めの高師泰の軍勢のなかにおいて奮闘している。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_kibi_b.html


そのほか、満盛、満重。元盛、教元などの宮氏一族の名が文書にみえるが、その関係は詳らかではない。満盛以降は幕府奉公衆として活動したらしく、さきに上げた宮氏一族以外にも盛長、賢盛、宗元、盛秀らが幕府奉公衆、将軍の走衆としてみえている。
 

隠岐判官清高の娘今は備後三郎高徳の妻

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 3月26日(金)18時46分50秒
  備後三郎高徳事付呉越軍事と引き合いに出したのは、佐々木清高の娘今は備後三郎高徳の妻と、大覚寺統の系図に記。
今児島宮菊紋とシュメール王と備後三郎高徳と呉越軍事を引き合わせ、る「大徳寺系の密参録」

児島宮中興の祖、佐久間甚九郎不干斎事ルイスフェロス、から、イエズスの名前ハビアンが、秀吉朝鮮遠征の時、天草で、作本した数々の書籍、は、「大徳寺系の密参録」と附合している。

ここに、附合した、日本の根幹が、附合した、ビン越を示し、十六葉菊紋章も附合している。
類は類を呼ぶとは是也。
「天莫空勾践時非無范蠡」の十大字を書いた十六葉菊紋章も附合している。
兒島備後三郎高徳公が出 てをりますが、其の五流尊瀧院に所縁深き神社が、熊野神社であります。

この時、後嵯峨は遺言(ゆいごん)を残し、「皇統(こうとう)は弟である亀山天皇の子孫が、皇室財産の主なものは兄である後深草上皇の子孫が継ぐように」と命じたとされていました。
そして、亀山天皇が娘に遺言したのは、後鳥羽院の後胤尊滝院を継がせよとした。
このとき、?子(きっし)が、「後嵯峨の意思は亀山にあった」と答えたことから、幕府は亀山が皇統を継ぐのを認めた。

大覚寺宮北国配流名越氏為害見 母昭慶門院亀山院皇女

後醍醐の天皇としての年数は、10年と決められていました。これは自分が「徳のある王者である。」と考えている後醍醐にとっては、我慢(がまん)ならない。と後醍醐の“倒幕”が。
倒幕計画に加わっていた武士の一人に、土岐頼員(ときよりかず)という人物がいました。この頼員の妻(つま)が、六波羅探題の役人であった斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘であったそうです。
頼員は妻への愛情に勝てなかったのでしょう。

計画を知って驚いた妻は、すぐさま父である利行のもとにかけつけ、夫から聞いた話を告げました。以上が、「太平記」に記されている“倒幕計画発覚のいきさつ”です。

志純義晴と号した。正式な法名は、志純義晴大徳位。ここに大覚寺大僧正を附合している。

「皇統」宮家
甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー 甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成

南禅院と亀山院納骨堂人見家

土岐頼員(ときよりかず)斎藤利行(さいとうとしゆき)斎藤利三は附合している。
土岐頼員(ときよりかず)は三宅光春と附合している。
両家は、甚九郎正勝不干斎と、附合している。
 

大徳寺系の密参録

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 3月25日(木)17時48分41秒
編集済
  一筋に学問に生き学問に尽し果した。
東洋学
研究が未だなし遂げていない分野をも含んでいる。ただこの事実を知る人は極めて少い。
学問は禅門の賊とされた

児島宮のように、古代と対等することにあるという。

だから小島法師(児島高徳と同一人物か?)と「ハビアン(不干斎・巴鼻庵)」大徳寺系の密参録と一致する。
越王勾践は児島高徳と同一となる。

然るに、大徳寺系に、対等しない者は入山しては、ならないとしている。「大徳寺系の密参録」

又言う

世に刊布する所の鈔は、もと雲章、桃源の講説を録す、故に雲桃鈔と題する本有り。
本拠を引くに和字を以て書し、又た古語を引くに典証を失するは、憾むべしと為す。況や筆誤刀訛、多くは文に義を成さざるをや。然りと雖も鈔中に中岩諸老の中華より伝来せる口授事迹有るべし。故に実に廃するに忍びざるの書なり。

梵に摩竭陀と云い、此に文物国と云う。

探幽であり、この号は、宇治の興聖寺に蔵される「探幽斎之記」によれば、寛永12年( 12月)、34歳のとき大徳寺の高僧に名づけられた
1635(寛永12)年、江月宗玩から探幽斎の号を授かる(以後、俗に斎書き 時代と呼ばれる)。

大徳寺の江月宗玩から探幽斎の号を授かったのは、母が宮家佐久間信盛の女であった、ことから、許された。
一致したから、「大徳寺系の密参録」にかなった証である。

人は佐々家とあるのは、兄の室から、の宮家佐久間信盛の女であった事による。証である。
証を重んじている、「大徳寺系の密参録」
 

『太平記抜書』

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 3月25日(木)16時19分51秒
  通称『原マルティノの演説』(1588年)と呼ばれる書物がコンスタンチーノ・ドゥラードにより印行された。
当時のコレジオは島原(加津佐)にあり、のちに天草・長崎と移転したため、それぞれの時
期の出版物は出版地の名を採って「加津佐版」「天草版」「長崎版」とよばれる。

印刷機の導入が決定された頃と比べて、キリシタンへの政治的弾圧は大きなものとなっていた。各地のイエズス会の施設が破壊され、まず加津佐のコレジオにおかれた印刷機は、日本語及びラテン語の書物の印刷に早速使われ、日本文典や辞書などが印刷のために準備された。

寛永(かんえい)は、日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1643年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。
『日本小文典』(1620年)などが印行されはしたものの数点にとどまり、日本に残った書物も寛永4年(1627年)焼却されたのである[11]。

平家物語の題扉には「日本のことばとHistoriaを習ひ知らんと欲するひとのために世話にやはらげたる平家の物語」[15]とあり、伊曽保物語、金句集で一つをなす日本語教育書で、『和漢朗詠集』に含まれる往来物(「雜筆抄」)、『貴理師端往来』は、前者が武家向けのものであるのに対し、後者は小児にも用いるような教科書であった[16]。

書 日本語 ローマ字 1591 加津佐 現存する最古の完本である。
ドチリナ・キリシタン 日本語 ローマ字 1592 天草
ヒデスの導師 日本語 ローマ字 1592 天草
平家物語 日本語 ローマ字 1592 天草 伊曽保物語・金句集とともにともに編まれたものである。河合・村本: 134-6。
伊曽保物語 日本語 ローマ字 1593 天草
金句集 日本語 ローマ字 1593 天草
拉丁文典 日本語・ラテン語・ポルトガル語 ローマ字 1594 天草
拉葡日対訳辞典 日本語・ラテン語・ポルトガル語 ローマ字 1595 天草
心霊修業 ラテン語 ローマ字 1596 天草
精神修養の提要 ラテン語 ローマ字 1596
コンテンツス・ムンヂ 日本語 ローマ字 1596
ナバルスのざんげ・告解簡略提要 ラテン語 ローマ字 1597
落葉集 日本語 国字 1598
サルバトール・ムンヂ 日本語 国字 1598
ぎや・ど・ぺかどる 日本語 国字 1599
ドチリナ・キリシタン 日本語 ローマ字 1600
和漢朗詠集 日本語 国字 1600  朗詠集のほか、九相歌并序、無常、雑筆抄、実語教その他を収める。大河内: 24。
おらしよの飜譯 日本語 国字 1600 長崎
どちりな・きりしたん 日本語 国字 1600 長崎
金言集 ラテン語 ローマ字 1603
日葡辞典 日本語・ポルトガル語 ローマ字 1603-4 長崎
日本文典 日本語・ポルトガル語 ローマ字 1604-8 長崎
サクラメント提要 ラテン語(日本語) ローマ字 1605 長崎
スピリツアル修業 日本語 ローマ字 1607 長崎 修業ではなく修行が正しい。福島 (1973): 51。
聖教精華 ラテン語 ローマ字 1610 長崎
こんてむつす・むん地 日本語 国字 1610 京都
ひですの經 日本語(ラテン語・ポルトガル語) 国字 1611 長崎
サルペ・レジイナ、十戒他断簡 日本語 国字
祈祷文断簡 日本語 国字
「どちりいな・きりしたん」 日本語 国字
「ばうちずもの授けやう」 日本語 国字
太平記抜書 日本語 国字

翻訳に当たったのは日本人である。

小島法師(児島高徳と同一人物か?)などの手によって増補改訂されてゆき、1370年ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられている。
室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。

室町時代には『太平記』に影響され、多くの軍記物語が書かれる。

『サントスの御作業の内抜書』 1591年、日本語(洋字)
『どちりいなきりしたん』   1591年、日本語(国字)
『ドチリナ=キリシタン』    1592年、日本語(洋字)
『ヒィデスの導師』      1592年、日本語(洋字)
『ばうちずもの授けよう』   1593年、日本語(国字)
『平家物語』         1592年、日本語(洋字)
『イソポ物語』        1593年、日本語(洋字)
『金句集』          1593年、日本語(洋字)
『アルヴァレス拉丁文典』   1594年、ラ語・ポ語・日語(洋字)
『羅葡日対訳辞書』      1595年、ラ語・ポ語・日語(洋字)
『心霊修行』         1596年、ラテン語(洋字)
『精神修養の提要』      1596年、ラテン語(洋字)
『コンテンツス=ムンヂ』    1596年、日本語(洋字)
『落葉集』          1598年、日本語(国字)
『サルバトル=ムンヂ』     1598年、日本語(国字)
『ぎやどぺかどる』      1599年、日本語(国字)
『ドチリナ=キリシタン』    1600年、日本語(洋字)
『どちりなきりしたん』    1600年、日本語(国字)
『おらしよの翻訳』      1600年、日本語(国字)
『倭漢朗詠集』        1600年、日本語(国字)
『金言集』          1603年、ラテン語(洋字)
『日葡辞書』         1604年、日本語・ポルトガル語(洋字)
『日本大文典』      1604~08年、日本語・ポルトガル語(洋字)
『サカラメンタ提要』         1605年、ラテン語(洋字)
『スピリツアル修行』     1607年、日本語(洋字)
『聖教精華』         1610年、ラテン語(洋字)
『こんてむつすむん地』    1610年、日本語(国字)
『ひですの経』        1611年、日本語(国字)
『太平記抜書』         ?年、日本語(国字)

現地言葉である日本語の活字を作って教義書を作成した不千斎ハビアンことである。

『どちりいな・きりしたん』も、完成後日本からイエズス会本部に送られた献呈本
http://www.pluto.dti.ne.jp/~tadao/zenbun56.htm#top
時は筑前町役場全体が教養が無い為に、児島宮を知らないのに似る。


原マルチノが、インドのゴアにおいて、多くの宣教師達の前で、使節を代表してラテン語で感謝の演説を行った。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~tadao/zenbun57.htm#top

『 太平記抜書』6巻6冊、?『落葉集断簡、太平記抜書断簡』
国字きりしたん資料であれば、有名な日本思想体系25『キリシタン書 排耶蘇書』や、キリシタン研究シリーズの翻刻本などが好例だ。
http://yushodo.co.jp/pinus/77/tenri/index.html
「くるすのもん」と「ぱあてるなうすてる」が見える。『おらしよの飜譯』
『太平記抜書』6冊 重文。慶長年間、長崎で刊行か。
http://yushodo.co.jp/pinus/77/tenri/index.html
天理図書館蔵書よりリンク

太平記、謡曲、世阿弥、茶道などが 中心に描かれている。
六月二日未明には、本能寺の変で織田信長が最期を遂げました。
「太平記評判抜書」に河田長親が登場します。河田長親は、松倉城から撤退後、魚津城に入るのですが、これは本能寺の変後、宮崎城から魚津城に取って返した須田満親のことを指しているのではないかと考えられます。
6月3日、魚津城落城し、大将、13名は討死しました。これが有名な魚津の役です。
http://siinayasutane.hp.infoseek.co.jp/matukurajyou/sudamitutika.htm須田満親

河田長親http://siinayasutane.hp.infoseek.co.jp/matukurajyou/kawadanagatika/kawadanagatika.htm

太平記抜書(吉利. ... 積悪の積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記 したことも合わせ考える。http://wikipedia.atpedia.jp/wiki/%E6%A2%81%E5%A1%B5%E7%A7%98%E6%8A%84

落葉集残巻(吉利支丹版 西暦一五九八年 )(十二枚) 太平記抜書(吉利支丹版)
kotobank こんてむつすむんぢとは
http://kotobank.jp/word/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%A6%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%99%E3%82%80%E3%82%93%E3%81%A2

『どちりな・きりしたん』
1591年版は『どちりいな・きりしたん』、1600年版は『どちりな・きりしたん』と標題にはある。
‘どちりな’とは教理のことで、その名の通り、キリシタンの教理書である。
『おらしょの翻訳』
『おらしょの翻訳』(1600年刊)はそれまでは直接教えられたり、写本や断片で印刷されたものに頼っていたオラショに関する書物の集大成である。
『おらしょの翻訳』には「宇宙について」の五章、A,B1~12が所収されていることになる。
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/kyouri.html
 

天草のキリシタン学寮から出版ハビアン

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 3月25日(木)14時33分58秒
編集済
  『イソップ』の口語訳ローマ字本は文禄二年(1593)に“Esopo no Fabulas”と題して天草のキリシタン学寮から出版され、訳者は日本人イルマンのハビアンであったという。
http://koten.sk46.com/kinsei/isoho.html

慶長~寛永年間(1596~1644)に刊行の古活字版9種と万治二年(1659)刊の挿絵入りの整版2種および写本がある。

不干斎ハビアン
ハビアンは日本思想史上の重要人物
ハビアンは非常に有能であったらしく、イエズス会の出版物の多くにかかわっている。 1603年、ハビアンはイルマン身分であったにもかかわらず対仏教論争のために京都へ派遣 された。

永禄(えいろく)8年生まれ。禅僧からイエズス会士となる。慶長10年護教論書「妙貞問答」をあらわし、翌年林羅山と論争。

僧名は恵春(俊)。号は不干斎巴鼻庵(ふかんさい‐はびあん)。

大徳寺の僧であったが1583年ごろキリシタンとなり,1605年《妙貞問答(みょうていもんどう)》を著し,神・儒・仏三教を排斥。(1565-1621)
書名を「はでうす」と読む。
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data01.htm

『天草版平家物語』の作者である不干ハビアンは、“転びイルマン”の烙印をおされ数奇な運命を辿ったという。物語は、彼が著すキリシタン護教書『妙貞問答』に資料を提供する清原枝賢の娘「雪」を軸に展開する中で彼の人生を解き明かす。

1586年頃の日本史に登場する人物でキリスト教徒としての洗礼名が「ハビアン(不干斎・巴鼻庵)」が存在する。

「ハビアン(不干斎・巴鼻庵)」は1605年にキリスト教教理の正統性を記録した「妙真問答」を著作し、1607年にキリスト教を転向し、著作した「妙真問答」を否定する「破・提宇子(デウス)」を著作した。「デウス(提宇子)」とはキリスト教の「神」のことであるが、ギリシャ神話では「ジュピター」であり、 ゼウスは、ギリシア神話の主神である。

提宇子(デウス)は「雷」を司る天空神であり、オリュンポス十二神を初めとする神々の王にあたる。

1565~1620?]安土桃山・江戸初期の日本人イエズス会士で、「天草本平家物語」の編者。山城の人とも、加賀の人ともいう。初め禅寺に入り、恵俊と称した。改宗後、キリシタン教義書「妙貞問答」を著したが、のち棄教してキリシタンを批判した「破提宇子(ハダイウス)」を著す。不干斎巴鼻庵。

『サントスの ごさぎょう 御作業』(1591年刊)と題する聖人伝を出版 その他に日本人イルマン・ハビアンによって 1605 年に『妙貞問答』が著された。

不千斎ハビアンの浄土教批判 : 『妙貞問答』における浄土四義

「平家物語」は、法師のひとりがたり(モノローグ)による和漢混淆体の文章であるが 、ハビアンによる面目は「喜一検校」と武家「右馬丞」との対話

天草版本は、平家物語・伊曾保物語・金句集が合綴されている。平家の緒言の終わりに1592年12月10日 口訳者Fucan Fabianの名がある
伊曾保物語の緒言は1593年と記されており、以降の耶蘇会刊行物に日本人の記名はなくなっている。

「平家物語」の中で、「母」が fafaあるいはfauaと複数表記されている
ローマ字化に関わったのは、ファビアンひとりではないと考えられる。
平家物語」は、法師のひとりがたり(モノローグ)による和漢混淆体の文章であるが、ハビアンによる面目は「喜一検校」と武家「右馬丞」との対話体(ダイアローグ)としたことによる、平易な語彙記述と、物語を二重構造にした工夫・考案にある。

1621年3月15日付 イエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスが総会長ヴィテレスキに宛てた報告によれば、ハビアンが長崎奉行長谷川権六に協力して、キリシタン迫害に協力したことが記されている。

不千斎ハビアン縁戚の天海僧正の子が、天草に着任し、天草四郎に殺され、天草の乱となる幕府。農民一揆に有らず、暴動である。
秋月藩も鎮圧に乗り出した。

ハビアンおよび原マルチノ、辻トマスの3人は抜きんでて優秀であったにもかかわらず、国内での宣教活動に専念させられた。信長の遣唐使に派遣されている。
ハビアンの著作には能の影響が強く見られる。『平家物語』にしても、単に口語訳したのではなく、ワキの問に応じて間(アイ 狂言役者が能で演じる土地の住人やシテ・ワキの家来)が語り直す、という方法でストーリーに新たなリズムを表出させた。

ハビアンが『妙貞問答』上巻「禅宗之事」において「大徳寺ニテノ(密)参ノ物」と稱した記述の出典を確認するべく7種の密参録を参照した結果、たしかに大徳寺系の密参録の形式に合致しているとの結論を下した。
大徳寺高東(桐)院は、児島高徳祖以降の菩提寺となっている。児島宮家菩提寺1350年以降。

「大徳寺系の密参録」

即ち「ロ語平家物語」「伊曽保物語」「金句集」(加賀人編)「こんてむつす・むん地」(福井市発見)「太平記抜書」「落葉集」(金沢より発見)以上六種でございます。
http://homepage3.nifty.com/ninsokyo/02.html
「伊曽保物語」と「金句集」と合本一冊になって大英博物館に蔵する天下の孤本でございます。然かもこの作者は我が郷土人、加賀の禅僧ハビアンでございます。一五九二年天草の日本学林刊
表は表題、裏は一五九三年二月二十三日のハビアンの序文がございます。
第二葉はDocujuno fitoni taixite Xosu(ヘボンローマ字と異る)。第三葉表より本文が始まり、P.3~408の頁があり、最後の三葉は「目録正誤表」で頁末載でございます。勿論僅か欠頁となっております。扨編者ハビアンは慧春、巴鼻庵、不干、恵俊、恵春、梅庵、Fucan Fabianとも称され、文章がロ語体で検校が二人問答体となっております。不思議なことに狂言ロ調の「ヲジヤル」「ヲシヤル」が使用され、其後転教し仏徒に帰った時「元和六年(1620)」「破提宇子」と云う本を書いております。

ハビアン転向前は「妙貞問答」中下(上欠)を著し、又松永貞徳案内で盛んに宗論行っております(羅山文集)。就中東都秀忠、駿府家康に面会、其の廃他主義の不可を説いているのが有名でございます。「伊曽保物語」同じく一五九三年天草版でございます。 御承知の如くイソップは紀元前五00年前欧人イソップの編、前述「平家物語」に続いてP.409~506と続いております。

「金句集」一巻、一五九三年天草版。続頁P507~553.五倫の説明が所載され、別途格言も集録されております。是は云う迄もなく、ローマ字に依って、外国教師の日本語を習熟させる教科書の使用すると同時に、道徳教訓を与へる目的で出版されたものでございます。以上を按えますると、語学者ハビアンは外国文学(イソップ)を邦訳し、日本文学(平家物語)を彼地に訳した所謂翻訳濫觴者と云わなければなりません。

「太平記抜書、六巻六冊同断簡ニ葉、」これは明治三十一年(1898)アーネスト、サトー氏金沢に於いて発見、続いて田中青山に渡り、内野皎亭蔵となり、同じく現在天理図書館蔵となっております。

(現在大英博物館に池善印本蔵)次は「太平記抜書」の底本にふれましょう。

慶長八、十、十二、十四、十五、古活字版説が有力と云われます
慶長十五年古活字版(泉丘校本) 「40巻、二十一冊三四0章」が有力視されて来ました。
一四八章六巻六冊の縮めたとの見方が強い様でございます。慶長も末期になりますと、和活字も洋活字に劣らぬ印刷となっております。

表具師池上幸二郎(浩山人)が前述「太平記抜書」の裏打から発見されたもので、断簡ニ葉は同じく表紙裏から出品されたものでございます。

(郷土史家) 以上は昭和55年7月1日 「こだま」第61号 金沢大学付属図書館報より

ここに、不千斎ハビアンの祖の「太平記抜書」が開かしている。
2009年3月8日 ... にもかかわらず、ハビアンについての本格的研究がなされるようになったのはかなり近年 のことらしい。

「 不干斎ハビアンは戦国時代末期の人である。
はじめおそらく臨済宗の禅僧であったが、のちに改宗して、キリシタンになった。仏教・儒教・道教・神道に通暁した学識豊かなイルマン(修道士)として、際立った活躍ぶりを示した。『妙貞問答』で仏教批判の先鋒を担ったが、突然、修道女を伴って棄教。
修道女資料を提供する清原枝賢の娘「雪」である。

彼が面白いのは、その真理探究の念が強すぎて、仏教、次いで儒教、そしてついには返す刀でキリスト教まで斬って棄ててしまったことである。
ハビアンは仏教、特に禅宗を手始めに、儒教を学び、やがてイエズス会宣教師に出会って、キリスト教に改宗した。そして二十余年の宣教活動の挙句に棄教した。その末期には林羅山との論争を経験している。

ただに棄教しただけでなく、『破提宇子(破・デウス)』というキリスト教教義に対する批判書まで著した。それは死の前年の出来事であった。
 その反キリスト教書中で、彼自身がかつては信仰したはずのデウスを否定する根拠として示したものの一つに、前回紹介した孔子と子貢の問答がある。
 すなわち「天、何をか言うや。四時行なわれ、百物生ず。天、何をか言うや」という孔子の発言である。
 ハビアンに言わせれば、『論語』にも天という万物の主宰の存在は説かれている、ゼウス、何の珍しきことかあらん、というわけである。
http://saigou.at.webry.info/200903/article_2.html

「天道とは、天地の間の主人なり。形もなきゆえに、目にも見えず、然ども春夏秋冬の次第のみだれぬごとくに、四時を行い、人間を生ずることも、花咲き、実なる事も、五穀を生ずる事も、皆これ天道のわざなり。・・・」
孔子と子貢の対話「天、何をか言うや、四時行なわれ、百物生ず」を基に天道を論じている。

一言伝えておく、孔子を取り上げたのは、宮家不千斎ハビアンの祖、日本ではなく、紀元前中国の戦国時代の、越王勾践の女の嫁いだ先が、楚の昭王の、室で、その時孔子が、昭王から迎え入れられていた事に、関連している。

『日本人の宇宙観1』は天皇家によるところが大きい。現代とは違う?

日本人修道士不干斎(ふかんさい)ハビアン(1565~1621)が、1605年に刊行したキリスト教の教理書『妙貞問答(みょうていもんどう)』で仏教、儒教の宇宙論を批判しました。
これに対し、翌1606年、当時若干23歳の若き林羅山(1583~1657)が朱子学の立場からハビアンのいた京都の南蛮寺に乗り込んで論争を挑み、そのやり取りを『排耶蘇(はいやそ)』に残しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/karaokegurui/55435699.html

無断転用・無断転載をお断りいたします。
 

越王の無諸「烏金兎毫」という磁器窯

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 3月 5日(金)08時49分36秒
編集済
  紀元前202年に、閩越王の無諸は
無諸はここで城をつくって都を設立して、「冶城」と称しま した。
今まで断崖絶壁の上に残された「架壑船棺」と「虹橋板」は古代越人特有の埋葬風俗です。

城村漢城遺跡は武夷山市興田鎮城村より1キロ離れた南西側にあり南北の長さが860メートル、東西の幅が550メートル、総面積が48万平方メートルです。
発掘されてみると、城内に仏閣、楼閣、兵舎・住宅、製鉄所、製陶とお墓などの遺跡が多数あります。建築物は南向きで、左右が対称になっており、配置が厳格で、当時の平原地区の都市の配置とはっきり異なり、江南独特の「幹欄式建築」です。古い城の排水システムは自然な山坂、谷間を利用してつくり、雨水と汚水を分流させ、その配置が合理的かつ自然で、奇特だと思わせます。

「出土した4万点余りの文物」
福建はすでに高い水準の製錬・鋳造や製陶などの工芸を持っていたことがわかります。
城村漢城は当時閩越王無諸はここで城をつくって都を設立して、「冶城」と称しま した。
http://jap.visitxm.com/Html/zbmy/140630221.htm

建窯(兎毫盞) 日本ではこれを、禾目天目と呼んでいます。中国の福建省、建窯において天
目茶碗が焼成されたのは、北宋末期から南宋中期に掛けて。
夜須にもここから、禾目天目が多数出土しているのは、何らかの関連があった。http://homepage2.nifty.com/nessho/kenyou.html太宰府歴史資料館に、保管している。
小石原皿山高取八仙氏と、拝見した。
茶色の禾目紋様の現れたもので兎毫盞と呼ばれています。ウサギの毛、すなわち兎毫

兎毫盞(とごうさん) 天目の一種。 天目釉に兎の毛のような柔らかくも不揃いの縦縞の文様ができたものをいい、禾目(のぎのめ)天目とも呼ばれる。

日本の九―十一月の兎毫を最上のものとしていたことが判る。
九月から十一月)頃、崇山の絶壁の兎の毛を取る。崇山は高い山ということである。
南宋時代初期13c
中国福建省の建窯で喫茶の器物に黒釉が厚めにかけられ、鉄の結晶が筋目に出来た建盞天目茶碗という。
http://www.toufukuji.or.jp/freepage_48_1.html

武夷山星村の太廟には遇林亭北宋の「烏金兎毫」という越王の無諸磁器窯の遺跡があります。からす‐がね【烏金】烏金" とは 明烏のカァで借り、夕方のカァで返す。
「烏金」とは烏からきている。 人に嫌われ、群れ、不吉だといわれる黒い鳥だが、彼らには彼らの生き方がある。

烏金とは? (1)「赤銅(しやくどう)(1)」に同じ。 (2)墨の異称。 (3)鉄の異称。
烏金"とは「黒金」を福建省独特の口語で表したもので、日光に当たると茶葉が黒光りするところからきているそうです。鼠色の土器の名称須恵器(越土器)

河南省墓葬
http://kankouha.cool.ne.jp/yiji/huabei.html「烏金兎毫」という磁器窯の遺跡があります。 鷹嘴岩 ... 武夷山城村の登り窯は「烏金兎毫」、夜須の鳥巣窯と、同じであった。

丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。

(楚王)恵王((楚王)昭王の子)母は越王句践娘

越王無諸及越東海王搖者 其先皆越王句踐之後也
越王句践世家 第十一 - 越 国姓始祖:無余 廃主:越王無彊(?代)

越無諸・郢・丑・;居股(東城候)  /東甌;揺 .

古代越人特有の鳥風習が、原始の倭国へ、越王丑の子と伴に、夜須都を開きました。

丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。
 

武夷山遇林亭磁器窯址は夜須の鳥巣窯の数十年前のもの

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 2月26日(金)18時58分32秒
編集済
  「架壑船棺」と「虹橋板」は古代越人特有の埋葬風俗です。
http://jap.visitxm.com/Html/zbmy/140630221.htm

小蔵峰にも架壑船棺があります。 http://www6.ocn.ne.jp/~chashi/midokoro.html


福建省武夷山市南郊
城村漢城遺跡
http://big5.destguides.ctrip.com/china/wuyishan/sight49017/

閩越王城博物館
http://www.fjkhly.com/aboutus.asp?typeid=3

城内に仏閣、楼閣、兵舎・住宅、製鉄所、製陶とお墓などの遺跡が多数あります。
「烏金兎毫」という磁器窯
禹にはじまる。
天目というのは浙江省杭州西方、浙江省と安徽省の間に広がる海抜1400m程度の山群の総称である天目山という山の名前に由来し茶の、室町に、夜須地方の砥上で、発掘されている。
夜須地方と浙江省禹にはじまる、磁器窯の関係は、邪馬台にあった。

前漢時代の王城である城村古漢城は江南地区で最も保存状態が よい城市の遺跡として知られています。
切り立った断崖絶壁の窪穴には三千数百年前の世界最古といわれる船形の懸棺が残されていて、川下りの竹筏からも見ることができます。また、400枚以上の摩岩石刻や古崖居も残されています。
http://www.pacificresorts.com/china/tantancafe/worldheritage/200807/
武夷山は古来、茶の名産地としても知られている。

栄西も後鳥羽院から聞いていたから、持ち帰った、夜須へも土器とともに、持ち帰った。

武夷山遇林亭磁器窯址は夜須の鳥巣窯の数十年前のものである。
http://www.wuyiguide.com/big5/Landscape/Wuyishan/YuLinTin.htm

閩越王城遺址博物館

古代福建地區閩越族人建立的王國政權創造了
出土大量的陶器、鐵器、銅器等、盆、壺、鉄剣、矛、銅鏃、弩機等、即閩越國統治時期
青銅時代遺址和古窯址
 

武夷山城村漢城遺址宮殿基址

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 2月25日(木)18時41分27秒
編集済
  コガンソンと鷹嘴岩

武夷山城村漢城遺址宮殿基址
http://www.wuyiguide.com/big5/Landscape/Wuyishan/ChengCun.htm
武夷山
http://www.wuyiguide.com/big5/Guide/Info/170.htm
架壑船棺や
「烏金兎毫」という磁器窯の遺跡があります。

鷹嘴岩
天車架から西へ約100m行って、雄鷹の姿に似た巨岩がある。鷹嘴岩は渾然として一体をなす巉岩であり、丸坊主のような岩の頂上、べきものであるという渾然として一体をなす、裸になった岩の頂き、東端は前に突き出ていて、尖って曲がっている所は鷹の口に見えます。



☆鷹嘴岩では祭祀跡が見られる、同時期漢の武帝から、倭国へ海を渡った東越王は、夜須の、篠隈のコガンソンと、言う所に、祭祀を行って居たことが、鷹嘴岩=コガンソンで、見えた。

地名コガンソンには、佐久間正勝の長男正成以降の墓石が、近年改葬納骨堂になるまで、宮家の、墓葬地であったのも、関連した重複の風習が見える。
現在は、安の里公園になっているが、
安の里公園を整地した業者が、発掘した土器には、越式土器が見られた。
武夷山城村の登り窯は「烏金兎毫」、夜須の鳥巣窯と、同じであった。

日本の茶もここから、きていた。児島宮歴研会
茶は越皇帝が始めたとある。
深紅の長衣を神茶の上にはおり、茶の木を「大紅袍」と名付けたそうです。

城が長方形を呈し、南北の長さが860メートル、東西の幅が550メートル、総面積が48万平方メートルです。
発掘されてみると、城内に仏閣、楼閣、兵舎・住宅、製鉄所、製陶とお墓などの遺跡が多数あります。建築物は南向きで、左右が対称になっており、配置が厳格で、当時の平原地区の都市の配置とはっきり異なり、江南独特の「幹欄式建築」です。古い城の排水システムは自然な山坂、谷間を利用してつくり、雨水と汚水を分流させ、その配置が合理的かつ自然で、奇特だと思わせます。
http://jap.visitxm.com/Html/zbmy/140630221.htm
漢武帝が閩越を平定して、倭国入りしたものと見る。

http://www.cctxm.cn/travel/travel-look.aspx?id=321

東越王と児島宮は重複しているが、
明治以降の天皇は無関係であり、
日本古来の天皇とは無関係であるので、祖は神武天皇とか、偽証しているのは許せません。
大覚寺にも、明治天皇(在日朝鮮人、大室虎吉)で、位牌の撤去をするように、京都府庁文教課と、宮内庁に、命じた、現代の大正天皇の実父、大隈重信も、在日朝鮮人である。
無論宮内庁も在日朝鮮人で、児島宮とは無関係で、ある。

明治天皇も平成明仁天皇も、在日朝鮮人で、東越王とは無関係である。

児島高徳を架空としたのは?明治天皇からである。
そして、東郷平八郎から、明治天皇は児島高徳を架空としながら、
「従三位」にしたのは、
実在したら、東越王とは無関係であると、判明するからである。

現に史実の東越王の関係を記載しているのも、児島宮だけである。

日本の全国の寺社も、東越王には無関係となっているので、神は、正しく行われて、いない。日本の全国の神社と、神は無関係になっている。
現代の中国の、首相も現皇室と、関係しているので、中国には神の史実は、無くなっている。
今あるのは、児島宮だけである。

そして日本の憲法政治は、もう終息している、自民党はつぶれ、民主党も在日朝鮮人で、日本とは、無関係である。
今までは、かいらい政権であった事が、判明した。

東越王と児島宮は重複している。
このままいけば、日本の史実は、なくなるであろう。
まずは、国民が、知ることが、大切である。

「従三位」は醐醍醐天皇の時期も、児島高徳は、皇太子の身分であった。
「従三位」とは親王である。

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。
律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E4%B8%89%E4%BD%8D

従三位に相当する官職としては、大宰帥、弾正尹、中納言、左右の近衛大将などがあるが、実際には太宰帥は親王が任官する例が多く、近衛大将は左大臣及び右大臣が兼官する場合が慣例化し、三位にある者は左右の近衛中将となる場合が多かった。故に三位でありながら中将の任にある者を三位中将と称する。

児島宮の児島高徳末裔も近衛中将助安がいる。宮家とされ、宮の現宮内庁にあたる。

親王身分である。次期天皇の身分にあたる。

資格者は皇 親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である 。
日本における「位階」制度は律令制に基づく政治行政制度と共に中国から継受し、独自の発展を遂げた。

位階は603年(推古天皇11年)に冠位十二階の制度を定め、官人に対して冠を与えたのが初めとされる。この「冠位」制度はその後数度の変遷を経て、701年(大宝元年)の大宝令および718年(養老2年)の養老令により「位階」制度として整備された(→冠位・位階制度の変遷を参照)。律令制における位階は親王が4階(品位、ほんい)、諸王が15階、諸臣が30階あって明治維新まで変わらなかった。位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則とした(官位相当制)。また原則として軍功に授けられた勲位(一等から十二等)とも連動し、あわせて位階勲等と称した。
贈位の場合、贈従三位とされた。


が、終息している。
1871年9月24日(明治4年8月10日)に出された明治4年太政官布告第400号により従来の官位相当制は廃止された。

明治時代の初期には新たに近代的な在日朝鮮人式太政官制が敷かれたが、西洋の憲法で、古来の方式とは、無関係である。「似せているだけに過ぎない」
在日朝鮮人だから、すべて、嘘である。
 

越王の余善の行宮

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 2月14日(日)18時15分41秒
編集済
  東越王餘善
東越は領域が狭小で、険阻の地が多く、閩越は人々が剽悍で、去就の常ならざるものがる」
、その地の民をすべてひきいて江・淮の間に移住させ、漢民族を入植させた。東越の地から、越人がいなくなった。

閩越國的古都
東冶的位置
閩越國共存在92年

武夷山有兩位越王同時存在
越王無諸的後代東越王余善
閩越王城
前334楚滅後越之余部退至福建越王無諸王即「史記」
星村の太廟には遇林亭北宋の「烏金兎毫」という磁器窯の遺跡があります。

武夷山風景区は福建省武夷山市南郊に位置し、武夷山脈の北端東南側の麓にあります。
「架壑船棺」と「虹橋板」は古代越人特有の埋葬風俗です。
「お茶の王」と呼ばれている大紅袍茶樹は九龍巣の最後の巣の岩本に成長してきたものです。

武夷宮は会仙観、沖佑観、万年宮ともいい、大王峰の南側の麓にあり、九曲渓の入り江に面し、歴代帝王が武夷君を祭るところ
城村漢城遺跡は武夷山市興田鎮城村より1キロ離れた南西側にあり、国家重要文化財です。古漢城遺跡は起伏のある丘陵山地にあり、城が長方形を呈し、南北の長さが860メートル、東西の幅が550メートル、総面積が48万平方メートルです。

発掘されてみると、城内に仏閣、楼閣、兵舎・住宅、製鉄所、製陶とお墓などの遺跡が多数あります。建築物は南向きで、左右が対称になっており、配置が厳格で、当時の平原地区の都市の配置とはっきり異なり、江南独特の「幹欄式建築」です。古い城の排水システムは自然な山坂、谷間を利用してつくり、雨水と汚水を分流させ、その配置が合理的かつ自然で、奇特だと思わせます。

濃い漢代風格を有する出土した4万点余りの文物から見て、2千余年前の福建はすでに高い水準の製錬・鋳造や製陶などの工芸を持っていたことがわかります。

城村漢城は当時閩越王の余善の行宮だと考えている
http://jap.visitxm.com/Html/zbmy/140630221.htm

越王の余善窯跡
http://www.wuyiguide.com/big5/Landscape/Wuyishan/YuLinTin.htm

登り窯
http://www.wuyiguide.com/big5/Landscape/Wuyishan/YuLinTin.htm


船棺和虹橋板
遺蹟跡
 

東越王と除副の妻

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 1月10日(日)22時15分4秒
  東越王余善の時期には「武帝」の玉璽を刻印し、皇帝として自立、反漢の兵を挙げた。
東越が南越征伐に参加したいと申し出ながら実際には兵を出さなかったことを糾弾し、東越王余善を誅するよう願い出た。

武帝時,東越王余善,与其兄郢相攻殺,帝遣兵討之,余善竄入広業深山中(莆田県),士. 卒無聊,善命捏泥為頭,編竹為身,作傀儡戯」 2) とある。
劉濞の作戦ミスと周亜夫の活躍により、徐々に形勢は逆転し、呉軍は壊滅し劉濞はわずかな側近達を引き連れて、かねてから親交のあった東越王の下へ逃走する。

東越王は勾践の裔とされ、中国を逐われてベトナム人の祖となったという。 勾践 〜B496〜B465. 鳩践とも。 允常の子。
越王・東越王は越王句践の子孫であり、長く浙江省・福建省一帯を領有した。 前漢武帝によって国は滅ぼされたが、王は万戸侯となった。

東越王の移動先は?
それは東夷の国?
東夷の国には、百年ほど前に、会稽の夏邑から、除副が先に、倭国を開国させていた。
ここで、除副の妻が、夏越人であったという。
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2010年 1月10日(日)13時13分49秒
  今年もどうぞよろしく
お願いいたします。
児島宮歴研会の掲示板をもういちど、読み直す事が、歴研会の方針です。
 

夜須なくして日本無し

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年12月11日(金)17時52分31秒
編集済
  夜須なくして日本無し、とは?「語呂合わせ」にならないのです。

盤古という、すべてのものの、はじまりの意がなくては、成り立ちません。
ここで?「語呂合わせ」をして見ましょう。
夜須の語源は?古代中国の始まりの、雲南省の都の会稽安邑、から、名づけた地名です。

「児島宮」がなければ、日本の古代も、成り立ちません、成り立つ資料がないからです。

知るために、?「児島宮」「語呂合わせ」の盤古から、はじまらなくては、ならないのです。
古代中国安邑は当初この塩池の付近におかれていた。

元前三世紀の前半(秦 の昭襄王21年、前287年)に、塩池を含む解州 ... 中国では、周やその後に秦が起こった 陜西省の北部や、内陸部の甘粛・青海・新疆・蒙古、東北三省等にも塩池があり、四川の 嘉陵江流域や雲南・貴州では塩井、湖北・湖南に ..... 北方の匈奴は夏后氏の後裔と 伝え、江南に興った越も夏后帝少康の庶子無余が会稽に封じられたのが起源といわれる。 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/sionokami/siokami2.htm

「浙江省会稽」あんゆう 安邑 固有地名
夜須の地名は王の祖先にあたる中国古代夏王朝禹の都安邑をつけています、
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/keijiban13.htm

会稽で呉王夫差が越王勾踐を大破/越:勾践は会稽山で 呉軍に囲まれ、屈辱をうける。
会稽(越)
防風氏後至,禹戮之。禹崩於會稽,因葬焉。 會稽 縣,属今紹興府。防風氏國,今湖州府武康縣。

伏羲氏  女媧氏

黄名帝[在位一百年],謂之三皇。繼之以少昊[在位八十四年]、顓頊[在位七十八年]、高辛[在位七十年]、唐堯[在位七十二年]、虞舜[在位四十八年],謂之五帝。(璜按雙湖胡氏曰:三皇之號,於周禮:外史掌三皇五帝之書。

夏禹王治世,先天六會已過,時當午會,陽極陰生,所以治日常少,亂日常多。應後天六會也。

按夏禹八年甲子至今洪武十七年甲子,凡三千六百年。夏商周三代,共占一千九百年。中間自魯隱公元年已未入春秋,至哀公十四年庚申,凡二百四十二年。哀公十五年辛酉至周烈王二十三年戊寅入通鑑,至五代之末己未,共一千三百六十二年。宋太祖另起不在通鑑者,又四百年至元末。中間賢愚不等,善惡不同,是幾箇一場創業開基,幾箇一場龍爭虎鬬,誰弱誰强,誰是誰非,恰似一枕南柯,都打入漁樵話裏。今將歷代史書大略編成一段攒十字詩詞,雖然言語粗疎,僅可略知大概,少資談論,以奉知音。

盤古生,一出世,初分天地。

http://besttiger.blog.hexun.com/16135677_d.html

禹都安邑,都是 圍繞解池立國。
 

ビン越と夜須のすべてが 盤古

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年12月 3日(木)20時07分32秒
  福建、その簡称は「上ェ(ビン)」という。
ことばには、
(びん:門構えに虫)」福建には閩越と言われる部族が住んでいました

。【びん】音系方言(福建語)は福建省,広東省北東部,台湾,海南島で,粤(えつ)音系方言(広東語)は広東省,広西チワン族自治区の一部で,客家(ハッカ)方言(客家語)は広東省東部,福建省西部,江西省南部,四川・浙江各省の一部で話される。

西王母(古代の仙女、西王母は盤古(モノの始まり順序しきたり)である。

「迦陵頻伽(かりょうびんが)」という上半身が人、下半身が鳥、卵の中にいるうちから 鳴き出し、美声で鳴くインドの神話
修辞法は、
賦ー真っ直ぐ事柄を述べる
比ー単なる比喩
興ー主題を他の物事に置き換えて表現する比喩
の三っの形式に分類され、「風雅頌賦比興」合わせて詩の「六義」と云われている。

天秤てんびん
ビン系台湾語
びんご

ビンの原語は?旻天,ビン(カウテン )天地
ビンテン,旻天,ビン(テン),秋天
平(ビン)
これら の源字は『黽(ボウ・ミョウ・ミン・ビン・ ベン』で、あおうみがめ・わに(鰐)」
迦陵頻伽, かりょうびんが, 声の大変美しいもののたとえ。声の美しさをたたえるときに 使う。ヒマラヤ山中に住むとも。
4,7,備後三郎高徳事付呉越軍事,びんごのさぶらうたかのり

ビン山郡の羌族
広東語とかビン南語

漢武帝の時 遂に敗れて越国から移動せよと告げられ東夷の国に移った。日本の始まりのたとえ。
 

ビン越と夜須のすべてが、つながりに、始まっている

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年12月 2日(水)20時52分2秒
  ビン越と夜須のすべてが、つながりに、始まっている。
ビン越は漢の武帝に強力していたのだが、
閩越王無諸が城村(現在の福建省武夷山市興田鎮)に築いた王城はこの地域最大の都市となった。
秦は、越人を大量に現在の浙江省北部や安徽省、江西省へと移民させ、また中原の犯罪者を中心に移民を進めその融合を図った。
閩越王の無諸は兵を率いて閩中より北上し、中原の農民叛乱に加勢、秦朝に打撃を与えている。前206年に秦が滅亡し、楚漢の抗争が始まると無諸は再度中原に北上し、劉邦を支援して項羽を撃破、漢王朝の創建に貢献している。前202年、漢朝は無諸の支援に感謝し無諸を閩越王に封じ閩中の統治を認め。仙游一帯をその影響下に置いた。この年無諸は閩越王城の再建に着手している。

この文章は日本には、附合する資料は存在していないが、児島宮には、
閩越王の後胤にあたるので、盗作とは当たらない。
武帝は前110年、大軍を以って閩越を江淮の内地へ遷すことを命じ、閩越は海を渡り、
夜須に、移動した。
この夜須の語源に附合するのは?
閩越(ビン越)の会稽の安邑から、土地をなづけてもの。
1976年に広州で古代の造船所の遺構が発見されました。

「無諸(劉邦を助けた初代越王)の孫の君・丑だけは謀反に加わらなかった。」とし、

丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。

呉王の二人の息子=劉子華と劉子駒は、ビン越国に逃亡した。これが後に禍となる。
父 呉王 劉ヒが東越に殺され、息子たちはビン越国に逃亡。ビン越の王に父を殺した東越を攻撃するようにけしかける。

武帝が即位して間もなく、ついにビン越は東越を攻撃。東越は漢に救援を依頼。漢政府は揺れるが救援する。ビン越はこれを見て兵を引き上げた。
武帝の建元三年に ビン越が東甌を攻め、漢が救援を出しますが、救援軍が来るまえにビンは引き上げます。

南越がビン越に攻められて漢に援軍を要請した。田 フンは越人の争いは昔からのもので不介入を主張する。
びん越: 中国、秦・漢時代、現在の福建地方に住んでいた越族。また、この一族が前202 年に建てた王国。
「びん越」 中国、秦・漢時代、現在の福建地方に住んでいた越族。また、この一族が前202年に建てた王国。

越・東甌に誘いをかけた。 びん 越は従わず、東甌のみが反乱に加担した。 呉が破れ 敗走すると、東甌は漢の懸賞に応じて呉を ... びん 越王に東甌を討つよう、たびたび 勧めた。 建元三年、遂に びん 越は出兵し東甌を囲んだ。

南方-■(びん)・越
越王国に忠誠を誓っていたと思われる海人族の集団は 夜須に移動したことが明白となっている。 最近夜須町の文化財調査報告書を手元でみる。

匈奴に代表される、中国北方の異民族の伝。匈奴の祖先は夏后氏(禹)の後裔で、淳維という人物であるとされています。
きょうど
 「匈奴」の名が出てくるのは、戦国時代になってから。

匈奴を率いていたのは頭曼単于で、秦が滅亡し楚漢争覇のころに頭曼単于の子の
ぼくとつ       ぜんう               とうこ げっし
冒頓が父をころして単于となり、当時北方で勢力のあった東胡、月氏を伐ち、最大の勢力
となります。

老上単于が没し、軍臣単于の時代に、漢の武帝は匈奴をおびき出して伐とうとしますが失敗、以後交戦状態となります。軍臣単于が没し、伊稚斜単于の時代には、衛青、霍去病
の活躍で匈奴を北方に追いやります。

匈奴はその後、烏維単于、烏師廬単于、[口句]犂湖単于、且[革是]侯単于と続きます。
漢の初め、また冒頓(ぼくとつ=匈奴の 冒頓單于/ぼくとつぜんう)の破る所と爲し、遠く遼東の塞外に竄(のが)れ、烏桓と相 接す。匈奴中郎將の臧旻(ぞうびん)をして南單于を率い鴈門に出さしむ。


広東・広西省にあった南越の伝。南越王趙侘は秦の時代に南海郡竜川県の県令となり、秦の滅亡後に独立して南越の武王となります。
漢統一後も朝貢せず、独立を保っていましたが、武帝の時代ビン越に攻め入り、裏切ります。
越王句践を祖とする、ビン越と東甌の伝。
ビン王無諸と東海王揺は秦統一後に王位を廃されますが、楚漢争覇の時に劉邦に味方し、漢統一後、無諸がビン越王に、揺が東海王に封じられます。東海王は東甌に都を置いたことから、東甌王と呼ばれるようになります。

武帝の建元三年にビン越が東甌を攻め、漢が救援を出しますが、救援軍が来るまえにビン越は兵を退きます。
ビン越は、南越が反乱を起こした翌年に反乱を起こしますが平定されます。その後、武帝の命により、ビン越の民全員を、江・淮の間の地へ移住させます。
これにより、東越の地は無人と化したそうです。

武帝は陸路と海路から朝鮮を攻めて滅ばし、真番・臨屯・楽浪・玄菟の四郡を置きます。
この後、ビン越の民全員は馬韓に、移ったともされています。

魏の武帝とは曹操のことです。
天空での表現も意味し、地上では人や化身も、地名やご神体が耶麻に も、なりますから、ここでのビン民族の住まいの土地ともあてはまる。

武帝までの前漢は匈奴の属国だった門がまえに虫とかいた字 (びん) >( ちょっと離れて) >サカ >スキタイ >月氏 総称と個別名が混同しており、民族が重複する。
封禅(ほうぜん)(天子が行う天地の祭り)
華中・華南には呉・呉越・ ビン・南漢などがあり。
『三国志魏書』馬韓伝
武帝太康元年、二年、其 主頻遣使入貢方物、七年、八年、十年、又頻至。太熙元年、詣東夷校尉何龕上獻。

百済の前身とされる馬韓の実体は謎に包まれている。
(「三国志魏書」東夷伝倭人の条)もこのときの見聞録である。
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

『後漢書』馬韓伝

韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。

「南に倭と接する」

「接する」とは国境を接することを意味し、「唐会要」には南渡海至倭国(南に海を渡って倭国に至る)と海を越えることを明記している。
魏志倭人伝」は到其北岸狗邪韓國(その北岸の狗邪韓国に到る)との記述があり。
馬韓は南に倭と接する。
伯済が馬韓を統一して百済を建国した。
魏志は「辰韓は昔の辰国」、後漢書は「(三韓は)いずれも昔の辰国」
「辰王は月支国に治する」と記しており、月支国は馬韓の一国であることから、辰韓を昔の辰国だとする。

辰韓。古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう。
辰韓は馬韓の東に在り、使役を避けて韓に入って来た秦の逃亡者だと自称している。『晋書』辰韓伝

辰韓は馬韓の東に在り、そこの古老が代々の伝承では、秦の使役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。『三国志魏書』辰韓伝

始皇帝は万里長城の修改築のため、全国から労役の人々を徴集したが、酷使に耐え切れず多くの人々が馬韓に逃げ込んだが、魏志は彼らの言語が燕(河北省)や斉(山東省)の名称ではないと特筆している。

『三国志魏書』馬韓伝
おおよそ五十余国が在る。大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。辰王は月支国に治する(統治する)。
馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国)、すべての三韓の地の大王である。そこの諸々の国王の先祖はいずれも馬韓の種族である。

 馬韓人は農耕や養蚕を知っており、綿布を作る。梨のような大栗を産出。尾長雞がおり、尾の長さ五尺。邑落は雜居、城郭はない。土で室を作り、家のような形で、上部に門戸がある。跪拜の礼儀を知らない。長幼男女の別はない。貴金属や宝玉、錦はなく、牛馬に騎乗することを知らない。ただ瓔珠(ようじゅ=玉石の一種)を連ね、それを衣服に縫って飾り、首にかけたり、耳に垂らしたりしている。


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連鎖つながりに、証明がとれる

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 9月17日(木)19時35分54秒
  八千年も前のイラクのメソポタミア時代や中国の夏王朝と、夜須町が連鎖しているのに、日本の古代が読み取れる。
つながりが、ないのは、そこに歴史が無かったこと、を示しています。

すべてが、つながりに、始まっているのです。
これまで、いろんな説が議論されてきた考古学教会は、なんら、つながりは、示していませんでした。忘れることにより、真相は出てくるでしょう。

インターネットと相対している、すべてが、つながりに、始まっているのです。
 

夜須の弥生篠隈「大木遺跡」

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 9月17日(木)19時27分22秒
  この大木の字名は、稲作農耕の、跡が、遺蹟から出土する土器により、天文学が、あった事が、判る。
http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi2.html
ここには連鎖した、稲作農耕の、跡が、遺蹟から出土する土器が、弥生時代前期初頭佐賀県北部の菜畑(なばたけ)遺跡 特徴から見分ける三角
模様の印刻は、稲作祭祀民族を表す。

弥生時代 福岡県朝倉郡夜須町には連鎖が、繋がっていて、国内では何処も、連鎖は見られないのが特徴である。
この三画像はイラクのメソポタミア時代の出土品で、壺は、肩張りが見られ、中国の夏王朝と、福岡県朝倉郡夜須町には連鎖が、繋がっている。

次の画像は、双六のこま、で、日本とのつながり、が読み取れる。

三番目の王の画像の手首には、菊紋が見えていて、日本とのつながり、を読み取れる。
 

夜須と児島宮から見えた神の神殿

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 7月21日(火)15時49分42秒
  夜須と児島宮から見えた神の神殿?
児島宮と八所明神は日本の原形也。
児島宮を八所明神としているのは、招福の尊星として神格化したもの。
原形は元祖に同一となる
日天子の領有する世界、また、太陽・太陽神をさす。
八所明神御器所八幡宮は天子の領有する世界、また、太陽・太陽神をさす。児島宮
嘉吉元年(西暦1441年)の棟札によれば八所大明神(はっしょだいみょうじん)として
児島高徳胤の宮家、甚九郎助安が、天皇御所の従三位になり、宮を建設したりする家であった。「由来記」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gokiso/御器所八幡宮(はっしょみょうじん ごきそはちまんぐう)
境内には佐久間社がある。

賀茂御祖神社(下賀茂神社)内にも八所明神が儲けてある。
http://komatoshi.blog36.fc2.com/blog-category-17.html
八所明神本殿(東)と十二所明神本殿(西)は、ともに一間社流造で、ほぼ同じ規模を有し、棟札から明和三年(1766)八月に同時に造営されたことが明らかとなる。
一間社流造の古式神の原形な姿を残している点に特色がみられる。

十二所明神の社は八所の西に在り」とあり八所明神の本地仏
八所明神ハ、 熱田大明神本地弥勒菩薩也
天禄2年(971)、円融上皇と八所明神本地仏

伊勢その他四神を加えて十二所明神が八所明神社と合わせて祀られるようになります。

天照大神以下八柱を祭り、八所明神といわれる。 左本殿;天御中主神以下十二柱を祭り、十二所明神といわれる。
八所明神. 宮中賢所の祭神である八柱の神を迎えて祀ったという。


児島宮は今でも宮中賢所の祭神である根本の原点也。

八所明神とは、修験道による山岳信仰と結びついたものや(八霊山)八柱(神様を数える
場合は柱という)の神様をお祀りしたお社。
御器所の名は、建久年間(1190~)吾妻鏡にも名を残す由緒ある地であります。

古くからのつながりを、現す、児島宮の歴史.
古くは『八所大明神』と称した。
佐久間氏と御器所http://www015.upp.so-net.ne.jp/gokiso/cnegi.html

佐久間氏には絶好の地であったかもしれません。嘉吉元年(1441)に当社の社殿を修造し御器所西城を築城した頃には、佐久間一族の運気は絶頂期を迎えていたと思われ、その後、織田信長の臣下として頭角を現す頃には、現在の昭和区を始め千種区の一部、果ては緑区まで数多くの城を持ち一大勢力を誇っていました。佐久間氏が他国へ封じられてからは、慶長五年には横領され、
松平忠吉公、同十二年には徳川義直公の直封となり、十五年に城を名古屋城に移してからは、尾張公の直轄地となりました。ここに夜須k児島宮へ移り遷座し今に受け継ぐ。

御器所台地のなかでもとりわけ高く北側は絶壁となっており天然の台であったようです。

現に全国の社寺は明治革命の大室虎吉と革命派により、伊勢熊野も横領されています。尾張佐久間氏の資料となるものもすべて焼失してしまいました。
神々の歴史にそわない日本国なのです。

佐久間氏重臣服部家
永享嘉吉の間であり、天文年中既にこの地に城を築いて居た佐久間氏と姻戚関係を結んで佐久間氏に属し、織田家に仕えていたと記されています。また、服部満善の子善昌は佐久間信盛の失脚と共にこの一角に隠れ住んだと記されています。

神託により明神七所を勧請したことで八所明神と称しました。八千年の歴史ある児島宮の歴史。

石座以下8神をまつる八所明神
八所明神本殿(右側)と十二所明神本殿(左側)。
八所明神とはなんぞや?祠は「八所明神」。 宮中賢所の祭神である
 

語呂合わせと相対する日本語

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 7月 7日(火)20時31分27秒
  今日は七月七日で、七夕で、語呂合わせのように、日本語は重なっています。
これと似ているのが、
七月七日の二つのかさなりも何か意味が、こめられています?
どんな意味が重なりにはあるのか?
古代今から八千年前に児島宮の神々は、メソポタミアという所で、始まりました。

これが重なりの発祥になりました。次に言葉にも重なりあって、始まっていたのです。
日本には合わせの語源となる世界で一つの、貴重な宝物があることは知られておりません。
そこで、七月七日も、貴重な宝物があることは知られておりません。
何故そうなったのか?知らなくては何も解決はしません?
それは明治以降に、西洋の憲法が入ってきたのが、日本を変えてしまったのです?

風習が今では消えて、なくなっているのを、知っていましたか?
風習とはいくつも、重なって出来ていたのですが?
この重なりが無くなってしまった大本は、西洋の憲法が、普通に入り込み、いつのまにか?
気が付いた時には、すべてが、消えてしまったのです。

今七月七日の意味がなくなって、考え方が変わっていて、その意味が何かが解らなくなっています。
神といえば天皇と答えが、でますが、実際には、今の天皇家は、神ではありません?
神ならば証拠がなくては、ならないのですが/今では三種の神器が天皇家にあるとか?
教科書に書いてありますが?
実際はそんなものは、ないのです。

児島宮の神々はひらやま、の称号が、元祖ウガヤに付けられていました。
今の天皇家には、ありませんね?
だから本当の天皇や皇室とは呼ばれません。

日本には古くより地名が残っていましたが、今は民営化や道州制とか、へんなことば、を
御手洗経団連が、ままくしあげて、
消してしまったのは、その目的が?
皇室の証拠を消すのが、もくてき、だったのです。

これは語呂合わせの反対のことを、している事になるのです、それは一つにまとめて、しまうのが?
泥棒と同じ事をしている事になるのです。
他人のものは俺のものと、するように、一つに
まとめた後は、結果として、大きなものに、吸い取られてしまうのです。

小さな村のほうが、国民には、便利なのですが、大きくなると、関係が消えてしまいます?
これが村のなくなった現代なのです。
村は、町民のものではなくなって、いるのです。

それは県もなくなり、州のものになっているので、村民や町民とは関係が消えてしまいます。

村民や町民は便利どころか?泥棒にいられて、無一文になってしまいます。
村の民は村の宝なのでした。
けっして県や州のものでは、ありませんね?「村の民は村のもの」なのです。

?「村の民は村のもの」同じもののかさなりが、七月七日の意味で、神々にお祈りしてきたのです。
もう一つ語呂合わせには子宮がかさなっています?
 

自分の国の地名が消えるとどうなるか?

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 6月19日(金)21時23分48秒
  地名が消えるとどうなるか?
日本の地名には、伝達という、電信の役目を果たしていました。
これだ゜けでも、相手のすべてが探れないように、なりますので、丁度昔の戸籍も今では、
地名の消滅で、わずかに、年齢の公務員がいるうちは、のっていない自分の生誕地も、見つかる場合は、ある程度くらいでしょう。

まず自分の生い立ちが消滅しました、戸籍には記されているが、今は地名が全国変えられてしまいましたので、判らなくなっています。
後十年後には、完全に消滅します。
それだけならまだ少しくらいは、救われるかも知れないが、のん気に、していた人は過去が完全に消滅します。

地名は日本人の原点なのです、何故重要なものに、大学教授や卒業した者は、民営化推進に反対しなかったのか?

ここに現代の病気の原因が、日本人の原点、はどうでも良いとする、気です。
気の病になったので、すべてが、日本人はおかしく、なっています。
原点とは基本という。

基本がなければ、どうにもならないと、気がつかないのです現代人は。
ここに学問の無駄が、
はっきりしましたね。
何の為に学問、に働いたお金をつぎ込んだと思った事はありますか?
大人になったら言い生活をしたい?
それよりも、今かえり、観て見た事は、ありましたか?

やっとわかりましたか?すべてがなくなっては、何も出来ないという事を?

勉強よりも、しておかなくては、ならなかったのは、日本の伝統を守るという一点にあります。
身の回りを見て見ましたか?住宅は日本建築ですか?
これも地名と共存していたのです。
何もかもが、児島神の恩恵を受けているとは、誰も気づいていないようです。
だから、簡単に民営化して又道州制とかしているのは、日本の伝統
抹殺するたくらみの、あるからです。

何故そんなことするのか?
日本の伝統が解ると、今の天皇家も、かいらい、権力者に、変わったので、元の天皇家のままで、なくては、ならないが、
解るから、急いで仲間の巨大化組織に命令、しているから、今の日本のほとんどが、大室明治天皇派なので、やりやすかったのです。

目が、見えないと人間はどうなりますか?
そうです今の日本人は、見えないのです。
泥棒されているのが、わからないのは、国民のという、税金を始め、保険や年金までも、どうなっていますか?
その答えはもう出ています。

地名は人間の命です。
地名が変わっても何も、差し支えがないと、思ってませんか?
命に必要な水と同じくらい、大切な地名が、消えた?

もう命のたずな
が切れてしまいました。
人間には神のたずなが消えた時?人間の命も終わります。

おしゃかさま、とかいいますね。

地名が消えるとどうなるか

小さな町や村の名は消える地名もやはり歴史が基礎にありそれを変更すると歴史が残らない、歪められるという 。合併
地名はそれほど日常生活で大事なものなのである。地名からその土地を喚起する、呼び起こすのだ。小泉民営化は在日日本人によりかられた。
合併するとどうなるのか、村は消えてしまうだろう。

平成の大合併ですべてが、まぜくられ、本物が消えてしまう。不便になる データが消える
昔の町名が書き添えられていたりします、ここに日本の消滅を国民は選んだことになります。
ついでに人間も消えるでしょう、ここに無駄がでましたね、現代人というゴミ人間です。
合併で郷土名を失うことになる子どもたち
介護保険や除雪などはどうなるか?しるもんかです。

地名は人間の道しるべでした。
いらないとした、政治家や学者たち。
何もないならお前達も憲法もいらない、裁判所で裁きたいとなっても何も証拠がなくなったから、泥棒にあったと思えさ。 わすれろだな

これが広がると、日本の社会が消えることになる。
近年、平成の大合併で由緒ある地名が消えていっている。 都市の廃墟が転がっているわけですね。
住居表示がはじまって、古い地名が消えた。

どんな影響が出ているか、祖先の大覚寺へいったら、祖先には関係ないモノ明治天皇に摩り替えられていたので、抗議中、正せ大覚寺、市役所は天皇だから手が出せないとしぶり、京都府庁の文教かも、手が出せないので、自分で、するしかないとか。
泥棒された大覚寺内には、東映撮影に使ってた。
実際の話し、いい加減にされている歴史。

地名が消えると泥棒が多くなる。
商店会はどうなる?
地名は土地の歴史や文化を静かにかつ如実に物語る貴重な存在だった。

最近、市町村合併で昔からの地名が消えている
変わりに地名商法ですが,根室だけではなく,地方の地名を商的に利用する業者が後を絶ちません。おやおやさっそくだね。

責任とれ小泉と自民党は。保障しないのか?命のかわりにだ?
小沢の献金違反と利用しているが、そんな小さい事よりも、地名の保障のほうが重要だ。
すりかえばかり、しているのに、国民は騙されてばかりいる。
かえるという事は、すりかえるという意味だ。泥棒の文句が正義か?

そもそも民族が
違うさかい、日本の流行は関係ないんや!日本の大半は在日朝鮮人なのだ。
すりかえるのに、やりやすい、在日朝鮮人の国日本。

日本人は馬鹿ばかりだから、泥棒するのがやりやすい。
 

嫡家とは

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 6月 9日(火)09時38分15秒
  宗家宮家と嫡家
いわゆる嫡流の家柄・家系を宗家という、嫡流とも

廃嫡(はいちゃく)は、嫡流を継ぐ相続権を廃する、または廃されること。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%AB%A1
嫡子・総領が連綿と家督を継いでいくことが相続の基本形態であった。
素行不良である場合、淫乱、酒色に溺れる、遊興に走り公務を顧みない(このケースで廃嫡寸前となった例。

正統の血筋を受け継いでいる家柄。嫡流。⇔庶家(しょけ)
嫡流
家督を受け伝えていく家柄。正統の血筋。

正統
1 正しい系統・血筋。嫡流。

始者の教え・学説・思想などを正しく受け継いでいる嫡流。

1604年には廃嫡され、忠隆は千世と嫡子熊千代を伴い京都で蟄居(号は長岡休無)
した。 千世は前田利家・芳春院の愛娘であり、前田・細川の姻戚関係が徳川家康から疎
まれていたことが廃嫡の主因と、現在は解釈されている。
 

苗字のルーツはなんなんでしょう

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 6月 6日(土)19時45分40秒
  現在使っている氏名がいつ頃からあったのか?
名字の起源
平安時代末期~鎌倉時代

地名として残っています。があるので、苗字を名のったのでしょう。
地域(苗字は地域性を表す
古い苗字は地名から さがす

苗字のルーツ、家紋にあり
名田を「名字地(なあざち)」嫡子のみ
名田が「名字」となった。

明治3年からは、ほとんど苗字は充てにはなりません。

苗字のルーツが多いのは?
1位佐藤村の種をまく人(village of the sower)」を意味するという。
2位鈴木とは稲 のこと
3位高橋は。「両岸のハシ(間)をわたす事、渡し人足4位田中は田の中のこと 5位渡辺はあたり辺のこと6位伊藤 7位山本は元のやまのこと 8位中村 は村の中のこと各地の中村地名から「中村」さんが生まれました。村の中こと

漢字の語源http://gogen-allguide.com/ka/kanji.html
ルーツや語源 由来
 

前田の語源とはさき、と同語

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2009年 5月 9日(土)11時32分0秒
  日本語:語源に符号する。
ものの意味が伝わり語源になる。「ことばのはじまり」
表裏一体の形になったもの。

『かみ(神)』の語源が『かみ(上)』である
苗字のルーツはなんなんでしょう
日本語言葉 語源 由来語の起源や起源的意味。

日本語の語源とドラヴィダ語

前田の語源とは、稲作農耕の田から、発生した。
ここに地名が、起こり、そこに住んだ人物が、氏となったもの。
前田の前という字は、外に符号する当て字は?さき、と同語。
 

土師氏前田 (みさけ).陶邑に移る

 投稿者:児島宮歴研会著作製作  投稿日:2009年 4月11日(土)21時38分7秒
  「土師氏前田後胤大阪陶邑に移る」
須恵器が出現この「陶邑(すえむら)」
夜須の遺蹟の弥生土器の流れが読み取れる。
ここには器台が、夜須町の七板遺蹟との、類似が見える。
奈良教育大学古文化財教育研究室の解説には、見えていないものがある、根拠が無いのが、大阪陶邑窯跡と、民族が語られていない。

朝鮮半島から高度な焼成技術が伝来と見るのは、大きな誤りである。
土器の移動を通 じて人の移動には、陸を北上した形跡が見えると、歴研会発表した。

三重県久居市の吉江の台地と呼ばれている台地に何基かの須恵器窯跡が発見と、陸の移動の足跡が、なければ立証は、出来ないと、歴研会発表した。
大阪・陶邑窯の工人が移住して来たという推測もされています。

大宰府のそばには、牛頸窯跡群というたくさんの窯跡があって、大阪・陶邑窯跡群、愛知
・猿投窯跡群と並んで日本三大古窯跡群の一つである。
ここに示すように、窯の使用年数の計測は、著者が、朝倉市小石原皿山の高取八仙氏から、教えていただいた、窯の耐用年数は、三十年と、している。
これで、移動年数が計測されたのである。

朝倉郡と筑紫郡にまたがる、古代窯群は、「朝倉市小石原皿山の高取八仙氏提供」の計測基準で、窯の年代、火と薫物を、三十年と、している、のによる。

弥生初窯は、夜須町の鳥巣窯が、三十年⇒小隈窯三十年⇒山隈窯⇒三十年⇒次に牛頸窯へと、移動を、重ねながら、北上したもの、と見ている。児島宮歴研会著作
朝鮮半島南半部からは、大きな間違いで、窯は、王の子神武の祭祀で、なければ、符号には至らない。
これらは、木製農耕具とともに、生活用具や、祭祀に、関係するものである。
水稲農耕文化の伝播のルートは、古代中国からの、南越王と民族しか、拘わりがない。

秦の始皇帝が、記録させている、王でなければ、神まつりは、行えないと、禁句にあったのである。
ヤマタイ宮を、作り、神に捧げる為の祭祀用具に、窯器は用いられた。

大阪陶邑窯跡郡(堺市)、猿投窯跡(名古屋市)は王の足跡が見える。
器と祭祀の関係が、古代を語る。
器と祭祀を古代中国で、行った民族は、夏王朝に列なる、民族以外には、見えない。

これが秦の始皇帝曰く、王でなければ、神まつりは、行えないとしている。
土師氏と王と天皇は、民族が附合しなければ、一致しないのである。
現代の皇室例で、みれば、著者が、示したように、祭祀は今、正しく行われていないのに、違いが見えている。

天満宮と菅原道真公の関係は、現実には、
別にしなければ、符号はしないのである。
天満宮すなわち、天王の事を言い、道真は(みさけ)窯師で、菅原是善の養子にいっていた。
これが対になり、祭祀するのは、天孫で、前田道真は(みさけ)窯師の関係を、有していたのである。

これまで憶測が先行しすぎて、考古学会は、弥生年代も定めておらず、
今村峯男氏は、弥生は一千年遡るとしていた、ので、著者との、応答でもめたのは、近年で、歴博が、訂正して、著者の紀元前百十一年と照合した?
児島宮歴研会以外には、適正な、予測は出来ていないのである。
 

前田 (みさけ).

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 2月 1日(日)20時56分42秒
  祈雨・止雨の祈願をしたこと
が『続日本紀』『続日本後記』『文徳天皇実録』『三代実録』などに記されている。
『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、その後、前田某が尾張国に移り住すという内容の記載があるのも、前田と原田との関係の深さを窺わせる。

小野  近江国滋賀郡小野村発祥、敏達帝裔の小野臣の後裔。ほかに源・平・藤氏も。
前田 約395,000 加賀藩主は尾張菅原氏の後裔。前田臣、橘氏、藤原氏など諸流多し。

前田臣の後也藤原利仁流の系統で斎藤氏の庶流で斎藤季基の代に前田村に居住し「前田姓」
を名乗ったとされる。 ... 前田家は菅原道真の後裔で前田臣1市成が前身である。 前田
臣市成は土師氏の祖で、貝原益軒も系図に上げている。
http://www.rak2.jp/hp/user/yasukuhu/dialy1.html

斎藤 980,000 「斉宮頭(神に仕える者)の藤原氏」 藤原利仁の子に始まる
http://blog.goo.ne.jp/jinmeiryoku/e/c1c1897bc146761f0611d1f0b0bc15d6

元祖は筑紫国奏言郡大領前田臣市成としている。 これによると、前田氏より出ずる、
菅原道真の祖は、前田臣市成としている。

土師氏は筑紫の国奏言郡大領の前田臣市成の祖先が旧夜須町三牟田に住み、すぐ傍の三並鳥巣窯で土師を焼いて耶麻王の祭礼の担当を、命じられていた。

この土師氏から、奈良時代に入って氏姓を改めたいと願い出る氏族が増えた時に土師氏も改姓を願い出て、天應元年(781)に光仁天皇から「菅原」の姓を賜った。
陵墓を作る仕事をするめに朝廷に仕えることとなった。

855斎衡2年上座郡大領前田臣市成、善政を賞さる。
http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/amagi/amagihp/amagi/nenpyou/nennpyou/nenpyou.htm

806大同 元年大神神(大己貴神社)に神封六二戸を施入する。

斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成が「郡を理めて年久しく、善政は日
に聞こへ、百姓も声を同じくす」として、筑前国は彼を外従五位下に仮し、功を積めぱ真
となすことを申請して許されたが、彼の具体的な事績は明らかでない。
斉衡二年(855)、上座郡大領の外従七位上前田臣市成

http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi12.html
 

天満宮と八幡宮

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 2月 1日(日)20時30分22秒
  天満宮は、菅原道真のことではなかった?
菅原道真は前田氏といい、奏言郡(現在の夜須町)に生まれ、養子として菅原氏に、迎えられていた。

ここに、奏言郡の前田臣について、述べる。
奏言郡の前田臣が現存していたのは、太宰府政庁から出土した?木簡(九州歴史資料館保存)で判明した。

奈良時代に入って氏姓を改めたいと願い出る氏族が増えた時に土師氏も改姓を願い出て、天應元年(781)に光仁天皇から「菅原」の姓を賜った。
陵墓を作る仕事をするめに朝廷に仕えることとなった。
陵墓には人垣(ひとがき)という殉死の習慣が残っていた。

当時の垂仁天皇は人間や馬のかたちをした埴輪(はにわ)を造って殉死の習慣にかえる
野見宿彌は、故郷の出雲国から土師器を作っていた職人たちを100人余り呼び寄せて、人や馬などい
ろいろな形の埴輪を造って天皇に献上した。
土師氏は歴代の天皇家における葬儀儀式において、 ...土師氏も朝堂での政治に関与する官人に加わった。
http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/tenmangu.html

【菅原】古人─清公─是善─道真で系図は出来ているが、是善の養子として、前田道真は、はじまるから、後胤の、梅紋は、前田姓を名乗った。
「前田氏の祖は前田臣」で、福岡県朝倉郡夜須【古代では、筑前国奏言郡大領、を治めていた、木簡が太宰府政庁跡から出土している。
これは奏言郡大領から、米を献納した木簡(九州歴史資料館保存)の書付である。

文徳天皇(もんとくてんのう)記一説による。在位期間:850年5月31日 - 858年
承和9年(842年)、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父藤原良房にも推され代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)、仁明天皇の崩御に伴い即位。
皇女:恬子内親王(?-913) - 伊勢斎宮

愛知県春日井市外之原字前田と関係か?菊慈童

『文徳天皇實録』文徳実録 斎衡2年(856)
「文徳天皇仁寿三年丙午朔、鸞輿幸 ?大政大臣東京染殿第
云々。 ..... 又『武林録』巻六、「前田何がし、松風といふ名馬をもてり、馬取腰に
えぼしを付、路にて誰の馬ぞとたづぬる者あれば、馬はその儘えぼしをかぶり、足拍子ををふみ、この鹿毛と申するは、あかいちよつかいかは袴いばらかくれの鉄兜、鶏のとつかさ立えぼし、何がし慶次が馬にて候と、幸若を舞てとほりける云々」。是にても舞ふこと知べし。『雍州府志』に、「幸若自称桃井直常之裔、代々領・公方家之録・、其舞詞は戦場の事、盛衰の変、恋慕の情種々三十番あり。其後に出きたるを新曲と号す(今書籍目録を考ふるに三十六番外に五番有)。曲節・音声、猿楽と大同小異也。

http://www.ikedakai.com/text/kiyusyoran5.html歌舞
『楽対』に、「伊弉冊尊かみさりませしを、鼓吹幡旗をもて歌舞て祭るよし、日本書紀にみえたり。此神は、我国開闢の神にてましますを、祭りまいらするに歌舞といふ事あらんには、天照大神の御時より猶さきの代に始れる歟。されど、その祭りに歌舞を用ひしことも、後代の俗に出きしも、又しるべからず。さればまづ、神楽をもて本朝の楽の始とは申す也。庭火より朝倉其駒になる迄の二十四曲、皆これ神代の遺風にて、神を祭らるゝ時に用ひられし楽にてある也。

奴の国滅亡後、和邇氏族原家は尾張国海東郡で斎藤系前田家に婿入り、前田を称す。
和邇氏⇒和邇氏族原家⇒和邇氏族斎藤
「天つ神國つやしろをいはひてぞわがあし原の國はをさまる、これぞ道の意にはよくかな
後宇多(ノ)天皇の大御歌

前田家は菅原道真の後裔で前田臣1市成が前身である。
生誕地を、筑紫州奏言郡大領とあり、現在の筑前町三牟田のことです。

舜なる者は聖と雖も,側陋の人。禹なる者は臣,湯武も亦 然り。秦漢以降 論ずる勿きのみ。是れ則ち土地と人民有り,而る後に天子有り。乃ち衆の推す所と為り,黄袍を得て衣る者なり。主権の人民に在ること,固り其の所なり。則ち之を機関と謂うも亦 可。

而して我邦古来の史を知らざる者なり。制なる者は人の定むる所,史なる者は自然の迹。人の定むる所を以て,自然の迹を律さんと欲すは,譬うれば猶 趾を所Uりて渚Kわしむがごとし。況んや皇国憲法,天皇を以て機関と為さざるをや。高岳親王 曰く「異朝の法を観て,吾神国の掟を守る者は,国の宝なり。外国の法を観て,我神国の掟を疏んずる者は,国の賊なり。『彪邨文集』

後醍醐天皇 文保年中より,後亀山天皇 中元の末に至る,凡そ六十余年,僭犯刧奪の賊,相尋で起こり,王子を挟みて帝と為し,遂に南北 統を分かち,乾綱解紐し,絶えざる綎の如く,国家の衰乱,生民の塗炭,殆んど斯に極まる。亦た名分の正しからず,綱紀 張らざるに由るのみ。夫子の言,万世に徴すべき,此に於いてか昭昭たり。

王代編年,及び諸家の伝記,南北皇統を議する者,往往 帝室の衰弱,北主の強大なるを見,異論紛紛,或いは直ちに北朝を以て正統と為る者有り,或いは南北を以て両統と為し,仍て北朝を主とする者有り。此れ皆 大義を失い名分を紊るの甚だしき者なり。

蓋し衰替凋残,越流離,一旅一成の微と雖も,伝授の命有り以て登極する者は,直ちに正統を以て之に帰し,位号を攘み自立する者は,淫威重勢,一時を傾動すと雖も,黜け書して以て賊と為す。而して其の天下を統一し,号令 四海に訖たり,所謂一旅一成の微なる者も,亦た漸尽(*1)して遺る無きに至りては,則ち正統を以て之に帰す。此れ春秋綱目の大法,万世に亘りて易らざる者なり。享保甲寅夏五月十二日味池修居 識す
http://awata.blog102.fc2.com/

『旧事記』『古事記』なる者は,史の始めなり。然れども雑にして正ならず。故に一品舎人親王 『日本書紀』三十巻を著し以て正史と為し,神聖の道 自ずから具われり。之に加うるに,『続日本紀』『後紀』『三代実録』『文徳実録』を以て六史と為す。蓋し『日本紀』神代神武巻を稽うるに,天照大神 八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の神器を以て,皇孫瓊々杵尊に伝え,天位を譲る。故に饒速日尊を載せず,十種の瑞宝を除き,以て正統を露わせり。鵜草葺不合尊の治世の末より神武天皇に至るまで,此の間 東西相分かれ,一統と為らざる有り。天皇 乃ち兵を起こして東征し,神を祭り軍を励まし,竟に朝敵を誅し,再び天下を一統して之を治む。帝業 方めて起こり,政道 大いに正され,王沢 後世に垂るる。故に天子 一姓に相続ぎて正統 歴々たり。吾国を尊び異邦を卑しむ,其れ編集の神意実に豊葦原中国の亀鏡なり。

林春斎 『本朝通鑑』を著す

稽日本紀神代神武巻,天照大神以八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣三種神器,伝于皇孫瓊々杵尊,譲天位。故不載饒速日尊,除十種瑞宝,以露正統焉。鵜草葺不合尊治世之末至神武天皇,而此間東西相分,有不為一統焉。天皇乃起兵而東征,祭神励軍竟誅朝敵,再一統天下而治之。帝業方起,政道大正,王沢垂于後世。故天子相続一姓而正統歴々焉。尊吾国卑異邦,其編集之神意,実豊葦原中国之亀鏡也。林春斎雖著本朝通鑑,不行于世,則不知其是非也。諸家所著王代編年之書,未詳見春秋通鑑之筆法者也。正徳癸巳孟冬日光海良顕識

日本書紀、続日本記、
日本後記、続日本後記、日本文徳天皇実録(文徳実録)とあわせ て六国史といいます。

土師氏は天穂日命の裔「韓日狭命(からひさ・うましからひさ)」の子供で埴輪の発明者、
日本の相撲の元祖とも言われている「野見宿禰」を元祖とする一族である。勿論「神別氏族」である。殉死の代わりに埴輪を制作した功により、11垂仁天皇から「土師職」を仁徳天皇朝には土師連姓が与えられたとされている。古墳の造成、葬送儀礼にも代々携わった。とされている。

桓武天皇の母親の母親(祖母)が山城国乙訓郡大枝郷を本拠とする土師氏の出身であった。この縁により土師氏総てに対し朝臣姓が賜姓されることになった。大枝郷の土師氏には「大枝氏」が、大和国添下郡菅原庄を本拠としていた土師氏には、「菅原氏」が、最後に平城京郊外の大和国添下郡秋篠郷に本拠を有していた土師氏には「秋篠氏」が与えられた。

「ここで八幡宮について述べよう」

八幡宮とは、菩薩を表現して、いて、垂仁天皇から「土師職」を与えられたと、あるように、八幡宮には、天満宮天子とは違い、陵に祭祀された状態を表わしている。
この土師師は、鵜草葺不合尊治世にも、見え、祭祀に関わっていた。倭人に類する形式である。http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-26.html





桓武天皇の母親の母親(祖母)が山城国乙訓郡大枝郷を本拠とする土師氏の出身であった。
 

石清水八幡家紀家弘の女たち

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 1月 7日(水)20時10分41秒
  紀家弘の女たちは長女児島範長の室となる、─高徳流れとなる。
善法寺通清(紀家弘)と頼宴僧正息児島高徳の関係http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=yasumati&dd=22&re=322
この紀家弘こそ、善法寺通清その人である。 紀家弘の女が生んだ女が児島尊滝院の頼宴僧正に嫁して生まれたのが、 児島高徳である、この宮家は習いにより、母方に託され、亀山院に預けられ、天皇の後継にと亀山院は遺言したと記す。 この為児島高徳は大覚寺に入り、大覚寺大僧正として、数々の足跡記録を残している。児島法師の異名がある。「太平記」の作者

児島範長の縁戚 東郷胤時はこう記していた、範長は今木範俊の子なりとて 児島と河野は一族にてと、あり本当は今木備後守高長とあり。 紀の家弘の処に居た関係から系図に載せていた。


児島】高徳──高光──正綱──正光──甚九郎満盛ー甚九郎助安

「佐久間系譜」

高徳──高光──正綱──正光──甚九郎満盛ー甚九郎助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー甚九郎信盛ー甚九郎信栄(正勝ハビアン)ー甚九郎夜須児島宮系へ

明らかに佐久間氏の流れは、五器所系が本流になっていて、高徳流れとは異にしている。

佐久間系譜 満盛ー朝次弥平次高東院葬るー信晴高東院葬るー信盛高東院葬る
ー信栄(正勝)高東院葬る   住職松長剛山氏によれば、 信栄(正勝)の死にあたり、三渕家の者供が殉死したと、話されていた。

紀家弘次女は通清─女紀良子は善法寺通清の娘良子が足利義詮に嫁ぎ、三代将軍義満を生んだことから室町将軍家と深い関係にありました。
この事から、佐久間との関係が伺えるのが?最後の将軍足利義昭が織田信長から追放されて、長州毛利に、流された案内を、甚九郎信栄(正勝ハビアン)がしたと、記録しています。

紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=yasumati&dd=22&re=322
 

鷹司房子の祖は鷹司信房と輝子

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 1月 7日(水)19時39分49秒
  鷹司房子父は左大臣従一位鷹司教平、母は権大納言冷泉為満の娘。
鷹司教平子に鷹司房輔、九条兼晴、鷹司信子(徳川綱吉正室)、鷹司房子(霊元天皇の中宮)、俊海(九条兼晴猶子)らがいる。

一説に房子は鷹司教平の妹で、猶子となったという。女院号から新上西門院房子とも。
房子は懐妊しており、その年の8月23日に栄子内親王を生む。仮御所の近衛基熙邸が火災に見舞われる。

霊元天皇は貞享4年(1687年)3月21日に朝仁親王(東山天皇)に譲位する。房子は天皇の譲位に伴い同年3月25日に新上西門院の女院号を宣下される。

18世紀初期には近衛家以外の摂関家の全ての当主が教平の男系の孫(鷹司兼熙・一条兼香・九条輔実・二条綱平)が占めていた時期がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%B0%9A

この頃には天子には拝謁はしていない、ほど縁が遠のいている。

鷹司信尚父は鷹司信房。母は父の継室である佐久間輝子(信盛女)ー鷹司 教平父は鷹司信尚。慶長14年ー鷹司房子ー鷹司 信房(たかつかさ のぶふさ、永禄8年10月25日(1565年11月17日) - 明暦3年12月15日(1658年1月18日))は安土桃山時代から江戸時代にかけての公卿。父は二条晴良。継室は佐々輝子。子に鷹司信尚、松平信平、鷹司孝子(徳川家光正室)らがいる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF

はじめ従兄弟の佐々清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。

死別後、実家に戻るが、後に関白鷹司信房の継室となる。信房との間に鷹司信尚、鷹司孝子(徳川家光正室)など7人の子供を儲けた。

甥に狩野探幽がいる。

鷹司信房は輝子を後よりに迎えた、輝子号は岳星院。は佐々成政の兄の女で、あるが、兄が早世(本能寺で死亡)でしたので、成政に身を寄せていたのだから、正確には佐々成政の兄の女で、母が一門の佐久間信盛の女から迎えていた。
この佐久間信盛でなくしては、天子児島高徳後裔ではなくなると、正統天皇との結びつきがなく、関係は、無い事になるのです。
従兄弟の佐々清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は作者の捏造が見えている。


佐々成政の兄父は佐々木流れで、佐久間信盛から見れば、児島高徳母方の身寄りになる。
この関係のはじめは、佐々木盛綱の男加地信実の女が、児島高徳祖頼任親王室になって(児島宮祖)からの、縁戚が続いていたのです。

元来佐々木盛綱も藤原宗綱の子息児島盛宗の養子に入った後、後鳥羽院の承久の変で、敵方になっていたのです。
佐々木盛綱が備後の国を戦勝として、後鳥羽院領を、統治し、子息加地信実に、引き継がせていたのです、その縁は北条時政の女を室に迎えていたとあります。

一方佐々木盛綱は、児島盛綱に改め、後継には盛綱女に養子定心を迎えました。
この流れが佐久間氏で、祖は和田義盛でした。(子息は佐久間ニ代常盛)
定心事?は後継ぎの男子がなかった、ので佐久間氏に迎えられました。

佐久間祖和田義盛ーニ代常盛ー系と児島高徳の祖冷泉宮(頼任親王児島宮)は別系になる。
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=kojima&dd=22&p=1

藤原宗綱父は紀正隆でその子児島八郎盛宗と続き、婿児島三郎盛綱へと、流れている。
藤原宗綱は宇都宮宗園の子となっている。

(宇多源氏)【佐々木】盛綱……(4代略)……【今木】高長──範長
季定─季家─家長─定心─【和田】季房─家勝─家弘─══範長─高徳(三宅姓児島)

逸見重氏(法名定心)─養子三宅祖得能四郎太夫通俊子深厳─李房─家勝─家弘─══範長─高徳

長男高秀は児島範長の子で、祖は佐々木盛綱である。 三男高貞が三河三宅氏の祖、四男良寛は三河国大林寺の僧となった

北条政子妹は佐々木盛綱の男に嫁していた。
この男とは、信実である
この加地信実の娘が嫁入りしたのが、児島高徳の祖冷泉宮(頼任親王児島宮)その人である。
頼任親王との間に生まれたのが、東寺長者となる道乗僧正である。
系図で示すと、
後鳥羽院ー頼任親王ー道乗僧正ー頼宴僧正ー児島高徳となる。

加地氏は、御家人佐々木盛綱を祖とする。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう)にここには、皇孫女はいない。
後陽成天皇の第三皇子。母は、関白太政大臣豊臣秀吉の養女で後陽成女御の中和門院・藤原前子。
このように後水尾天皇からの流れには鷹司信房からが、正統天子の流れになるが、孝明天皇暗殺により、正統天子の流れは廃絶した。
1743年、閑院宮直仁親王の皇子である鷹司輔平が鷹司家を継承したというのは、正統天子の流れ児島宮家とは無関係である。

中宮:徳川和子(東福門院)(1607-1678)の系統は正室が豊臣秀吉の養女で、浅井長政の娘の小督(お江与)であり、天族から離れている。


後水尾天皇は妻の和子徳川秀忠の娘(五女)
戦国時代・安土桃山時代の女性。西郷正勝の外孫。叔父・西郷清員の養女。じつは、戸塚忠春の娘という。通称、お愛の方。徳川家康の側室として知られる。
和子母は戸塚忠春の娘
徳川 和子(とくがわ まさこ)事『ウィキペディア(Wikipedia)』は信用性に欠ける。捏造しているサイトNTT製作管理の基削除される。
云わば現皇室のまわしものに、類似する。

ひいては、引用すれば、相似せず。日本の歴史そのものまで、無用となります。

鷹司信房(1565年 - 1657年)
鷹司孝子(1602年 - 1674年)江戸幕府三代将軍徳川家光の正室。
鷹司信子(1651年 - 1709年)江戸幕府五代将軍徳川綱吉の正室。で断絶している。

閑院宮家が孝明天皇を暗殺犯とするのは、このような、流れが、隠蔽している。
 

閑院宮家は殺人一家

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 1月 7日(水)15時18分7秒
  「閑院宮家は存在していなかった」
祖東山天皇は、

閑院宮家の手にかかって果てたのは、
現代では国民の総意が求められて、皇室会議にかけられて、民が決めています。

閑院宮家の侍医であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。書き残した日記の残片を、見つけ出し、読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、「これは大変な事だ。誰にもこんな事を話してはいけないよ」
と念を押し、判読を中絶してしまったのである。
幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。
駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったしかし、その公卿は一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした
座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。
医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。
仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された。
手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。
かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。
閑院宮家の侍医に、菅修次郎と云う中国人の医者(本名・菅之修)がいる。
計画したのは岩倉具視と閑院宮家そのものである。明治天皇と関係している。

菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いている。

NHK連続ドラマ篤姫でも、宮内庁に口止めされた形跡が出た?
桂小五郎が傍で見取ったように、作者が書き直していたのが、許せないと思った。
日本の歴史はこれと同じく書き直されていて、歴史ではないのです。

閑院宮家の侍医土肥一十郎(春耕)と云う、作家・南条範夫氏の母方の祖父
屋敷には、「熟知の同業者が顔面蒼白となって座して」いたというから、或いは先の菅修次郎だったのかもしれない。
横たわっている男ににじりよって見ると、「白羽二重の寝衣や敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至る迄、赤黒い血潮にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早手の下しようもない」状態だった。

維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎と云う人がいた。その人が私に『それ(孝明暗殺)は本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』といった事がある。岩倉は自分の妹(義妹の堀河紀子)を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を風呂場で殺したと云う。更にその妹はその直後に薩藩の浪人によって殺されたと云う事である。岩倉は死ぬ時、『俺の家は女で祟るぞ』といったと云う話がある。
植村氏は若い頃、京都のある未亡人の家に行った所、菊の紋章に付いた置物等を持っているので、その理由を問うた所、『自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷付いた体を診察した為、記念として頂戴したものだ』と語ったと云う

天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑った
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/koumeitennnouheikaansatu1.html

人物の死因を毒殺に求めるのは、、東洋諸国ではごくありふれた事であり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋(慶喜)によって(他の文献では、「の為に」と書いてある!
サトウは、事柄の性質上、孝明天皇の「毒殺」を教えてくれた「ある日本人」の名前を記録していないし、サトウがそれを聞いたのは、天皇崩御の「当時」ではなく、「数年後」、即ち倒幕勢力が政権を獲得したあとである、明治年間の事である。
アーネス・サトウは、「孝明天皇陛下が刺殺された」事実を隠す為に、毒殺の偽情報を流し、フリーメーソンの本部である英国が、伊藤博文を使っての刺殺の事実を隠す為に行ったでしょう。

[隠す]表・話・編・歴宮家一覧

現在 秋篠宮 - 常陸宮 - 三笠宮 - 桂宮(新) - 高円宮

四親王家 伏見宮 - 閑院宮 - 桂宮(旧) - 有栖川宮

1947年皇籍離脱 伏見宮 - 閑院宮 - 久邇宮 - 山階宮 - 北白川宮 - 梨本宮 -賀陽宮 - 朝香宮 - 竹田宮 - 東久邇宮


断絶
時代は断絶時期を示す 鎌倉時代 岩倉宮 - 四辻宮

室町時代 常盤井宮 - 木寺宮 - 五辻宮 - 小倉宮 - 玉川宮 - 護聖院宮

明治時代以降 桂宮(旧) - 小松宮 - 東伏見宮 - 有栖川宮 - 華頂宮

戦後 秩父宮 - 高松宮

恥ずかしさもなく、菊の紋章を騙る明治大室虎吉は殺人者であった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東山天皇が祖先とする閑院宮は、廃絶していたのを?、隠蔽して復元したもの
東山天皇は正統な天子の血族の流れでは無い、母系は内大臣松木宗條の娘、典侍宗子(敬法門院)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松木宗條不明 http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E5%AE%97%E6%A2%9D&action=edit&redlink=1

霊元天皇(れいげんてんのうは)後水尾天皇の第十六皇子。母は内大臣園基音の娘で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。左大臣従一位鷹司教平の娘房子を中宮とする。

中宮:鷹司房子(新上西門院)(1653-1712)

後水尾天皇ー霊元天皇ー東山天皇ーこれで天子とは廃絶している。鷹司房子より
 

舒明天皇の歌

 投稿者:歴研会  投稿日:2009年 1月 7日(水)14時34分19秒
  やすみしし,わごおほきみの,あしたには,とりなでたまひ,
             ゆふべには,いよりたたしし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり,
あさがりに,いまたたすらし,
ゆふがりに,いまたたすらし,
みとらしの,あづさのゆみの,かなはずの,おとすなり
たまきはる,うちのおほのに,うまなめて,あさふますらむ,そのくさふかの

やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ
           夕にはい寄り立たしし
御執らしの 梓の弓の 金弭の 音すなり
朝猟に今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
御執らしの 梓の弓の 金弭の音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

(原文)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃音為奈里

やす(夜須)み(見)しし 我が舒明天皇大君(天子)

天皇か君と呼んでいたのでしょうか?「おおきみ」と「天皇」の違い
http://6102.teacup.com/sankaku/bbs
中国皇帝が天子と呼ばれたか否かは知りませんが天子が正式名称だったの >ですか?
答えはいいえ。

九州とは、元々は中国の言葉だということです。

中国には「天子は天の命によりその地位にあり、徳を失い天から 見放された王朝を廃すことは天の命を革めることだ」とある

封建制度では王の王(将軍)と、王(豪族とか大名)と、その豪族に直属する国民と言う3種類で国家が構築されております。
明治以降から現代は中央集権憲法国家では天皇とそれに直属する国民きりおりません
西洋ではその根拠を「神の下に平等」などと分けの判らない神なる概念を引っ張り出さなければ説明出来ないのです。日本でも明治以降から現代は同じです。

平等という概念を西洋に教わることなく、自前の千年にもわたる歴史から手に入れてきたのです。日本人の持っている徹底した平等意識は、アメリカを含め何処の国より優れていたのです。明治以降これは廃止されました
外国の支配は必ず自分に都合の良い法律と暴力組織を必要とします。
日本国民にとって今後天皇制は取り返しのつかないくらいの害になってしまう可能性すら考えられます
権力を手放し、権威のみの存在となったなぜなら、万民が納得する理由が必要だから。

皇室に兵権を持っていない。禁軍、近衛師団が無い。
天皇制
このなぞを解く鍵は天皇制のもとになった中国との比較からはじめなければなりません、
中国には「天子は天の命によりその地位にあり、徳を失い天から見放された王朝を廃すことは天の命を革めることだ」という。

日本はあっさり徳を失い天から見放された、変わりにと西洋方式の憲法を取り入れた。明治革命とはそういうこと。中央集権憲法国家で、万民が納得する理由が必要。神は無用とした。
憲法とは万民が納得する理由が必要、そういう、ものである。

王朝が起こっては消えてゆく王朝革命交代理論がありました
「神聖王」としての役割がいかなり「困難」
中国の皇帝は「天の命により天下を治めることを認められた徳のある人物」であり, つまりは「神の代理人」です.
日本の天皇は天照大神を祖とする「神の末裔」でしたが?明治以降からは違います。
大室海賊の流れが中央集権憲法国家で、万民が納得する理由が必要と支配しています。

(自分が「神の末裔」でなければ) 天皇の代わりになれないわけです
日本において「神の末裔」と「認定」されていたのは、後白河から使命された後鳥羽院の流れだけです。

現代では国民の総意が求められて、皇室会議にかけられて、民が決めています。

閑院宮家の侍医であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。書き残した日記の残片を、見つけ出し、読んでもらったのであるが、孝明帝の条に至って父が顔色を変じ、「これは大変な事だ。誰にもこんな事を話してはいけないよ」
と念を押し、判読を中絶してしまったのである。
幕末擾々たる折である。不安の念にかられながらも自分の職業を考え、何人かが秘密の治療を必要として宮家の名を騙ったのであろうと判断した。
駕籠はやがてどこかの門内に入ると見えて地下に下ろされると、思いの他城代な玄関である。そこに待ち受けていたのが、宮家において数回顔を合わせた事のある公卿の一人であったしかし、その公卿は一言の質問も許さず、手をとる如くにして長い廊下を導いていった。幾度か廊下を曲がるうち、それが明らかに御所である事を知って愕然とした
座敷の中が5寸程高くなっており、そこに寝具が敷かれ、40には未だ若干足りないと思われる総髪の貴人が横臥していた。その周りに5,6人の人が、心も空に立ち騒いでおり、傍らに、熟知の同業者が顔面蒼白となって座している。
医師としての職業本能から物問う間もなく、横臥する人の傍らににじり寄ってみると、白羽二重の寝衣や、敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至るまで、赤黒い血汐にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、もはや手の下し様も無い程、甚だしい出血に衰弱しきって、只最後の呻きを力弱く続けているに過ぎない。
仔細に調べた上、絶望の合図をした。絶対に口外を禁止された上、再び駕籠に厳しく閉じ込められて自宅へ戻された。
手記を認めたのはその直後であるらしい。甚だしく興奮した筆到で、はっきりと上記貴人を「お上」と断定している。
かの傷は恐らく鋭い槍尖で斜下方から突き上げられたものと断定している。
閑院宮家の侍医に、菅修次郎と云う中国人の医者(本名・菅之修)がいる。
計画したのは岩倉具視と閑院宮家そのものである。明治天皇と関係している。

菅が診た時点で、男は「脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早絶望状態」だったと日記に書いている。

NHK連続ドラマ篤姫でも、宮内庁に口止めされた形跡が出た?
桂小五郎が傍で見取ったように、作者が書き直していたのが、許せないと思った。
日本の歴史はこれと同じく書き直されていて、歴史ではないのです。

閑院宮家の侍医土肥一十郎(春耕)と云う、作家・南条範夫氏の母方の祖父
屋敷には、「熟知の同業者が顔面蒼白となって座して」いたというから、或いは先の菅修次郎だったのかもしれない。
横たわっている男ににじりよって見ると、「白羽二重の寝衣や敷布団は勿論の事、半ば跳ね除けられた掛布団に至る迄、赤黒い血潮にべっとり染まっている。横臥している人は脇腹を鋭い刃物で深く刺され、最早手の下しようもない」状態だった。

維新史料編纂委員をしていた植村澄三郎と云う人がいた。その人が私に『それ(孝明暗殺)は本当だよ、岩倉がやったのだ、岩倉は二度試みている』といった事がある。岩倉は自分の妹(義妹の堀河紀子)を宮中に入れ、女官にしておいて、天皇を風呂場で殺したと云う。更にその妹はその直後に薩藩の浪人によって殺されたと云う事である。岩倉は死ぬ時、『俺の家は女で祟るぞ』といったと云う話がある。
植村氏は若い頃、京都のある未亡人の家に行った所、菊の紋章に付いた置物等を持っているので、その理由を問うた所、『自分の亡夫は医者であり、孝明天皇が亡くなられる際、その傷付いた体を診察した為、記念として頂戴したものだ』と語ったと云う

天皇が厠から出て手を洗っておられる時に下から手槍で突き上げた者があり、天皇は急所を刺されて其処に倒れ、其れから縁側を這って居間に帰られた。縁側は血だらけになっていた。自分(山本正文)が呼ばれて駆けつけた時、次の間に二十五、六の女官らしい女が、襖の蔭から天皇の御様子を伺っていたが、自分の方を見てニヤリと笑った
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/koumeitennnouheikaansatu1.html

人物の死因を毒殺に求めるのは、、東洋諸国ではごくありふれた事であり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋(慶喜)によって(他の文献では、「の為に」と書いてある!
サトウは、事柄の性質上、孝明天皇の「毒殺」を教えてくれた「ある日本人」の名前を記録していないし、サトウがそれを聞いたのは、天皇崩御の「当時」ではなく、「数年後」、即ち倒幕勢力が政権を獲得したあとである、明治年間の事である。
アーネス・サトウは、「孝明天皇陛下が刺殺された」事実を隠す為に、毒殺の偽情報を流し、フリーメーソンの本部である英国が、伊藤博文を使っての刺殺の事実を隠す為に行ったでしょう。
 

新年は嘘つき日本人にならない為に

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年12月31日(水)21時23分48秒
  新年参賀は誰におまいりするのか?よく考えてほしい?
日本のまつりごとは、天子がすると、いう。
ここで考えてほしいのは、現皇室の天皇は、天子と?いえるか?
それは違うとインターネットは答えるだろう?
皇居の新年参賀する日本人は、嘘つきが好きなようだ。
もう今年で、解るように、新年で決まる嘘つき日本人の、国が、来たようだ。

今年は正しい人間に、戻る努力が、必要でしょう。
それともこのままで、いると、後では取り返しがつかないでしょう。
それは、今を見ると、すでに答えがでている。
神が日本人を、見放すかどうかは、天子新年参賀次第できまるでしょう。
正しい新年のおまいりが、大切です。それは日本のまつりごとは、天子がすると、いう中国の決まりがあるのです。忠告しても、聞き入れないのが現代人ですから、地獄行きは、近いでしょう。

まつりは、鬼を払うのが、まつりの言われです、児島宮歴研会。
桃太郎のように、頼光のように、まつりごとは、ここにあります。
児島宮だけの秘伝を公開しました。
鬼は嘘をつきます、これは、まつりごとに、無関心な、人間に、とりつきます。
取り付かれたら、もう逃れられません。
それは鬼にされてしまい、一生嘘をつくように、なります。
そしてまわりまで、嘘が取り付き、家中の人に取り付きます。

いままでして来た事が、今の日本になったのです、これは嘘が巻き散らかした、せいなのです。もしかしたら、日本全体が嘘つきになったのかも、解りません?
他国からすでに、日本人は嘘つきと、インターネットで、書きまくられています。
もう国の信用がなくなった、と見てよいでしょう。
直す勇気があるとしたら?
福岡県朝倉郡夜須筑前町篠隈の児島宮天子へ、新年の参賀に行くことでしょう。

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

 

尊瀧院におられた桜井宮覚仁親王と冷泉宮頼仁親王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年12月27日(土)14時37分51秒
  五流尊瀧院宝塔

http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_goryuuhoutou.htm
承久の変で後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王、児島に流される

kankou-kurashiki.jp/kurashiki/nenpyo.htm
父後鳥羽上皇一周忌供養のために仁治元年(1240)に建立したと伝える。高さ3.8m・花崗岩製。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

後鳥羽天皇は後白河法皇の孫で高倉天皇〔1161~81.21歳〕第四皇子。母は七条院殖子(しょくし.贈左大臣坊門信隆の女)〔1157~1228.72歳〕である。
軍実朝〔1192~1219.28歳〕が京都の公卿から夫人を迎えようと申出たとき上皇は卿二位藤原兼子〔1155~1229.75歳〕とはかって坊門前大納言信清〔七条院の弟.1159~1216.58歳〕の女を選定した。その婚儀の調度品は在京の廷臣全部に命じてととのえさせ、「天下の経営ただこの事に在り」(明月記-藤原定家〔1162~1241.80歳〕の日記)と評されるほど熱心であった。これをもって、幕府内部にできるだけ公家勢力浸透の機会たらしめようと考えたからであろう。

実朝の婚姻によって、公家社会の風は鎌倉へ入り、実朝は周知のように武芸よりは、和歌と蹴鞠(けまり)の二つを好んだ。

卿二位藤原兼子〔1155~1229.75歳〕と秘密裡に後継問題について交渉した。このとき兼子は協力的態度を示し、自分の養育している後鳥羽上皇の皇子冷泉宮(れいぜいのみや)〔頼仁親王.1201~64.64歳〕をその候補に擬し、なおすでに出家していた政子に破格をもって従三位(さらに同年中従二位)に叙し、後鳥羽上皇との対面もとりはからったほどであるが、そのことは政子の辞退で実現しなかった。

宿老・御家人連署の奏状を持参せしめ、後鳥羽上皇の皇子六条宮(雅成)〔1200~55.56歳〕と冷泉宮(頼仁)〔1201~64.64歳〕の内一人を鎌倉の将軍として迎えたき旨を申入れたのである。これに対し上皇は、表向きこれを許しながら、その実行をしばらく控えるという態度をとり、かえって三月八日、内蔵頭(くらのかみ)藤原忠綱を鎌倉に派遣して実朝の死去をとむらうとともに、別に摂津の長江・倉橋両庄地頭職改補等の事を要求したのである。二つの庄は上皇の寵妃亀菊(かめぎく)の所領であり、地頭(姓名不明)が年貢抑留など不法行為をしたので、亀菊から上皇に訴え、ここに改補の要求となったのである。
上皇は武力による幕府の討伐を実行することになった。上皇の意に賛成したのは、順徳天皇〔1197~1242.46歳〕、六条宮、冷泉宮と藤原忠信・信成・光親〔1176~1221.46歳〕・宗行・範茂・信能・源有雅〔1176~1221.46歳〕らの朝臣、僧正長厳・法印尊長・賀茂神社の祐綱・能久・法琳寺別当蔵有・醍醐寺の光宝・熊野の快実・堪全らの僧侶・神主、藤原秀康・秀澄ら北面武士であった。九条道家(みちいえ)〔1193~1252.60歳〕・西園寺公経(きんつね)〔1171~1244.74歳〕ら幕府の縁故者と土御門上皇〔1195~1231.37歳〕は全く局外者であった。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mitobe-masao-gotoba.htm

)(上皇の御所)において、如法愛染王法を修せしめ、また最勝寺においては鎮護国家の灌頂を修せしめられた。もちろん幕府調伏の祈祷であった。その他延暦寺、東寺、仁和寺にも上皇は祈祷を行なわしめた。

 後鳥羽上皇の計画は、義時追討の宣旨を諸国に下して、幕府の御家人らのカで義時をたおすことにあった。五月十四日、後鳥羽上皇〔1180~1239.60歳〕は城南寺の流鏑馬と称して近畿の兵と諸寺の僧兵を徴集し、翌十五日、仲恭天皇と土御門、順徳の両上皇は高陽院に幸し、京都守護伊賀光季を誅した。
法皇は鳥羽殿を出発、西御方(にしのおんかた)、伊賀局(いがのつぼね)、内蔵頭藤原清範らが供奉(ぐぶ)して隠岐に向かった。到着の日時不明であるが、海部(あま)郡苅田郷の行宮(あんぐう)といわれる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm

 

母防門局 児島宮頼任親王

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年12月27日(土)11時59分14秒
  防門家との拘わり
それが宮家(平山)の血である。 血縁がないのに、使うのはすべてが、偽物となる。 宮家
(平山)との関係血縁氏防門家南北朝石清水八幡家東郷 ..... この宇都宮氏は紀氏となっ
ていて、河野通清は石清水八幡宮の神官となっていて、宇佐との拘わりが見える。

「母防門局 子息児島宮頼任親王」
http://www2.ezbbs.net/cgi/bbs?id=kojima&dd=22&p=1
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
正室:石束毎公の娘・りく
佐々清蔵の子信濃守休西(奈良興福寺僧)ー娘快楽院ー大石理玖


【児島】高徳─【三宅】高光─正綱─正光─ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴(盛光改め)ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成 へと続く。

佐久間九郎左衛門「全孝」は近衛中将助安の嫡男であり、この先祖は、皇孫後鳥羽院にあたる。

南北朝期から、戦国時代には前近衛中将助安と言う公家出身の人の位牌が鹿島山法寿院にある。

宮家正成という人が、創建されたもので、この地は以前は、松峡宮とか、筑紫宮とか、呼ばれていました、前田の地名は菅原道真公のご先祖前田臣市成、という人が、この地を治められていたそうです。
http://search-web.yoka-yoka.jp/cgi-bin/search?query=%E5%89%8D%E7%94%B0&sort=d&site=yoka-yoka.jp
宮家正成父佐久間不干斎信栄の父佐久間信盛の女は姉が狩野孝信の室になり、もう一人は佐々重蔵の室になり、その間の女は佐々清蔵弟成政に預けられ、近衛家の鷹司家にとついでいる。
その女は孝子といい、徳川家光室になている。

天文五年(1536)、佐々成政は佐々成宗の第五子として尾張(愛知県名古屋市)の比良城に生まれました。成政には兄が二人いました、そのうちの一人が、佐々清蔵で、佐久間信盛の女が佐々清蔵室に嫁いで、
岳星院(佐々清蔵室→鷹司信房室)
佐々木改め佐々、成宗子息佐々成政兄佐々清蔵の子信濃守休西ー娘快楽院ー大石理玖 へと結ばれている。

大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石内蔵助良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男浅野長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%86%85%E8%94%B5%E5%8A%A9
石束 毎公(いしづか つねよし、寛永18年(1641年) - 正徳3年7月25日(1713年9月14日))は、江戸時代前期の武士。豊岡藩京極家の筆頭家老。忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻りく(香林院)の父親として知られる。通称は宇右衛門(うえもん)・源五兵衛(げんごべえ)。

「石束毎公」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寛永18年(1641年)、但馬国豊岡藩筆頭家老の石束源五兵衛毎術(知行1200石)の長男として誕生。名は「毎公」と書いていたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使った。「公」などとは偉そうで不敬だからであろうか。佐々信濃守休西(佐々成政の曾孫)の娘と結婚し、その間に石束宇右衛門毎明・石束主殿毎済・りくなどの子を儲けた。延宝2年(1675年)、34歳のときに父の隠居により家督相続。このとき父と同じ源五兵衛に改称し、京極家筆頭家老職を継いだ。貞享4年(1687年)にりくを赤穂藩筆頭家老大石内蔵助(知行1500石)の正室となした。

元禄赤穂事件(忠臣蔵事件)の際には61歳であった。赤穂藩改易後の元禄14年(1701年)5月には大石内蔵助が遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子大石松之丞(主税良金)らを石束家に受け入れた。この際に主税に自らの脇差を与えている。7月に大石内蔵助が山科に住居を落ち着けると、りくや主税たちも山科へ移ったが、次男の大石吉之進は石束家に残っている。

松花堂昭乗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。俗名は中沼式部。堺の出身。豊臣秀次の子息との俗説もある。摂津堺に生まれた昭乗は、奈良・興福寺で出家、のち石清水八幡の社僧(滝本坊住職)となっている。隠居して松花堂を名乗った

「石清水八幡宮」
木津川の近く男山にあり神仏習合時代は多数の僧坊があった。
西暦860年に宇佐神宮より八幡神を勧請して創建された。祭神は八幡大神(誉田別尊、応神天皇)、比大神(宗像三女神)、神功皇后(息長帯比賣命)。

石清水八幡と熊野路. 京都府八幡市。大阪府との府境近く、こんもりした男山の山頂にその神社があります。

石清水八幡宮は、貞観2年(860年)、奈良大安寺の僧行教(俗称紀氏)が、九州宇佐八幡の神託を受けた。

貞観元年(859年)、現在の大分県の宇佐八幡宮に籠もり修行をしていた大和大安寺の僧行
教は八幡大神から『吾、都の近くにある石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との
御託宣を受け、このことを朝廷に奏上したという。これが「石清水八幡宮」の起源
貞観元年(859年)清和天皇の時、奈良の大安寺の僧の行教律師が豊前国宇佐八幡宮から3神を分霊して、男山に建立した神社とも。

今昔物語に出てくる八幡神
 「はじめ、大隅の国に八幡大菩薩あらはれおわしまして、次には宇佐の宮に遷らせたまひ、遂に、この石清水に跡を垂れおはしまして・・・・昔、八幡大菩薩宇佐におわしましける時、大安寺の僧、行経という人、かの宮にまいり候ひけるに、大菩薩示したまわく.
 『われ王城を護らむがため、親しく遷らむと思う.然るに汝に具して
行かむと思う』
 行経これを聞きて、謹しむて、礼拝したてまつるに、忽ち行経の衣に、金色の三尊の御姿にて遷りつかはせおはしなしてなむ、おはしける.」

「石清水八幡神社」は、京都府八幡市にある山上の神社。 木津川・宇治川・桂川の合流点、淀川の始点付近、天王山の反対側の山上にある。
行教(ぎょうきょう)
大安寺僧。仁和寺益信の族兄。貞観元年(859年)、豊前国宇佐八幡宮から3神を分霊して、山城の国石清水に八幡神を勧請する。石清水八幡の開祖。
桓武からの拘わり熊野。
空海(くうかい)
弘法大師。宝亀五年(774年)讃岐国で生まれる。18歳で大学に入るが、仏門に入ることを決心。19歳の時、大安寺の勤操大徳により得度を受け虚空蔵求聞持法を授かり大竜ケ嶽や室戸岬で修した。延暦二十三年(804年)入唐し、密教を学ぶ。弘仁七年(816年)には高野山に金剛峰寺を開き、弘仁十四年(823年)には嵯峨天皇より東寺を与えられ、この両寺を中心に真言宗を広めた。天長6年(829年)大安寺別当に補せられる。

最澄(さいちょう)
伝教大師。神護景雲元年(767年)近江国で生まれる。12歳の時、大安寺の行表の室に入り近江国分寺で得度する。その後東大寺で受戒。比叡山に草堂を建て天台の著書を学ぶ。延暦二十三年(804年)空海らとともに還学生として入唐、翌年帰国して天台宗を開く。
石清水八幡を草創した、名門「紀氏」をも排除し、石清水八幡の別当になり実権を握ります.これらの背景には、中央の大貴族、藤原氏(道長)がいたのです.後に紀氏の勢力復興で滅びます。

少々わき道にそれたので、石清水八幡神社僧について、防門家を上げる。

紀の国の大氏族 紀氏
紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族日前国縣神宮を祭祀している。

紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。

「福岡県久留米高良玉垂神社と紀氏」
母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。これは武内宿禰は九州で生まれている事を思わせる。 基山付近を根城にしていた筑紫紀氏の出身であろう。
父親とされる比古布都押信命(比古太忍信命)
母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。

孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男命ー武雄心命
                    ∥
                    ∥──武内宿禰(神功皇后の側近として有名)
                    ∥
        紀国造の祖(紀直)菟道彦の娘 影媛(山下影日売)

山下は福岡県朝倉郡夜須が発生地。
541-7 紀臣弥麻沙 日系韓人 父:紀臣 母:韓婦 百済に留まり、百済の官位16品の第6位に。百済は弥麻沙を安羅に遣わし任那の執事を召して任那を建てることを謀らしめた。
施基皇子(天智天皇の皇子)     ∥
     ∥             ┌ 白壁王(光仁天皇)→桓武天皇
     ∥─────────────│
     ∥             └ 難波内親王 2品 774歿
    紀朝臣橡姫(紀朝臣諸人の娘)

711-9-4 紀朝臣諸人 平城宮の造営の将軍
刈田郡紀伊郷  紀氏
讃岐 大内郡と刈田郡の紀氏
後鳥羽上皇の流された隠岐に苅田郷あり。
1221
承久3年
後鳥羽法王、隠岐に配流され、海士郡苅田郷源福寺に入らる(吾妻鏡)
1239 延応元年後鳥羽法王、隠岐苅田郷の行在所にて崩御(百錬抄)

讃岐の刈田大明神:粟井神社社伝より
上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、一致団結をはかりました。この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれ。社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません
『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭式』の名神祭二百八十五座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。『三代実録』に「貞観六年冬十月十五日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれています。
神田=苅田 か
九州に京都郡苅田町がある ここは佐々木岩流の城もある。岩石城
http://pinebooks.cool.ne.jp/kanda/walkmap/map.html

石清水八幡宮に清和源氏が陽成源氏であるとする「頼信の告文」が伝わっていることを知ることにとどめたい。
 ところで、「清和源氏」が、八幡信仰をもっていたことはよく知られている。頼信は石清水八幡宮にさきの告文を捧げた。おの子頼義は、相模鎌倉に元八幡を創建し、これを起点として陸奥に向かって五里ごとに、いわゆる五里八幡を創建した。荒川八幡、植田八幡、飯野八幡などが、それである。そして、その子義家は石清水八幡で元服したことから、八幡太郎と名乗った。さらに頼朝は元八幡を移建して、鶴岡八幡宮としたのである。 【三つ巴紋】
 

児島高徳祖越王勾践

 投稿者:児島宮歴研会  投稿日:2008年12月27日(土)09時44分3秒
  児島高徳が記した、越王勾践は、醐醍醐天皇に充てた、天は王となる人物に対して、国家を治めよという「天命」を与える。すなわち「天命」とは国家と王自身の生命の存続を保証するものであり、国家を治める権利であるとも言える。そして、彼が天に従ってよい政治を行えば、天は彼から「天命」を奪うことはなく国家は安定する。
天が醐醍醐天皇の行為の善悪を判断し、王と国家の存続を決定すると諭したのである。
これにより、世相は一変した。
南朝の壊滅は、その通りになっていたのである。

ここに足利尊氏に、力を貸したのは児島高徳の父、備後の頼宴僧正は、追い詰められた、足利尊氏を、逃がした手助けをしている。
それが九州豊後の大友家に、縁族防門家として、頼泰が動いた。
ここから攻め込んだ、のは承知のことであった。
次に、防門家との拘わりにちゃくし、石清水と手を結んだのが、記録されている。
背景に、頼宴僧正の力があっての、足利尊氏であった。
 

佐久間甚九郎正勝と天海の関係

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年11月13日(木)20時44分17秒
  『正勝と天海の関係』
こちらは、どちらも、縁戚の間柄に、あたる。
児島本草甚九郎正勝の祖は児島高徳である。
天海の祖は、やはり、児島高徳胤、三宅遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。

児島】高徳ー三宅】高光─正綱
三宅 高貞 みやけたかさだ. 三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻め
られ討たれた。

秀満の父は遠山景行(明智光安)で、母は三宅広瀬城主の三宅高貞の娘といわれているが、秀満は母方の姓である三宅氏を名乗り、同じ頃三宅清貞が松平清康に居城伊保城を攻略され、三宅高貞が清康に攻められたという記録もある。

【三宅】高光─正綱─正光─


遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。
秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景
玄を称しています。

三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。
「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_miyake.html

高秀─高家─女子(藤原氏公季流)【三条】より出つ【宇喜多】宗家妻─久家─能家─興家─直家──秀家──秀規【宇喜多氏】流れ。

佐久間信栄の正室は縁戚佐々木流れ、の佐久間勝政女。

柴田勝政(しばた かつまさ) 1557~1583. 佐久間盛次の三男で柴田勝家の養子。 佐久間盛政の弟。 ... と呼ばれ、永禄十年制定の『六角氏式目』にも連署した実力者だったが、観音寺騒動後に織田信長に臣従し佐久間信盛の与力となる。

1583佐久間勝政を討たれる。(30才)脇坂安治

佐久間勝政も、飯之浦で福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士
が槍先を並べてかかるのを、兵四人までを切落して戦ったが、遂に斬死した。
佐久間 正勝 (さくま まさかつ) 1556~1631 甚九郎・駿河守。 娘婿甚九郎

「宮城系図」という)には、明智光秀の従兄弟、三宅弥平次光俊の妹に柴田源左衛門尉源勝定室をあげており、勝定は柴田修理亮勝家の従弟で、丹波柏原城主であったが、天正十年(1582)六月十六日(小栗栖で光秀死去の三日後)に柏原で生害し時に四四歳と記される。三宅弥平次光俊とは、名前は秀満といい、明智左馬助の名で著名であり、通用する俗名は「光春」とされている。
『明智軍記』にも柴田勝定が見えており、それによれば、妻は明智秀満の妹とある。

佐々木佐久間信直(全孝)九郎左衛門
嫡男佐久間信晴始め左衛門尉盛光その子佐久間右衛門尉信盛
「高野春秋編年輯録」(1719)によれば、天正9年7月24日に当地にて卒とあります。十津川村武蔵湯泉地温泉にて湯治中に没した。

二男佐久間信直広瀬城主佐久間九郎左衛門(全孝)

高徳ー甚九郎高光ー甚九郎正綱ー甚九郎正光ー甚九郎弥平次(近衛中将助安)ー甚九郎朝次ー甚九郎信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間信盛ー信栄と続く児島宮流れ。
http://www.rak2.jp/hp/user/yasukuhu/dialy1.html

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。秀満は、
秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景玄を称しています。
秀満と三宅氏の関係は母方との関連のほか、姉妹が三宅氏に嫁いでいます。現在の明智町の三宅氏はこの系 統です。
三宅出雲(長閑斎)は、秀満の実父ではなく、叔父(父の末弟明智光廉)で岳父です。光秀の長女、次女は、
実際には三宅長閑斎の娘です。このことは、喜多村家に伝わった「明智系図」と『美濃国諸旧記』を見比 べればすぐにわかります。
三宅氏関係でいえば、
明智滅亡後ガラシアに従って細川氏に仕官した秀満の子・三宅藤兵衛重利(のち、寺沢氏に仕え富岡 城主)と、三宅一族(式部大輔綱朝・藤兵衛秀朝・周防守業朝・孫十郎光景・出雲守某)の関係が見える。

妻は、三宅高貞(三河広瀬城主)の娘。子に明智秀満、遠山利景、ほか小里光次の妻と
なる女子。 景行は、美濃遠山氏の一派である明知遠山氏の明知城の当主である。
旗本遠山氏(明知遠山氏)の初代。父は第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行
、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。 天文9年(1540年)、明智に生まれる。兄に遠山景玄
、姉妹に小里光次室など。正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘。

『三宅高貞児島高徳子三郎河内』

元貞高貞子三郎兵衛元興ー

貞吉元貞子六郎貞次信濃ー

国貞貞吉子小四郎加賀ー

貞信国貞子小四郎貞宣貞清ー

清信貞信子清宣加賀ー

貞次貞信子貞胤筑前ー

貞安貞次子貞保右衛門ー

高明貞安子右衛門ー

高信高明子右衛門ー

高貞高信子右衛門ー

佐々木和田範長子高秀(弟三宅高光、弟三宅高貞)─高家─信徳─宇喜田久家(母児島高家女と、つづく。

三河三宅系図(田中徳五郎著・児島高徳)
西広瀬城 【歴史】築城年は定かではない。城主に三宅主膳、三宅三太夫正光の名がある。
三河 広瀬古城【愛知県豊田市西広瀬町大久保・登り】http://www.geocities.jp/shiro20051212/Hiroseko-jo.html
三宅氏は、三河 ... 興国五年(1344)三宅氏の祖児島高徳が築城したと伝わる。


【児島三宅系図】備前児島の三宅氏の一族の系図 【北畠系図】村上源氏久我家流北畠氏

肥後細川藩侍帳児島三宅系図備前 「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った。

三宅系図を母は三河広瀬城主三宅高貞の娘であり、児島高徳の後胤とされる一族で
ある。 三宅新十郎出雲弥平次(明智左馬之助)藤兵衛 三宅藤兵衛重利(のちに寺沢家に
移籍して天草富岡城代。天草・島原の乱で討死。) 肥後細川藩侍帳より

織田信長軍団所属三河広瀬城主・佐久間全孝の刺客・岩松八弥に殺害される。24歳。 松平信孝

遠山 利景(とおやま としかげ、天文9年(1540年) - 慶長17年(1612年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。旗本遠山氏(明知遠山氏)の初代。父は第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

天文9年(1540年)、明智に生まれる。兄に遠山景玄、姉妹に小里光次室など。正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘で、その母は松平清康の妹で家康の育ての母松平久子。子に遠山方景、阿茶局(須和)に使えた龍光院など。
三河広瀬城主三宅高貞の娘であり、児島高徳の後胤とされる一族である。

十一代目城主の三宅高清が織田方に付いた為、永禄三年(1560)松平元康に攻められ落城した。http://sukune.web.fc2.com/hirosejyou.htm

西広瀬城。天文(1531)の頃、佐久間氏が居城し、織田氏の東境を守り広瀬城の三宅氏に対抗して矢作川を挟んで対岸に築かれた。

三河武士団はご先祖の児島高徳公以降、この地にしっかり根をはってきた。尾張の織田、三河の松平いずれにも組せず、その勇猛ぶりは天下にとどろいておる。
西広瀬には織田の重臣、佐久間信盛殿の城がある。
佐久間信盛 その下に三宅の殿様と家来佐久間 三宅殿、遠路はるばる清州の城までよくお越しくださった。三宅  三宅高清にございます。
三宅高清すべて佐久間殿の申された通りでございます。
三宅高貞様、山本様(家来1)討ち死にされました。
高貞が?おのれ、元康め。
三宅高清公の息子高貞様は自害なされ、妻、娘も捕らえられました。

三宅氏は、室町幕府評定衆中条氏の被官。 南朝忠臣児島高徳の後裔と称す。   明応年間(1492~1501)には、西三河においてかなりの勢力を有した。
三宅康貞の代(天正十八年)に武蔵貝賀尻五千石に移封、のち三宅氏は、三河田原一万二千石の藩主として明治まで続く。

1460年頃、城主に佐久間信盛西広瀬町城。
東照宮本殿の花菱紋は武田家の家紋で、武田家の者が家康にすり替わったと言う天海の暗号である。
三宅光廉(三宅) 娘(斎藤利賢室)斎藤利三 利宗三存 福(春日局) 稲葉一鉄娘
 

佐久間信晴事甚九郎九郎左衛門朝信全孝?

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月27日(土)12時27分12秒
  「織田家系図」
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/oda.html
朝明宗朝子甚九郎盛保?総五郎?
朝次朝明子弥平次満盛
安盛朝次子安通 盛通安盛子与六郎御器所城主とある


甚九郎九郎左衛門朝信全孝とは朝次子?甚九郎九郎左衛門朝信全孝となる。
同じく朝次子佐久間信晴であり、甚九郎九郎左衛門朝信全孝に重複している。
佐久間盛通子朝次であり、朝次子佐久間信晴となる。

佐久間信晴====1542盛通子朝次子?甚九郎九郎左衛門朝信全孝?山崎城主討松平広忠?
信盛15271581信晴子半羽介?出羽右衛門夢斎定盛宗祐山崎永原刈谷城主天王寺城番
信栄15561632信盛子甚九郎駿河信勝基栄定栄正勝不干斎

佐久間家盛朝盛子?家村孫多々良義春曾孫三浦義明玄孫与六郎正平頃

為盛家盛子

朝盛為盛子家勝?正勝?

   為明朝盛子

宗朝為明子甚九郎満盛

朝明宗朝子甚九郎盛保?総五郎?

   朝次朝明子弥平次満盛?

   安盛朝次子安通

   盛通安盛子与六郎御器所城主

   盛明盛通子与六郎家勝美作御器所城主安土城番
 

宮家縁流、佐久間氏 朝明宗朝子甚九郎盛保

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月27日(土)12時02分41秒
  「不孝之君」即ち後宇多院
後宇多院の子は一休上人でしられる。大徳寺に奉仕した一休上人との関係が深い佐久間氏
後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子。生母は内大臣花山院師継の養女、談天
門院・藤原忠子(実父は参議五辻忠継)。

「大覚大僧正」と尊称されています、妙実聖人(1297~1364)について
この紋章で判る。十六葉菊紋と恒性皇子=児島高徳にしか該当しない。
現在では、「近衛家縁故のご出身である」とする説が通説となっています。
http://www.geocities.jp/myoukou_ji/enkaku/enkaku_kaiki.htm
嵯峨の大覚寺(真言宗大覚寺派の大本山)に入られ、准三后昭慶門院憙志(じゅんさんこうしょうけいもんいんきし)の方を母代わりとして、この寺奥深くに育てられたと伝えられます。
ここにも表わされていた准三后昭慶門院との、関係と云えば、亀山天皇の御威訓にも記されており、高丸の養育はこの亀山天皇によったとされている。

大覚大僧正が高徳で有ると知れるのは、
寺の瓦に見られる十六葉菊紋で、これは高徳の紋であると同時に、天孫を意味する、十六葉菊紋はメソポタミアより始まっている。
意味もなくこの十六葉菊紋を使用するのは例え天皇家であっても許されないのである。
これは後鳥羽院ゆかりの、十六葉菊紋であり他家では、取り扱えない紋章となっている。

この恒性皇子の足跡は?
それは「太平記」の作者と読取れよう。
「児島法師」「太平記」の作者
新田義貞が恒良親王を奉じて北陸へ退くようになると、高徳は義貞に従って北陸へ赴く。

この時、高徳が起草した比叡山への諜状を太平記は書き留めている。が足取りと酷似しているのは、後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王の血を承け、熊野修験の太い分流である児島修験の中で育った。

頼仁親王は備前国守護佐々木信実の娘を入れて道乗を生み、これに尊滝院を継承させる。そして、「五流尊滝院世系譜」によると、この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。
別姓「三宅」は「宮家」に他ならないことが知られる。

太平記より 「交野の春の桜狩り」. 太平記第
二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」の段。 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、
紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂き恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。」

北河内地域文化誌「まんだ」79号 宇佐八幡宮を崇敬した備後三郎三宅高徳
が、京都の岩倉のこの土地で、宇佐八幡宮の大神を信仰していたことから、いつしか三宅
八幡宮と呼ばれるようになったそうです。京都三宅八幡宮。

恒性(つねさが)皇子事児島高徳である。
そして、「不孝之君」即ち後宇多院の政務を止めて、嫡庶の差別を立てて兩統迭立をすみやかにすることが天意にかなう、と結んでいる。しかし、富仁親王の皇太子には、尊治親王が立てられた。

「平山明神と三宅」
三宅祖は児島高徳である。
平山明神山(愛知県設楽町)名前の由来は,夜暗いところでぼうっーと光るところからとのこと。

これで平山明神がわかりました。 天皇が何故ひらやま、とされていたのか。 天空とは
北斗七星や七夕も連結しますね。 ...... 夜須篠隈<太>天涯(てんがい)平山陵</太>由来。
また〈神の座〉としての〈天空〉とは、〈摂理〉がそこから由来する場. ... これで平山明神がわかりました。


(『近衛家文書』。村田正志『風塵録』五九頁)
天皇家の僧には条件が整っていなければならない、それは皇統の親王である事が課せられている。
この諸条件は、近衛家との縁戚が、求められていた?
児島高徳後胤である助安が、天皇の側近に入るには、この諸条件が満たされていなければ、ならない。
故に、
藤原北家に改めたのである。そして藤原助安をなのった。
近衛経忠の子として認知されていたのであろう。

朝明宗朝子甚九郎盛保とあるが、宗朝とは?藤原宗朝?
藤原為明(甲斐守) 中原宗家(大蔵大輔) とみえる
藤原為明は新拾遺和歌集(二十一代集第二一冊)を残している藤原為明編


系図によれば総五郎? 朝次朝明子弥平次満盛? 安盛朝次子安通. 盛通安盛
子与六郎御器所城主. 盛明盛通子与六郎家勝美作御器所城主安土城番.となっている。

藤原宗朝からの寄進により元亨三年(一三二三)六月に完成
http://www.db.fks.ed.jp/txt/10090.002/html/00126.html
鎌倉時代元亨三年(一三二三)

古代中国、インの湯(とう)王が夏台(かだい)に幽閉された時とか、越(えつ)王がカイケイで敵の軍門に下った時と類似。
六波羅庁の囚われの身となった人々は以下の通りである。

尊良親王(たかよししんのう)、宗良親王(むねよししんのう)、峰僧正春雅(みねのそうじょうしゅんが)、東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:藤房の父)、藤原師賢(ふじわらのもろかた)、藤原公敏(ふじわらにきんとし)、源具行(みなもとのともゆき)、藤原公明(ふじわらのきんあきら)、藤原実世(ふじわらのさねよ)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)、平成輔(たいらのなりすけ)、藤原為明(ふじわらのためあきら)、藤原行房(ふじわらのゆきふさ)、千種忠顕(ちぐさただあき)、源能定(みなもとのよしさだ)、藤原隆兼(ふじわらのたかかね)、妙法院執事・澄俊法印(みょうほういんのしつじ・ちょうしゅんほういん)。

為明朝盛子ー宗朝為明子甚九郎満盛ー朝明宗朝子甚九郎盛保?とあるが比べて見よう。
為明とは藤原為明(ふじわらのためあきら)鎌倉時代元亨三年(一三二三)を注している。
すると、宗朝は母方為明子となる。
こうなると、宗朝為明子甚九郎満盛とあるのは?甚九郎満盛事であろう。
甚九郎満盛の子は甚九郎盛保?となっている。

宮家系図では、つづく
甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成
 

宮家縁流、佐久間氏

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月27日(土)09時09分30秒
  縁流とは、縁戚の流れという意味。
宮家縁流、佐久間氏の関係をあらえば、宮家では児島高徳が祖に対し、
母方の佐々木一族流児島範長の女、に育てられるのは、皇族の習わしである。

母方に育成されて、姓を児島と名乗った。

児島高徳本流は父方であって、後鳥羽上皇後胤にあたる、児島宮家頼宴僧正であった。
ゆえに、本来ならば宮家高徳で、あるが、佐々木児島高徳を名乗って、いたのは、
後胤で見れば、佐久間氏とある?
この不思議な関係は?
母方に育成されて、の日本の風習にありました。

甚九郎満盛の時すでに、姓は佐久間氏とある?のは、この背景には皇族の習わしによるもの。
それでは、次の左近衛中将藤原助安は、天皇の縁戚であるところから、宮廷の左近衛中将
に、任じられていた。
左近衛中将藤原助安父は、佐久間満盛であるのに?何故藤原を名乗ったか?
それは先の皇族の習わしによるものが、ある。
という事は?藤原助安の母方は藤原氏と、いう事である。
佐久間満盛の室とは?藤原宗朝の女という事になる。
これで皇族の習わしによると、母方に養育されると言う習慣によるもので、あった。
藤原朝明助安の祖父は、朝明宗朝子?とある。


児島高徳は幼少の時は、宮家のしきたりを、植え付けられて、亀山上皇女、昭慶門院に育てられている。これは次の天皇となる為であった。この時の名は高丸という。
高丸親王を亀山天皇の皇女・昭慶門院喜子の猶子としたとある。

昭慶門院一期の後は、その所領は昭訓門院所生の恒性親王(1303~1351.49歳)に譲与するように明確に指示していた。のところ、
昭慶門院は、新たに後宇多の家系の皇子の養母となることにより、今後は恒性との関係を絶ち後宇多の所領保障の下に生活していくことを、暗に表明したといえる。正中元年(1324)に昭慶門院が没すると、河端殿の御所や、京中の土御門室町にあった昭慶門院の御所(土御門殿)も北畠親房により、世良親王に伝領したのである。

幼少は皇孫は母方で、育てるのが習いであったが、高丸(高徳 幼名)は、准三后昭慶門院憙志(じゅんさんこうしょうけいもんいんきし)の方を母代わりとして、この寺奥深くに育てられたと伝えられます。
これは亀山天皇の御威訓にも記されており、高丸の養育はこの亀山天皇によったとされている。
龜山院が崩御直前に昭慶門院(憙子内親王)に讓與した
親王でなければ、昭慶門院に父龜山院が、託した高丸の養育は、後醍醐天皇の養子とし、親王に迎え、後醍醐天皇の後、天皇となすと、この事を崩御直前に昭慶門院(憙子内親王)に伝言されていた。
高丸とは幼名で後の児島氏となる、(児島高徳)のこと。

龜山院が崩御直前に昭慶門院(憙子内親王)に讓與した所領は、昭慶門院の死後、恒明親王が相續するものとされた。しかし、龜山院の崩御後、昭慶門院は後醍醐院の男子、世良親王を養子として、所領を世良親王に讓與した。
◎ 『公衡公記』「龜山院御凶事記」嘉元三年【一三〇五】九月廿三日丁卯(『皇室制度史料 皇族四』、二五~三一頁

龜山院には、恒明親王を立太子させようとの意思があり、それを後宇多院に諮った。後宇多院は、嘉元三年(一三〇五)七月二十八日、恒明親王の立太子を應諾し、父龜山院に對し「心安らかに思しめされるの條、年來孝行の所存、此の時に顯れるべく候か」と述べている。
しかし後宇多院は、龜山院の遺詔を無視して、恒明親王ではなく、自身の子息、邦治親王(のちの後二條院)を後伏見院の東宮に立てた。

嘉元三年(一三〇五)七月二十八日、恒明親王の立太子を應諾し、父龜山院に對し「心安らかに思しめされるの條、年來孝行の所存、此の時に顯れるべく候か」と述べている。

15歳または17歳のときに元服し、児島三郎高徳 、「太平記」の中では、児島備後三郎高徳、小島備後三郎、児島三郎高徳、児島備後守高徳、三宅三郎高徳、今木三郎高徳など、さまざまに記され、最後は出家したのか、児島三郎入道志純と名乗って終わる。
大徳位を求め、大僧正、権大僧正、僧正、権僧正、大僧都、権大僧都、律師といった位階のこと。
法師位
高徳の場合大覚大僧正となのる。
僧正には
大僧正、権大僧正、僧正、権僧正の四つがあり、大僧正が僧官制の頂点に位置づけられる。
「大覚大僧正」と尊称されています
1)近衛家に縁故のある出自とする説。
(2)近衛経忠(このえつねただ)の子とする説。
(3)後醍醐天皇の第三王子である恒性親王とする説。
立坊【恒明親王の立坊】之間事、院【後宇多院】并持明院殿【伏見院】御返事如此。不絶夜鶴之思奔波、以至孝之志可被謝者也。且以此旨必可被仰關東者也。毎事前右府【西園寺公衡】候へは可被仰合也。雖不及成人、如此書置、可被達遠方也。
  嘉元三年八月五日

後宇多院は、龜山院の遺詔を無視して、恒明親王ではなく、自身の子息、邦治親王(のちの後二條院)を後伏見院の東宮に立てた。
伏見院・後伏見院は、後宇多院・後二條院と對抗するため、恒明親王を「龜山院御流」の正嫡として、東宮富仁親王即位後の皇太子に恒明親王を推した。即ち、徳治二年、伏見院は、「恒明親王立坊事書案」(筆者は藤原朝臣爲兼[京極]か藤原朝臣公衡[西園寺]と推定される)を鎌倉に送付した。
龜山院は恒明親王を正嫡として東宮に立てるようにと後宇多院に申し置いたが、後宇多院は龜山院の素意を無視したので、恒明親王が正嫡とならなければ「龜山院御流」はここに斷絶することとなる、と論じている。そして、「不孝之君」即ち後宇多院の政務を止めて、嫡庶の差別を立てて兩統迭立をすみやかにすることが天意にかなう、と結んでいる。しかし、富仁親王の皇太子には、尊治親王が立てられた。

明王以孝治天下、古典之所載也。而御不孝之至。

且親王【恒明】立坊事、[※龜山院は]被申置萬里小路殿【後宇多院】并此御方【伏見院】、被整置兩方御承諾之御返事。以之可被仰關東之由被推置慇懃之御書於親王【恒明】云々。凡御所并御文書以下始終可爲親王【恒明】御管領之由被仰置歟。然者以親王【恒明】可爲御正嫡之條御素意之趣旁以分明歟。

於親王【恒明】御事者、法皇【龜山】御存日偏可被扶持申之由、慇懃被申置之間、當時即不被奉見放者也。就之彼御生涯之安否、自昭訓門院重々有被歎申之旨、且直雖被仰遣關東、于今無被計申旨之間、已被失御安堵之謀云々。凡不依尊卑、皆以父母之攘爲規模之處、今被破分明之御素意者、向後傍例可爲何樣哉。所詮如先々沙汰、兩御流共不可有斷絶之儀者、一方可在彼親王【恒明】歟。但雖爲法皇【龜山院】之【風:之ナシ】御素意、親王【恒明】若難被備御正嫡者、龜山院御流爰可斷絶歟。

守龜山院之御遺勅者、親王【恒明】可爲繼嗣之正嫡。云彼云是當時之儀不叶其理乎。抑勘兩方御治天之年紀、龜山院御流前後廿三年(自文永九年至弘安十年、自正安三年至當時)。於後深草院御流者纔十四年(自弘安十年至正安三年)。兩御流雖相竝、尤可有嫡庶之差別、况於爲玄隔之年紀哉。就中正安卒【風:率(マゝ)】爾之推讓、于今未被慰御愁吟【風:〓【口令】】。此上任道理、早速被計申者、且【風:早】叶天意、且可爲攘災之最哉。

(『近衛家文書』。村田正志『風塵録』五九頁)
天皇家の僧には条件が整っていなければならない、それは皇統の親王である事が課せられている。

恒性法親王
<大覚寺宮北国配流名越氏為害見 母昭慶門院亀山院皇女>
恒性法親王とは頼宴子の高丸のこと也。
三河の廣澤庵(豊田市猿投町広沢)は西加茂郡高橋荘にあり昭慶門院領として伝領された。
 

近衛中将助安後胤

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)21時44分33秒
  藤原助安が姓名ですね。
近衛中将とは、律令官制における職の名前です。いわゆる通名ですね。
従四位下相当の官職ですね。で、前とつくと「さきの~」と呼んで、もじどおり前の近衛中将、ということになります。
前右大臣とか使いますね。藤原助安は左近衛中将ですね。

中将
左右に各1~4名。四等官の次官(スケ)に相当する。少将も「スケ」であるので「おお(大)いスケ」と呼ばれた。天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに、従四位下の官位相当。以後、定着する。当初は1名だったが後に増員され、権官もあり、後には正員は置かれず、権官のみとなる。三位の位階の人がこの職に就くと「三位中将」と呼ばれ、参議の官職の人が兼任すると「宰相中将」、蔵人頭がこの職を兼任すると「頭中将」と呼ばれる。親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍といった唐名のほか、次の少将とあわせて「三笠山」「次将」という別名がある。

児島高徳孫正光の男甚九郎満盛から見えていて、その子甚九郎朝明助安
は備後に城を構えていて、・大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安居る 大城なりしや 六
町程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記されている。


この佐久間は古来児島宮家の本性で、頼仁親王(冷泉宮・児島宮)代々児島で、高徳(
祖父範長名跡)ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安近衛「左近衛中将藤原助安」より、満盛朝
明子朝次弥平次になり、甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴ー佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成に至り、ここに相伝の隈笹が篠隈(しのくま)になったもの。

南北朝期から、戦国時代には前近衛中将助安と言う公家出身の人の位牌が鹿島山法寿院にある。
鹿嶋城は、築城者や築城年代については定かでない。 資料によれば近衛中将助安の居城
であった。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/iyokasima.htm

前近衛中将助安が居城した。鹿島山法寿院に位牌があり、「法寿院殿玄清居士」と戒名が
記されている。 ・大洲旧記には、「左近衛中将藤原助安居る 大城なりしや 六町程
へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記されている。
http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/iyo.htm
 

御器所八幡宮の棟札近衛中将助安縁故

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)21時29分2秒
  御器所八幡宮
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gokiso/
御器所八幡宮は尾陽神社のところで触れた佐久間作守家勝が、1441(嘉吉元)年に八所大明神
を修造して創建されたといわれています。
これにより、佐久間作守家勝事嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあるのに類似して、近衛中将助安縁故とする。

龍興寺は1539(天文8)年に御器所城主だった佐久間盛次が建立したといわれています
http://toppy.net/nagoya/syowa3.html
愛知郡御器所庄領主・佐久間家の崇敬も篤く、徳川家康はこの御器所八幡宮で長久手合戦
の戦勝祈願をしたと伝えられていることから、開運厄除、必勝祈願の御神徳がある神社
として人々の崇敬を集めています。
http://www.yumemusubi.com/mori/jinja/aichi/gokiso_hachiman.htm

御器所八幡宮の創建年代については明らかではありませんが、第54代仁明天皇(在位833~850年)の勅願によって創建された熱田神宮の鬼門方位の守護として鎮祭されたものといわれています。

御器所八幡宮は、御器所西城主だった佐久間作守家勝が、1441(嘉吉元)年に八所大明神を修造して創建されたといわれています。御器所村の氏神様として古くから信仰を集めていました。

「八所大明神」
(八所大明神)
 石座大明神、新羅大明神、八幡大明神、山王大明神、春日大明神、住吉大明神、松尾大明神、賀茂大明神
天照大神など8柱の神をまつったことから八所大明神と称した。

八所大明神・八所権現・八所廻り八所とは、八所権現の大神、日向、雨増、若宮、神宝、
檜原、華鎮、御子宮の八所とされる。

高御産日神をはじめとする8柱の神々が祀られた
歴史祭神は元は宮中に祀られていた。
 

佐久間盛重の女を室とした信晴か

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)21時10分48秒
  佐久間盛重の女を室とした信晴
佐久間盛重ー信晴ー信盛ー正勝

信盛は十津川で没した。子正勝(信栄とも)はのちに赦免され、織田信雄に仕え、天正十二年(1584)の小牧の戦いには、信雄方の将として秀吉方の滝川一益と戦っている。
 のち、秀吉に仕えてお伽衆となり、さらに秀吉没後は家康に仕えた。正勝の跡は、弟で信盛の三男がその後を継ぎ、徳川旗本に召し抱えられている。

嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあり御器所八所大明神の社殿を造立したという。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
小川乾坤院(知多郡東浦町)蔵の「血脈集」文明十一年(1479)条に「誠栄 サクマ平右衛門 尾州御貴所(御器所)」とみえる。
寛正二年(1461)頃、佐久間美作守と熱田社の地下人との間で盗み馬のことで問題が起こり幕府内で問題となった。『蔭涼軒日録』
永禄七年(1564)の段階でも御器所は佐久間氏の領地で御器所八所大明神修理棟札に、佐久間美作守家勝・佐久間右衛門尉信盛の名が見えている。ここに見える美作守家勝は、盛次の従兄弟である。

文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
この佐久間孫五郎助安とは、「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き
近衛中将助安、広瀬城主事である。
嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあるのも、近衛中将助安のこと也。
この佐久間美作守事、佐々木児島氏佐久間、の縁戚から用いたものである。
 

三宅氏の起こり

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)20時52分26秒
  三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。
「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_miyake.html

「岩松八弥」
「八弥は広忠の妾“於春”に恋慕した」「内藤清長の娘で内藤信成の母」
「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽して果てた」
天文23年11月5日「御船ノ三宅右衛門太夫貞保 同名右近申合 佐久間全孝息長七郎ガ居城三州広瀬ヘ不意ニ取懸ケ乗取リ入城シテ御船ノ郷ヲバ三宅帯刀ニ与ヘ」(巻1 孕石竹千代殿ヲ悪口スル事 并ニ 三宅貞保三州広瀬城ヲ攻メ取ル事)。

家紋/三宅輪宝
先祖/児島高徳
系図/-清貞-師行-重勝-正貞-康貞-康信-康盛-康勝
<一口メモ>三宅氏の祖は、南北朝時代に南朝方として活躍した児島高徳であるという。三宅氏は高橋荘東方の北部および足助西部にまで勢力を拡大し、松平・今川・織田氏と対立、あるいは連合・服属を繰り返している。亨禄3年(1530)、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌4年、清康は伊保城を攻め、城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走する。天文2年(1533)三宅右衛門大夫高貞は中条・鈴木・阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。
<三宅氏略系図>
http://www7b.biglobe.ne.jp/~taniyan/gunki/miyake.htm

児島高徳後胤にあたるのは類似した重複項目から、ひきだせる。
その一つが、
猿投神社の関係にある。
猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。
http://www.geocities.jp/engishiki01/mikawa/bun/mk110105-01.html

【住所】愛知県豊田市猿投町大城5
祭神】大碓命 (配祀)景行天皇 垂仁天皇
ここに日本史が始まる。
由緒】仲哀天皇元年創始神宮皇后と連座している。神宮皇后とは女神のことなり
豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する。
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。
創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されれて来ている。
神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。

古代に重要視されていたのは、猿投と王との拘わりがあるから。
(三河広瀬~猿投神社)は天皇と重複した関係にあります。
後鳥羽上皇後胤、児島高徳と、その又後胤、佐久間氏に重複した関係にあります。
あまり取り上げられてこなかった、この佐久間氏と佐々氏祖は、佐々木盛綱に始まる、
児島氏がある。
ここに両家の

信晴
  ┣━━━━━┳━━┓
 信盛    信辰 明嶽
  ┣━━┓  ┣━━┓
 信栄

があるが、信晴こそ、1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)と見る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F#.E4.BF.A1.E6.99.B4.E7.B3.BB

佐久間軍記(さくまぐんき)は、戦国時代から江戸時代にかけての佐久間氏の働きを記録した軍記物のひとつで、続群書類従第20輯下 合戦部16に所収されている。 著者は佐久間常関(または常閑)となっている。

太閤記の記述も佐久間軍記と同様の説を採用している。

佐久間 信栄(さくま のぶひで、弘治2年(1556年) - 寛永8年11月23日(1632年1月14日))は、安土桃山時代の武将。織田信長、豊臣秀吉、徳川秀忠に仕える。通称は甚九郎、駿河守を自称し、剃髪後は不干斎と号した。諱は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている[1]。

織田信長の重臣・佐久間氏の当主・佐久間信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦などで父と共に戦功をあげ、天正4年(1576年)には対石山本願寺戦で天王寺城の守備を任されている。
塙直政の戦死によって父・信盛が石山本願寺攻めの指揮官になるとこれを補佐し、平行して畿内各地に援軍として出兵するが、石山攻めでは一向に結果が出せず、業を煮やした信長が天正8年(1580年)朝廷を動かして本願寺と和睦すると、19ヶ条に渉る譴責状を突きつけられて父共々高野山に追放された。譴責状では「甚九郎覚悟の条々 書き並べ候えば 筆にも墨にも述べがたき事」と酷評されているが、確かに茶器の収集や茶会の出席などに精を出し、茶の湯三昧の日々を送っていた事は事実らしい。

父・信盛の死後、天正10年(1582年)1月には赦免されて織田信忠に仕え、本能寺の変後は織田信雄に仕えた。小牧長久手の戦いでは滝川一益と戦った。信雄が改易されると茶人として秀吉に召抱えられ、大坂の陣後は徳川秀忠に御咄衆として武蔵国児玉郡、横見郡に3000石を与えられた。

法名は宗岩。墓所は京都紫野大徳寺の高東院。

その子孫縁故は御器所、山崎城ほか四家(久六盛重・盛次系、河内守系、奥山氏系、信晴・信盛系)に分かれる。
今までは信晴は御器所系に列せられていたが、
これは児島氏の児島高徳母方関係重複からで、あろう。
信晴はこの佐々木一族縁故であって、
児島高徳の後胤であることは、判明している。





「猿投山」
 猿投山は標高629m、西三河においてその姿の秀麗さと豊富な史実により、古代から近世の歴史に名を留めた霊峰の筆頭であると言えます。
猿投といえば、
陶磁で有名だが、この猿投に土着したのは、時代末夜須の鳥巣から、移動した集団が、前田氏という訳である。
王に追随してきてから、祭祀の為の用具を製造したのに起る。
証拠は、夜須の鳥巣の硬質土器須恵器が、ここで始まったとするのに類似重複する。
 

佐久間信盛宗佑

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)19時32分16秒
  天正10年(1582年)1月16日紀伊国熊野にて死去[1]した。享年55。法名は洞無桂巌または宗佑。直後に信栄は信忠付の家臣として帰参を許された。

信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。  三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。

事実、信盛追放後にその領地は信長と信忠で分割されている。そして、同じく畿内に領地を持つ明智光秀がこの追放劇に危機感を覚え、後に自身の領地である近江坂本・丹波の領地を召し上げられた事が本能寺の変のきっかけになったと主張している。

これが、佐久間信盛のあだ討ちで、児島高徳一族の後胤明智光秀の母三宅左馬介光春に、よって、下された。
三宅左馬介光春の母は三宅高貞である。

備前児島の国人三宅徳置の次男(光春)は、明智光久の養子「児島」三宅左馬介光春は、
長男光忠と、儀兄弟(23、4歳迄) 光秀の長女の後婿(明智秀満)を名乗ります。
備中の兵乱で滅んだ三宅徳置の次男で、. 弥平次

光秀に認められ女婿となり丹波・福知山城主になった。そして常に明智勢の先鋒として戦い武功をあげた。

南北朝争乱期に摂津地域と地縁を持った三宅一族は、応仁の乱を始めとする細川両家の確執、国人一揆、一向一揆とつづく戦乱の中にあって細川氏の被官として注目すべき行動を行い、各種の史料に、これら三宅一族の名が現れます。
妻:三宅高貞(三河広瀬城主)の娘 子供:男子…明智秀満、男子…遠山利景、女子…小里光
次の妻 明知城主(遠山氏を継いで、遠山 ... 母:三宅高貞(三河広瀬城主)の娘 子供
:長男…遠山一行 明智光秀の重臣 明知城12代城主 明智秀満が南光坊天海である

備前児島流三宅氏祖児島高徳
三宅系図を母は三河広瀬城主三宅高貞の娘であり、児島高徳の後胤とされる一族
である。 三宅新十郎出雲弥平次(明智左馬之助)藤兵衛 三宅藤兵衛重利(のちに寺沢家
に移籍して天草富岡城代。天草・島原の乱で討死。) 肥後細川藩侍帳
児島三宅系図備前


「天文23年(1554年)に主君暗殺の黒幕が佐久間全孝と知った松平家家老らは憤激し、
義元の後盾で広瀬城に攻撃した」「松平軍と結託した御船・東広瀬城主の三宅高貞(右
衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)らに攻められ、重行はついに居城に火を放ち自尽

季定──季家─家長─武田冠者子息定心──【和田】季房─家勝─家弘─══範長──══高徳(三宅姓児島氏へ)
※このほか、【中西氏】【今西氏】【大富氏】【小木曽氏】【紀見氏】などが三宅姓児島氏を出自とする。

【児島】高徳ー三宅】高光─正綱


秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。
秀満は、 秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、
最初は遠山景玄を称しています。

遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。
秀満は、恵那郡の明知城主遠山景行(明智光安のこと)の長男として生まれ、最初は遠山景
玄を称しています。

三河 西広瀬城

【愛知県豊田市西広瀬町城前】

【立地】平山城
【別称】広瀬城・広瀬西城・西前城

【歴史】1460年頃、城主に佐久間信盛(後の信長家臣とは異なる)、1467年頃、信
直、弟信重の名がある。1531年頃、松平三郎左衛門家範が城主となったが、1533年
佐久間全孝が入る。1549年全孝は岡崎に刺客岩松八弥(片目の八弥)を送り込み、松平
宗家8代広忠が殺害される。1554年佐久間九郎左衛門重行(全孝)の子長七郎居城の時
、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。155
8年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。1560
年「桶狭間の戦い」の際、佐久間信直は信長方の善照寺砦を死守し、戦功を挙げている。

1576年頃、佐久間信盛も居城したが、その後、信直、甥の正勝は織田信雄に属し、1584年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城を護り、軍功を挙げた。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Nishi-Hirosejyou.html

広瀬城。興国五年(1344)矢作川の脇、山頂に豪族、児島高徳が築城。十一代目城主の三宅高清が織田方に付いた為、永禄三年(1560)松平元康に攻められ落城した。
http://sukune.web.fc2.com/hirosejyou.htm
 

佐久間信盛女養秀院証明

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)18時57分23秒
  養秀院殿狐寶を得給ふ事
狩野孝信 元亀二(1571)年11月25日~元和四(1618)年8月30日 佐久間信盛女子養秀院を
娶る。 ☆養秀院巻十 養秀院殿狐寶を得給ふ事 「雪窓夜話抄巻下」 因伯叢書 上野忠親
の雪窓夜話抄 鳥取県絵師狩野孝信に嫁いだ宗序ムの女娘がいたとされる。
宗序ムとあるのは、佐久間信盛の宗の誤りである。
探幽の母は養秀院と言ふ


天海と「三宅輪宝」信長始末記
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:8月20日(日) 9時23分
門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れました。
本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。
寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。
捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。この女は斉藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。
旗本衆の二、三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。
一人の男が、奥の間から、麻の単衣(寝間着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので、私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。


このほど、児島高徳の肖像画の中の古文書の解読と、児島高徳の事を調べていただきましたら、これまた明智とつながり、備前児島の国人三宅徳置の次男(光春)は、明智光久の養子「児島」三宅左馬介光春は、長男光忠と、儀兄弟(23、4歳迄),其の後、 光秀の長女の後婿(明智秀満)を名乗ります。
熊本の三宅家も明智のながれと聞いております。
*我が家の先祖狩野養長は児島 高徳の絵を沢山描いています。
http://www.geocities.jp/motoka_kano/japanese/family_tree.html
 

佐久間信盛の子

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月26日(金)18時34分46秒
  佐久間信盛は、室を前田本家の前田種利の女を迎えて、
長男佐久間甚九郎信栄(不干斎・イエズス会ハビアン・正勝
長女狩野孝信に嫁ス
二女輝子、佐々清蔵(成政兄)に嫁ス

「狩野孝信」
墓は京都妙覚寺にあり,法名を円大院孝信日養という。
狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の狩野貞信(1597 - 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。
幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。
安信は叔父信栄正勝男、従弟の助九郎長興(秋月藩祖)の画像を、描いている。
又助九郎長興には縁戚の宮本無二斎(武蔵父)が仕官している。
慶長7年(1602年)、狩野孝信の長男として京都で生まれる。
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/ikegami/honmonji_kanoutakanobu/index.html
狩野孝信の墓塔
http://www.geocities.jp/otaku_bunkaisan/50.html


「狩野探幽」
慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。
祖父の不干斎の、影響によるものであろうか、不干斎は徳川家康の伽衆でそばに、仕えていた。
狩野(かのう)探幽(たんゆう)(1602年から1674年)は、狩野(かのう)孝信(たかのぶ)の長男で、日本絵画史上最大といわれる狩野(かのう)派の「中興の祖」といわれます。その墓塔はひょうたんの形をしており、並び立つ顕彰供養碑には、探幽(たんゆう)の事績が刻まれています。都指定文化財。
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/ikegami/kanoutanyuu_haka/index.html
法堂の天井の中心に、狩野探幽法眼守信作・雲龍の図(八方睨みの龍)が、実にいきいきと描かれていました。
妙心寺は、長い間、大徳寺の末寺的な存在でした
大徳寺高桐院には、祖父家の墓石がある。
又智勝院には斉藤利三の墓石がありその横には、燐勝院内には、春日局の墓石もある。
この智勝院院の住職から、見せていただいた、系図に、児島八郎盛宗が列してあった。
児島八郎盛宗の養子が佐々木盛綱で、児島高徳の母系の家でした。

「二女輝子」
後鷹司に再婚ス清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。
岳星院(佐々清蔵室→鷹司信房室)

佐々清蔵(成政の兄政次の子)と言ふ、姉は隋泉院(松原直元室)である。
隋泉院との間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。
隋泉院と直元には男子がなく、妹岳星院と二人で直元にひきとられた。
二人の間には権兵衛・勘兵衛成清・信濃守・の三人が出来た。

「佐々五郎四郎」信濃休西重勝
隋泉院との間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。
休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕え、男子宇左衛門(号・休閑)は播州浅野家に. 仕えた

死別後、実家佐久間信盛家に戻るが、後に関白鷹司信房の継室となる。信房との間に鷹司信尚、鷹司孝子(徳川家光正室)など7人の子供を儲けた。
甥に狩野探幽がいる。

暫く叔父成政の元にあったが、成政の死後、松原直元、姉随泉院らと共に前田玄以のもとに引き取られる。

休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕えた
これを見たら判る、
鷹司房信室は?天皇に仕える公家
鷹司(たかつかさ)家は、五摂家のひとつで公家である。鎌倉時代中頃、藤原氏北家嫡流の近衛家実の四男兼平が祖。

「鷹司信房 (たかつかさ・のぶふさ:1565-1657)」

公家。先妻を亡くしていた為、成政の姪娘岳星院を娶る。関白・左大臣二条晴良の長男。関白・左大臣鷹司忠冬の養子となる。1579(天正7)年、正五位下に叙されて元服し右少将に任ぜられる。1589(天正17)年、従一位に進み、1606(慶長11)年に内大臣より左大臣、更に関白に任ぜられ、氏長者となる。1608(慶長13)年、関白・左大臣を辞す。岳星院との間に七人の子女をもうけた、関白・左大臣となる嫡子信尚、将軍家光の正室となる中丸殿などがいる。

「佐々 輝子」佐久間信盛の女(さっさ てるこ、? - 寛永7年(1630年))は安土桃山時代から江戸時代にかけての女性。
初め従兄弟の佐々清蔵に嫁ぎ、五郎四郎を儲けるも、本能寺の変で清蔵と死別。
 

日本の神話を海外に求めることは可能

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 9月 3日(水)12時23分24秒
  鐵鍛人様
地域住民に一定の歴史観を作り出すのに成功した神話が記紀に繰り
込まれたと見るのが妥当
>國産みから始まる出雲神話に海外に求めることは可能と仰せですね。

確かに、構成から見ればそう受け取れますね。
ですが、歴研会では逆の古代中国から、引き継いだものと考えています。

日本と似たような神話が発見されてきた>
中国でもありましたね、太陽神話等。産みから始まる神話。
 

日本神話の原形、出雲

 投稿者:鐵鍛人メール  投稿日:2008年 9月 2日(火)22時49分9秒
   いくらでも日本の神話を海外に求めることは可能でしょう。
というか、観測対象を広げれば広げるほど日本と似たような神話が
発見されてきただけのこと。
 それは言いすぎだとして、ストーリみたいなものには日本より更に
広域な広がりをもつ神話からの派生と考えてみても良いが登場する
固有名詞で現在の日本語では意味が十分にわからないものは古代日本
の特徴と深く結びついているとしか思えない。
 しかも荒唐無稽なユダヤと古代日本との関係などは、古代人の交通
能力からして基本的に無理がある。交通的に近い、早いものとの相互
作用を考えるべきで、日本列島を鳥瞰図的に見立てて国産みをする記紀
の話などは、元来の神話ではより小さな地域で発生した事件で、その
地域ある最も高い山から見下ろして、その地域王権の発生と地形の形
から地域住民に一定の歴史観を作り出すのに成功した神話が記紀に繰り
込まれたと見るのが妥当と思う。
 

紀家弘室東郷胤時女血流

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 5月18日(日)19時41分39秒
  紀家弘事善法寺通清別当(石清水八幡宮)の嫁は、東郷胤時女である。
この紀家弘との間に生まれた女の婿になったのが、児島範長である。
児島範長との紀家弘女の間に、誕生した女が、頼宴僧正室という訳である。

紀家弘(善法寺通清別当)女は、これで三人居た事になる。
次女は、後光厳天皇家に女崇賢門院仲子嫁し三女良子は足利家に嫁した。
善法寺通清別当ー長女児島範長室ー長女頼宴僧正室ー══高徳ー女脇屋義助室
善法寺通清別当ー次女後光厳天皇室ー══後円融天皇
善法寺通清別当ー三女足利義詮室ー══義満

脇屋義助(わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。新田朝氏の次男で、新田義貞の弟。
康永元年/興国3年(1342年)、中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡るが、伊予国の国府で突如発病し、そのまま病没する。齢38。
明徳四年。携孥西入伊豫。邦族以舊誼善視之。館于

宇和島。無幾卒。河野氏以其不得志而湮沒也。爲立

祠於道後云。子孫居伊豫。傳至君。天正中。避亂於豊

後。依大友氏。大友氏尋亡。乃家于速見郡小浦。
子孫 伊豫に居り、傳へて君《脇八郎次郎》に至る。天正中、亂を豊後に避け大友氏に依る。大友氏尋[つ]ぎて亡し、乃ち速見郡小浦に家す。
孥=妻や子  邦族=この場合は河野氏を指す
舊誼=古くからの付き合い(父の脇屋義助と伊豫国の河野氏の間柄)
視る=面倒を見るの意 大友氏尋[つ]ぎて亡し=大友氏も間もなく滅亡して

新政府は尊氏討伐を「新田義貞」に命じ、大友一族は「新田義貞」のもとで、諸将に混じって足利尊氏を攻めました。大友千代松丸(氏泰)、貞載、戸次、志賀・・等がこれに参加しました。新田義貞軍のもとで、大友軍は二班に分かれました。「千代松丸は箱根まわりの隊、貞載は「竹の下」に向かう軍に分かれました。

 初戦は官軍が敗れ、二日目の戦いの時、「大友貞載」等の軍勢350騎が突然「寝返り」、足利軍に加わりました。このため、新政府・天皇方は総崩れしてしまいます。尊氏軍は勢い付いて、一挙に都に迫ります。都に着くと、大友千代松丸も足利尊氏軍に寝返ってしまいます。反感をかった大友貞戴は降参を装い近づいた「結城親光」に切り付けられ、親光を討ったものの深手を負い死亡します。

 速見郡史

「延元元年正月 大友左近将監大友貞載 足利尊氏供奉上洛、貞重(木付)随順、同十一日、洛陽東洞院烏丸において、結城判官藤原親光と組み討ちて、親光の首級を穫て 尊氏の実検に備ふ。貞載深手を受けて、同十四日二条にて死す。此時、(木付)貞重郎従「西・上・東・是久」共に死す。
佐々木信胤(のぶたね)の挙兵によって四国への通路が開けたので、脇屋刑部卿義助は暦応参年四月一日、勅命により、四国、。中国の大将として伊予へ出発した。

脇屋義助と言う人物は、「新田義貞」の弟です。常に、義貞の右腕として活躍し、南朝軍の武将として、種々の戦いに大将や副将として参加しています。
 

徳川家は三代家光の後、日本の礎は側近が居なかった為薄れた

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月28日(月)10時42分49秒
  日本の礎は徳川家からも天皇家からも、失われました

ここに、天皇とのつながりは出来たが、正室には子が、つくられませんでした。孝子にも子が出来ていませんでした。
この時期、三千石扱いで、伽衆が秀吉から家光まで、続いていました。
これに、奏して筑紫入りが、決まったのです、甚九郎正成は、松延村に居し、それから、福岡藩から、土地をあてがわれ、四熊と定めました。
ここに、徳川家とは無関係になりました。

徳川嫡継は、この形式とはなりませんでした、ここに近衛家皇孫姻戚が離れていったのが、徳川家の流れです。
これは天皇家にあっても、同じように、皇孫との関係は薄れたとなるでしょう。
残りの、血縁だけが、孝明天皇まで、続いていたようです。
この天皇家も徳川家のように、臣下の武官の娘との、婚姻関係になっていて、ここにも、皇孫との関係は薄れていきました。

このような経過から日本の礎は筑紫国現福岡県朝倉夜須四熊にしか、受け継がれなかった為に、文化歴史は、その後開かれなかったといえましょう。
江戸以降の主な物語や、文化は、相撲にしても、福岡県朝倉夜須四熊から、熊本の吉田家に、相撲御用の認可をしてから、開催されていたのです。この相撲御用とは?、「宮廷文化」を幕府の礎とされていたからでした。

徳川綱吉は母桂昌院の出が良くなかった為に、事件が頻発に起きていました。
それが後鳥羽流佐久間家関連に対しての、暴虐赤穂事件とともにお玉(この頃は桂昌院)です。生類憐みの令、ここに赤穂浅野事件がおきる。は民に生活の基盤まで、なくして苦しめて、しまいました。

それほど、日本の礎は日本には欠かせないものなのです。

堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推した綱豊の将軍就任は採用されなかった。

宝永6年(1709年)には綱豊が家宣となり六代将軍に就任。側室お喜世
江戸幕府第6代将軍徳川家宣母はお保良の方(長昌院)
正室は近衛基熙の娘・天英院熙子。
子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。

新見左近、松平虎松(幼名)幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。徳川綱豊(初名)→家宣
経歴
父が正室を娶る直前の19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、新見左近と名乗った。
伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗り、延宝6年(1678年)の父の死後、17歳で家督を継承し、祖母・順性院(祖父・家光の側室で父・綱重の生母)に4代将軍・家綱の次の将軍になるために育てられた。
宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任する。
生類憐れみの令や酒税を廃止する
柳沢吉保を免職する
家宣と次代将軍・徳川家継父:徳川家宣、母:お喜代の方(月光院)側室お喜世(官位正二位、内大臣兼右近衛大将)
の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。

八代将軍には、家宣の遺言と言うこともあり紀州徳川家から徳川吉宗父:徳川光貞、母:女中父巨勢利清の娘が迎えられた。

吉宗に正室との間の子がいなかった延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重第九代将軍正室:伏見宮邦永親王の娘・比宮増子(証明院)伏見宮第14代当主。伏見宮貞致親王の女培子女王(第9代江戸幕府将軍徳川家重室)
(在職1745年 - 1760年)に譲る父:徳川吉宗、母:深徳院徳川吉宗(後の第8代将軍)の側室父は紀州藩家臣の大久保忠直。名は於須磨の方、あるいは於須摩の方。吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。

家重は5月13日(6月25日)に長男・第10代将軍家治正室:閑院宮直仁親王の娘・倫子女王
に将軍職を譲って大御所と称した。家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。母:至心院不明

天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍家斉)を自らの養子とした。

徳川 家斉(とくがわ いえなり)正室:島津重豪の娘・近衛寔子は、日本の武士・徳川幕府第11代将軍。(将軍在職1787年~1837年)父:徳川治済、母:慈徳院
養父:徳川家治
御三卿の一橋家2代当主徳川治済の長子。母は側室の慈徳院。

徳川 家慶(とくがわ いえよし)正室は有栖川宮織仁親王の娘・楽宮喬子女王、第12代征夷大将軍父は徳川家斉(家慶は次男)。母は側室の押田氏の娘

徳川 家定(とくがわ いえさだ)正室:鷹司政煕の娘・天親院
は、江戸幕府第13代征夷大将軍。継室:近衛忠煕の養女・天璋院

天保12年(1841年)に祖父で第11代将軍、大御所であった徳川家斉が薨去したため、第12代将軍・家慶の世子となる。

斉彬の養女になり源 篤子(みなもと あつこ)実父は薩摩藩々主島津家の一門・今和泉領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。島津斉宣の孫にあたる。
天璋院(てんしょういん・一(かつ)→島津篤子→近衛敬子
近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら すみこ)と名を改めた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2
 

河野通俊(得能冠者)児島の一族なり

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 4日(金)16時10分28秒
編集済
  越智系河野家

通俊の子深厳
通信は守護佐々木盛綱の支配から独立し、一族の統率が許され、1218年伊予国守護。

通清ー通信妻:北条時政女(やつ)(1155-1223)ー通久父:通信母北条時政女


通信ー別府通広、母行光女(?-1263)父:通信
           別府通広母:二階堂行光女(?-1263)ー

通有(1250-1311)父:通継 母;不明(旧河野氏領地回復)ー通盛(通治)(?1364父:通有)ー通朝(?-1364)父:通有(通盛説もある)ー通直(通尭)(?-1379)父:通朝ー通義(?-1394)父:通直ー通久(?-1435)父:通義


河野通俊(得能冠者)母新居大夫玉氏女)ー長男通純又太郎通純を得能又太郎
                    次男通村(得能弥太郎)
                    三男の通綱次男通村の子、通綱(又太郎、得能                        備後守)元弘年中 南帝宮方
                    四男通政
河野得能通俊ー


河野通有の子息通義(河野六郎左衛門刑部少輔)
通秀を得能冠者・後得能弥太夫云う。
後烏羽上皇は執権北条義時を追討するが敗れ、上皇方についた村上氏は河野氏と共に没落。
河野伊豫守通信、河野通俊父子
河野通盛(みちもり)(1364没)は、通有の末子

季定─季家─家長─定心─【和田】季房─家勝─家弘─══範長──══高徳

(越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳──

【和田】季房─══深厳──家勝─家弘─══範長──══高徳


【和田】季房─══深厳────永性─══賢秀、秀守─


(越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳────永性─══賢秀、秀守
 

八四代順徳天皇の孫・尊雅王の息女・智泉尼聖通

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 3日(木)12時26分2秒
編集済
  智泉尼聖通の兄弟には、左大臣・四辻善成、天竜寺二世・無極志玄が居る。智泉尼聖通と石清水別当・通清との関連を図示すると、次の通り。


   八四代
┌─順徳天皇───善統親王───尊雅王───┬─四辻善成・左大臣
│                                          │
│                                          ├─無極志玄・天竜寺二世
│                                          │
│  八三代        八八代                    └─智泉尼聖通・通玄寺開山
└─土御門天皇──後嵯峨天皇─┐                  │
                              │                  │  ┌──昇清・石清水別当
                              │                  ├─┤
                              │                  │  ├──良子★───足利義満
                              │  別当        別当│  │     奥州伊達
    石清水別当宮清──────┴──尚清────通清  ├──女・初代政宗室★
                            後嵯峨院皇胤              │
                                                      └──崇賢門院仲子★
                                                            │北朝五代
                                                            ├─後円融天皇
                                                    北朝四代│
                                                      後光厳天皇


http://homepage2.nifty.com/H-Suga/suukenmonninn.html

五輪塔の前に六十センチ位の高さの「崇賢門院尊儀広橋家」とある標石がある。広橋家は藤原氏である。



       冷泉宮頼仁親王
                        │
                        ├────東寺長者道乗──頼宴僧正──児島高徳
                        │                      │
北条時政女────加地信実女           │
                        ├──高丸(高徳幼名)
                        │
                 ──児島範長──女
                      │
                      │
                      │
     石清水別当宮清尚清──紀家弘───女
                (通清)  │
                      │
                      │
                      │
                      ├─女崇賢門院仲子──
                      │
                      │
                      ├─女紀良子──
                      │
                      │
善統親王ー尊雅王ー智泉尼───智泉。号清水─


藤原範兼ー藤原範子ー在子ー順徳天皇ー善統親王ー尊雅王ー智泉尼           八四代順徳天皇の孫・尊雅王の息女・智泉尼聖通

宮清=花山院法眼良宗の娘は後嵯峨天皇の子尚清を身ごもり宮清の室に

宮清ー尚清善法寺氏ー尚清1320寂ー通清1360寂ー 善法寺通清(紀家弘)
善法寺宮清の孫の善法寺通清の娘 良子
後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系で従兄弟に当たり、また同い年である
『尊卑分脈』の『紀氏系図』や『続群書類従』の『石清水祠官系図』
紀仲子、御父は紀通清、弘和三年(一三八三)四月二十五日院号宣下、応永三十四年(一四二七)五月二十日崩御八十九才とある。
紀通清(号・善法寺)は石清水別当である。通清は『石清水祠官系図』では道清とある。

『石清水祠官系図』により、通清(道清)の子女とその生母を調べると、次の通り。

  匡清・母は尭清女。

  昇清・母は三説記載されてあります。
     母行然女[城内類也]。
     異本母尚淳女[法師。不審。]。
     異本母通玄寺開山聖通。智泉。号清水殿。鹿園寺殿(足利義満)外祖母。[通清室。巫女。]


加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳
逸見重氏児島盛綱女婿逸見重氏(法名定心)家長幼少ニツキ
逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室ー児島高徳
後鳥羽上皇─冷泉宮頼仁親王(児島宮)室佐々木信実室母北条時政女─東寺長者道乗──頼宴室児島範長女母紀家弘女─高徳

伊予の守護、河野通信の長男通俊が鎌倉初期(十二世紀初期)土地の名前をとり得能を氏とした

得能四郎太夫通俊の子深厳也 家勝子紀家弘後継タリー深厳

越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳

備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後三郎、
祠官)
高徳は、幼い頃、名を高丸といった。父の大僧正の教えを受けて、和漢の学を学び、神童と呼ばれる程であった。高丸が七才の頃、花園天皇と後醍醐天皇の皇位継承について北条氏が介入した話をきき、また、かねがね後鳥羽上皇が承久の昔、北条氏のために讃岐に流されたことを父に聞いた。そんなことで大きくなったら武士になって、北条氏を亡ぼそうと思っていた。

父の大僧正は三宅範長と相談して、範長が高丸を手もとに引きとって、武士として教育することになった。三宅範長は、その頃までは、児島の五流尊滝院の付近に住んでいた。

しかし、孫の高丸を武士として、教育するには、生まれた近くより他の場所がふさわしいと思った。三宅範長は一党が住んでいた邑久町上寺山周辺に館を移した。

高丸は十五才、正中二年に元服した。そして児島姓を名乗らせた。大僧正の三男なので三郎とした。児島備後三郎高徳と名乗らせ、和田一門の頭領としたのである。

佐々木季定ー秀義ー 盛綱ー信広ー時秀ー胤時ー胤泰
東郷胤時は時秀子で東郷姓
三宅家勝─家弘(弟家成─範勝─範貞)─範長─女─高徳(祖父範長名跡)。
三宅高光─正範(弟正綱)。

「加地信実」(佐々木信実)
父盛綱が平家追討に功をたて越後国加地荘を賜った為土着した。加地氏の始まりである。子孫は磯部氏、倉田氏、新発田氏、竹俣氏となり揚北衆として上杉謙信の家臣となった。
承久の乱では、承久三年(1221年)5月29日、後鳥羽上皇派が越後の願文山城に立て籠もり、この追討軍の大将に任ぜられ幕府軍総大将である北条朝時を補佐して籠城軍を破った。その後結城朝広とともに北陸道の軍勢の上洛を指揮した。
「号加地」と記されていることから、父盛綱の譲りを受けて加地荘を相伝した
冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。

1221年、備前国の守護になる。
佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称した
頼朝に畏愛される三郎盛綱(佐々木盛綱)
菅原姓であり、近江国余呉庄を出身地とするものである

加地信実の女が頼仁親王の室となり道乗僧正が
生まれす。 それから都東寺長者になり,子息頼宴僧正の室に児島範長の女 があがります
加地信実ー時秀左衛門尉ー胤時(東郷氏祖)高徳母方叔父家弘と縁故。
七人の公家のうちのひとり、藤原信成の家人で、後鳥羽上皇の院宣を奉じた酒匂家賢以下六十余名が承久三(1221)年五月二十九日、この願文山城に立て籠もった。このときに幕府追討軍の総大将に任ぜられたのは、隣接する加地荘の地頭、加地(佐々木)信実

伊予の守護、河野通信の長男通俊が鎌倉初期(十二世紀初期)土地の名前をとり得能を氏とした。
児島盛綱ー信実ー時秀ー東郷胤時ー女紀家弘室ー女児島範長ー女頼宴室ー児島高徳トゾ
河野通信(こうのみちのぶ)公(伊予の豪族で、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘婿となった。
奥方が安産を祈って、無事男の子(得能通俊(とくのうみちとし)公)を誕生した。

季定─季家─家長─定心(逸見重氏)─【和田】季房(父祖和田義盛の子が、
逸見重氏で母の父方の里に住んだ故和田を号ス。

季房─【得能】通俊の子深厳─家勝─家弘─【今木】高長子─範長─

上杉家
飽浦胤泰東郷胤時子加地時秀孫信実曾孫十郎左衛門. 信胤胤泰子三郎左衛門佐々木薩摩
延元頃. 信清美作. 行胤胤泰子左衛門 ... 基泰東郷胤時子七郎.
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/uesugi.html

逸見重氏(法名定心)─養子三宅祖得能四郎太夫通俊子深厳─李房孝房改名─三宅備後
守家勝─紀家弘─和田範長─女頼宴室
紀家弘室東郷胤時女─家弘の室の
父東郷胤時は云エリ婿ハ今木範俊ノ子ナリトテ『大平記』に今木備後守高長ノ子ワ範長
出所を明らかにした今木備後守高長ノ子ワ範長としている。

紀家弘室東郷胤時女が通玄寺開山聖通。智泉。号清水殿。
智泉。号清水殿。の父は東郷胤時女。

これと上杉家に婿入りした宮崎の秋月養山母は筑前秋月から嫁いだ、女の子。
筑前秋月祖助九郎長興は徳川伽衆不干斎の次男で祖児島高徳の後胤である。
 

承明円院(じょうめいもんいん)任子

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)21時17分35秒
  九条兼実の娘任子
局は刑部卿藤原範兼(のりかね)の女で名を兼子(かねこ)と申し、その叔父で義理の兄に当たる高倉範季(のりすえ)は後鳥羽上皇を養いまいらせて、践祚の時も専ら御世話申し上げた上、その女重子(しげこ.後に院号があって修明門院という)に宮仕えさせ、また局の姉範子(のりこ)はもと法勝寺執行(しゅぎょう)能円(のうえん)の妻で、上皇の御乳母(おんめのと)をも勤めたが、能円が平家に従って没落の後、通親に思われてその夫人となりすまし、連子(つれこ)の在子(ありこ)は通親の養女として上皇の妃となった。承明門院と申すがそれである。
その御腹の順徳天皇は皇太弟に立たせられるという風で、ようやく一門栄達の曙光(しょこう)も見えた。七十歳近くの範季が三位に叙せられ、兼子が典侍に任ぜられたのもこの際の事である。

 『愚管抄』に、「故卿の二位(兼子)は刑部卿三位(範子)が弟にて、ひしと君(上皇)につき参らせてかかる果報の人になりたるなり」と見えるから、浮気な読者は上皇との御関係を疑いもしようが、第一、人もあろうに二十五も年上の老女では、問題にもなるまい。
順徳天皇(1197~1242.46歳)母君任子
任子の母君は藤原範兼ー藤原範子
藤原範子と法勝寺執行(しゅぎょう)能円(のうえん)の妻
能円が平家に従って没落の後、通親に思われてその夫人となりすまし、連子(つれこ)の在子(ありこ)は通親の養女として上皇の妃となった。承明門院と申すがそれである。

ここには法勝寺執行(しゅぎょう)能円と皇統の連系はない。
所謂紀氏が要等となる。



承明円院(じょうめいもんいん)

1171~1257(承安元-正嘉元)
 後鳥羽天皇の妃。名は在子。父は内大臣土御門通親。母は刑部卿藤原範兼の女、範子。実父は法印能円〔1140~99.60歳〕で、母範子は能円と離婚して通親と再婚し、在子もその養女となった。後鳥羽天皇〔1180~1239.60歳〕の後宮に入り、宰相君と称された。建久六年(1195)十月、後鳥羽天皇の第一皇子為仁親王を生む。同じころ九条兼実の娘任子〔宜秋門院.1173~1238.65歳〕が女子を生んでおり、このことは翌七年十一月の政変の一つの要因となった。同九年正月、為仁親王が即位した。これが土御門天皇〔1195~1231.37歳〕である。父通親は天皇の外祖父として権勢をふるった。正治元年(1199)十二月、従三位に叙され、同日准三宮となる。建仁二 年(1202)正月十五日、院号宣下、承明門院と号す。建暦元年(1211)十二月、落飾、法名は如観。正嘉元年(1257)七月五日、八十七歳で没す。
 

智泉尼(智泉聖通尼)

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)21時03分10秒
  良子の生母 智泉尼(順徳天皇の曾孫)が、東洞院三条に創建した通玄寺
通玄寺は順徳天皇の皇孫尊雅王の御息女智泉聖通尼公の開基
順徳天皇-善統親王-尊雅王-智泉尼-紀良子-足利義満
ここには皇統の連系はなく、藤原系紀氏の順徳上皇母は在子─九条廃帝(仲恭天皇)とある。範子父は従二位藤原範季祖

尚清――石清水八幡宮通清法印室巫女ー仲子・良子。
室巫女智泉尼智泉。号清水殿。=仲子・良子。

『巫女智泉尼系譜』
藤原範兼ー藤原範子ー在子ー順徳天皇ー善統親王ー尊雅王ー智泉尼ー紀良子

『藤原範兼系譜』
藤原 範季(ふじわらの のりすえ、大治5年(1130年)-元久2年(1205年))
平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家。九条兼実の家司。羽林家南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。
保延5年(1139年)父能兼が没し、兄範兼の養子になる。

父は藤原南家の藤原能兼。母は高階為時娘。
藤原範兼ふじわらののりかね1107~1165従三位刑部卿。公任にならって後六六人撰(中古三十六歌仙)を撰ぶ。 新古今 巻第十四 恋歌四 藤原範兼

藤原範兼]後鳥羽乳母前夫、能円。

『後鳥羽天皇后妃』

[女院]:源(土御門) 在子..1171~1257
.<承明門院、 号:宰相君・宰相>
父:法勝寺執行 能円(藤原顕憲の子)
母:藤原 範子(刑部卿 藤原範兼の女・後鳥羽天皇乳母)
養父:源(土御門)通親
1183(13才) 父・能円、平氏の西下に従う
1185(15才) この頃、母・範子、在子と妹を連れて土御門通親に再嫁
1194(24才) この頃、後鳥羽上皇(15才)に召されるか
1198(28才) 土御門天皇即位
1199(29才) 准三后、父・能円没
1200(30才) 母・範子没
1202(32才) 養父・通親没、女院(承明門院)となる
1210(40才) 土御門天皇退位
1211(41才) 出家する
1221(51才) 承久の乱、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は土佐に配流
1239(69才) 後鳥羽法皇(60才)没
1242(72才) 孫・後嵯峨天皇即位、養母格となる
1257(87才) 崩御〔7月5日〕
所生の皇子女
1195~1231.. 為仁(土御門天皇;在位1198~1210)
皇女


>[女院]:藤原(高倉) 重子..1182~1264
.<修明門院、 初名:範子、号:二条君・二位殿>
父:式部少輔 高倉範季
母:平教子(平教盛の女)
(従姉妹)後鳥羽天皇乳母 藤原範子・兼子(卿二位)
1195(14才) この頃、内裏へ出仕、後鳥羽天皇(16才)の寵を受ける
1198(17才) 後鳥羽天皇退位
1200(19才) 守成親王皇太弟となる
1207(26才) 准三后、女院(修明門院)となる
1210(29才) 順徳天皇即位
1221(40才) 承久の乱
........後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、雅成親王は但馬に配流
........兄・範茂処刑、出家(7月)
........院号・封戸・年爵を辞す(11月)
1239(58才) 後鳥羽上皇(60才)没
1241(60才) 御所四辻殿に群盗が侵入し、衣装を剥ぎ取られる
1264(83才) 崩御〔8月29日〕
所生の皇子女
1197~1242.. 守成(順徳天皇;在位1210~1221)
1200~1255.. 雅成親王
1204~1246.. 尊快入道親王[寛成親王](天台座主)
(猶子)善統親王(順徳天皇皇子)

宮人:(坊門局).. 生没年不詳
.<別号:西御方>
父:内大臣 藤原(坊門)信清
(姉)鎌倉3代将軍源実朝室 八条禅尼
[夫との血縁関係]:従兄弟(4親等)・・・父信清の姉、殖子の子
1195.. この頃、後鳥羽天皇(16才)に召されるか
1196.. 皇子・長仁を生む
1198.. 後鳥羽天皇退位
1215.. 後鳥羽上皇逆修のため進物を注文する(5月)
1216.. 父・信清没
1221.. 後鳥羽上皇の隠岐遷幸に従い、隠岐に移る(7月),頼仁親王、備前配流
1239.. 後鳥羽上皇(60才)没、京に帰還する
所生の皇子女
1196~1249.. 道助入道親王[長仁親王](仁和寺御室)
1200~1273.. 礼子内親王(嘉陽門院,斎院;在任1204~1212)
1201~1264.. 頼仁親王(児島宮)宮家
 

石清水別当通清室巫女

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)20時34分36秒
  石清水別当通清娘・仲子は、権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として女院号・崇賢門院を宣下された。『尊卑分脈』の広橋家の系図に、権大納言広橋兼綱の娘として「准三宮・叙二・異本従三位・国母・崇賢門院仲子」の記載がある。
玄孫は紀家長子三宅備後守紀家勝ー家弘通清(道清)室巫女ー仲子・良子。

石清水別当石清水検校光清ー──宮清───尚清───通清───仲子・良子。
 

順徳天皇の曾孫

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)20時02分4秒
  智泉尼は、順徳天皇の曾孫は紀氏
八四代順徳天皇の孫・尊雅王の息女・智泉尼
北朝、後円融天皇の生母・崇賢門院仲子。

八幡祠官ノ女ハ皆中臈ニ被召仕也。但俗人ノ猶子ニ成也。後円融院ノ御母儀崇賢門院
  ハ八幡祠官ノ女也。而ニ広橋大納言兼継(綱)卿猶子ニシテ後光厳院ヘ参ラセケル
  ヤ。初メハ三位局トテ中臈ニテ宮仕ハセ給ヒケリ。」

北朝の後円融天皇の御母であらせられる女院・崇賢門院は石清水八幡宮祠官の娘で、広橋大納言兼継(綱)卿の猶子となり、後光厳天皇にお仕えした、とある。『海人藻芥』は、崇賢門院の生前、応永二十七年(一四二〇)に書かれたもの。
『尊卑分脈』の『紀氏系図』や『続群書類従』の『石清水祠官系図』この崇賢門院仲子

』(新人物往来社)の「女院一覧」に、崇賢門院の御名は紀仲子、御父は紀通清、弘和三年(一三八三)四月二十五日院号宣下、応永三十四年(一四二七)五月二十日崩御八十九才とある。
紀通清(号・善法寺)は石清水別当である。通清は『石清水祠官系図』では「道清」「異本通清」とある。

『石清水祠官系図』により、通清(道清)の子女とその生母を調べると、次の通り。

  匡清・母は尭清女。

  昇清・母は三説記載されてあります。
     母行然女[城内類也]。
     異本母尚淳女[法師。不審。]。
     異本母通玄寺開山聖通。智泉。号清水殿。鹿園寺殿(足利義満)外祖母。[通清室。巫女。]
石清水別当通清娘・仲子は、権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として女院号・崇賢門院を宣下された。『尊卑分脈』の広橋家の系図に、権大納言広橋兼綱の娘として「准三宮・叙二・異本従三位・国母・崇賢門院仲子」の記載がある。

善法寺通清の別の娘・良子は、将軍足利義詮の寵を受け足利義満を生んだ『尊卑分脈』
義満にとって崇賢門院は伯(叔)母にあたる
義満は後円融天皇の従兄弟となる。http://homepage2.nifty.com/HSuga/suukenmonninn.html

永徳二年四月十一日を以って御譲位あり。皇子幹仁親王御践祚あり。即ち後小松天皇これなり。
(伊達)政宗の妻は石清水別当善法寺通清の女(むすめ)なり。而して義満の母も亦善法寺通清の女なり。初代政宗は応永二年(一三九五)九月十四日卒、法名を儀山円孝、東光寺と号したとある。足利時代の人です。

八四代
┌─順徳天皇───善統親王───尊雅王───┬─四辻善成・左大臣
│                                          │
│                                          ├─無極志玄・天竜寺二世
│                                          │
│  八三代        八八代                    └─智泉尼聖通・通玄寺開山
└─土御門天皇──後嵯峨天皇─┐                  │
                              │                  │  ┌──昇清・石清水別当
                              │                  ├─┤
                              │                  │  ├──良子★───足利義満
                              │  別当        別当│  │     奥州伊達
    石清水別当宮清──────┴──尚清────通清  ├──女・初代政宗室★
                            後嵯峨院皇胤              │
                                                      └──崇賢門院仲子★
                                                            │北朝五代
                                                            ├─後円融天皇
                                                    北朝四代│
                                                      後光厳天皇
三人の娘が皇統に繋がる?
皇統とは母が皇統である事に由来す。

通親は新帝後鳥羽院の御乳母藤原範子(範兼の娘)と婚姻して名は重子脩明門院。
はじめ範子また親子とも称した。
範子父は従二位藤原範季(贈左大臣正一位)夫通親との間、の子在子が居た。

通親は新帝後鳥羽院の御乳母藤原範子(範兼の娘)範子を娶り、との間の子在子を引き取って養女とした。
養女の在子後鳥羽の皇子を出産(のちの土御門天皇)。
ここには、藤原範兼の孫は在子である。

承明門院在子
            │
            ├──────土御門上皇母は在子
            │
      後鳥羽上皇─────順徳上皇母は在子─九条廃帝(仲恭天皇)
            │
            ├─────六条宮雅成親王
            │
            └冷泉宮頼仁親王母は七条院坊門局
 

順徳天皇の孫

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)18時55分29秒
  八四代順徳天皇の孫・尊雅王の息女・智泉尼聖通・
通玄寺開山とされる人物で、通清との間に石清水別当昇清及び女子三人をなしている。
足利義詮夫人良子の母であった智泉尼で、
暦応年間(1338~42)に京都・三条通東洞院にあった高倉宮以仁親王邸跡に通玄寺
を創建して入寺し、その後境内に曇華庵を建てて隠居したことに始まります。
皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代?には安定した皇位継承?のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。

(石清水祠官系図)
智泉尼聖通の兄弟には、左大臣・四辻善成、天竜寺二世・無極志玄が居る。

皇位継承の伝統は断絶させてはならない。
女系天皇家創始が習いで、女が天皇の室に入っていなければ、適応しない。
天皇の女親が、皇統でなければ、天皇とは適合しないとする。
女帝容認と女系天皇は別次元の話である。
適合しなければ譲らねばならない。

ここでは順徳天皇の母親を見てみよう。
宇多天皇の孫、源雅信。だから頼通の子孫の近衛、九条、鷹司、一条、二条はみんな天皇の子孫。
順徳天皇の母。名は重子。はじめ範子また親子とも称した。父は従二位藤原範季(贈
左大臣正一位)。
母は中納言平教盛の女、従三位教子。後鳥羽天皇の後宮に入り二条君と称したが、建久八年(1197)九月、順徳天皇を生み、同九年十二月従三位に進み、承元元年(1207)六月、准三宮。同時に院号宣下を受け修明門院と号した。
承久三年(1221)七月、後鳥羽上皇の落飾にともない尼となる。法名は法性覚。

修明門院(1182~1264.83歳)は源通親養女で土御門天皇(1195~1231.37歳)母の承明門院(1171~1257.87歳)にとってはライバル的存在だったが、承明門院は後鳥羽院より9歳上であるのに対し修明門院は2歳下ということもあって、寵は修明門院に厚かった。
 承明門院は土御門天皇の遺児邦仁(後嵯峨天皇.1220~1272.53歳)を養育した人。

後鳥羽天皇の母の藤原殖子は、藤原隆家の子孫。
後鳥羽天皇の子順徳天皇の母は平教盛の孫、土御門天皇の母は清盛夫人の姪、平頼盛の孫は後高倉院との間に後堀川天皇を産みました。
また、清盛の孫の孫が後嵯峨天皇に入内し亀山天皇と後深草天皇を産みました。

源通親 みなもとのみちちか 久安五~建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)  同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。
母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。
子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。
嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。
高倉上皇が崩御(二十一歳)。
政治の実権は後白河法皇へ移る。
通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。

通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。
源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
ここで、皇統の整理をしておこう。
源頼朝が生存の折に、息の後に皇統の頼任親王(児島宮)を後に院は決めていたが、果されなかった。

在子も通親養女となり、入内して1195年、為仁親王(土御門天皇)を生んだ。
久我家の祖である通光、土御門家の祖。
藤原範子さんは源通親と懇 (ねんご) ろになり、 源通親の奥様に。
在子お嬢さんは通親の養女と云う事に相成ります。
範子が先夫源通親。

間に儲けた在子(承明門院)を養女として入内させ、産まれた皇子が即位(土御門天皇)して、天皇の外祖父源通親となる。

源平争乱後は、後鳥羽天皇の乳母である高倉範子の夫となり、養女の在子(承明門院)を後鳥羽天皇に入内させ、生まれた皇子(土御門天皇)して、天皇の外祖父源通親となる。
 

紀臣族紀家弘

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)11時50分48秒
  尭清 田中検校│社務大僧正1325寂ー女子通清室(紀家弘)
石清水八幡宮家の通清(紀家弘)ー女児島範長室ー女頼宴室ー高徳
石清水八幡宮家の通清(紀家弘)ー女足利義詮室ー足利三代将軍義満
善法寺通清
仲子さんは藤原兼綱の養女で、実父は善法寺通清。
藤原(日野)兼光の息子。 藤原 (勘解由小路) 兼綱 (1315~1381)

この紀家弘こそ、善法寺通清その人である。
義満と後円融天皇は従兄弟
仲子は権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后

【崇賢門院 すうけんもんいん】 建武三~応永三十四(1339-1427)

従一位贈左大臣広橋兼綱の娘。実父は石清水八幡宮別当善法寺通清という。
北朝・後円融天皇の生母・崇賢門院の御名は紀仲子、御父は石清水別当・紀(善法寺)通清。仲子は権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として弘和三年(一三八三)四月二十五日、女院号・崇賢門院を宣下された。『尊卑分脈』の広橋家の系図に、権大納言広橋兼綱の娘として「准三宮・叙二・異本従三位・国母・崇賢門院仲子」の記載があります。応永三十四年(一四二七)五月二十日崩御、御歳八十九才。

石清水八幡宮祠官の系図(2)ー紀氏
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub26-2.html

石清水八幡宮社務であった善法寺宮清が正嘉元年(1257)私宅を寺に改めたこと
に始まる。

通清====1339尚清子宮清孫宝清曾孫祐清玄孫成清耳孫光清昆孫頼清仍孫兼清雲孫入江弥勒寺


順徳天皇孫母は石清水八幡宮社務善法寺通清の娘紀良子(順徳天皇の孫とも)。
 

大豪族宮氏の一族宮兼信事

 投稿者:歴研会  投稿日:2008年 1月 2日(水)10時11分4秒
  宮 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)は、備後国の大豪族宮氏の一族で、下野守を称し、後に入道して道仙と号した。
藤原 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)備後国の大豪族宮氏の一族
1364年~1365年 - 宮兼信
『太平記』巻三を初見
備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後. 三郎、 祠官)
これで紀臣族と読取れ、兼信は頼宴僧正と拘わっていたとなる、それが系図に見える、
頼宴僧正は宮家の頭領で、このほかはない。

紀氏族石清水八幡宮家の兼信と見て取れる。
頼宴僧正とのつながりは、石清水八幡宮家の男となっていた、児島範長は紀家弘の女を室に迎えていました。
この二人の間に生まれたのが、児島高徳です、高徳はきたりにのって、この時代の天皇の習いは、女元で育てられるのが習いでした。
本来は、(高徳幼名)高丸は亀山天皇女に預けられて育ちました。
そして醐醍醐天皇の跡を継承する事に亀山天皇から遺言されていましたが、約束を守らなかった、醐醍醐天皇によって、破談となりました。

この後、歴史は足利尊氏に移り、天皇も南北朝に別れました。
とざされた高徳父は、頼宴僧正は足利尊氏を備後に匿って、醐醍醐天皇から守り、九州に逃しました。
ここで足利尊氏は、宇佐の八幡宮一族等と組み、力をつけて、上り、醐醍醐天皇を下しました。
この陰には、頼宴僧正の力があったのでした。
この後、足利尊氏の子義詮の側室となる紀良子父は紀家弘でした。
繋がりが出来たのもここからでした。
父兼信と共に足利尊氏・義詮に仕え、備後に明極楚俊を開山として護国寺を建立する。子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持った。

上野介家として史上に現れるのは、満信(上野介、入道信雄)、教信(又次郎・次郎左衛門尉、上野介)、政信(若狭守)、實信(上野介)などである。
 

琳光(備後三郎)祠官

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月27日(木)19時01分46秒
  石清水八幡宮 神主 武内
宿禰後裔 紀臣氏 1 備後氏 兼清-兼信-琳光(備後三郎)祠官 善法寺家
石清水八幡宮 神主 武内宿禰後裔 紀臣氏
       1 備後氏 兼清-兼信-琳光(備後三郎)祠官
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub10-32.html
       48 平山氏 善法寺祐清─平山栄清 少別当 法眼

石清水八幡宮神主・別當・検校

兼輔⑦神主俗別當従4位上妻:藤原元命の娘ー兼信少別當ー琳清備後氏少別當ー

ー琳光備後三郎ー三郎
 

満信(上野介、入道信雄)

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月27日(木)18時46分22秒
  藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする

藤原 兼信(みや かねのぶ、生没年不詳)備後国の大豪族宮氏の一族
1364年~1365年 - 宮兼信
『太平記』巻三を初見
尊氏・義詮方として活躍した宮兼信(下野入道道仙)は、貞治二年(一三六三)九月、尊氏に敵対した足利直冬の軍勢をその城下に破り、翌年には備中国の守護職を拝領
賛文によると、宮氏は藤原摂関家の小野宮実頼の子孫であって、「小野宮」の小野を略して「宮」と称したとある。http://www.d4.dion.ne.jp/~taguti/doc/kaiho/kaiho1.html
宮氏は本来藤原姓であったが、祖父の高盛公が源姓に替えた」とある
『平家物語』に出てくる奴可入道西寂は宮氏の先祖である」


備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後. 三郎、 祠官)


藤原氏信は上野介に任官して室町幕府に仕えた。生年不詳 - 応永6年(1399年))は南北朝時代・室町時代の武将。兼信の子。通称、下野次郎。
父兼信と共に足利尊氏・義詮に仕え、備後に明極楚俊を開山として護国寺を建立する。
室町時代の人物 |
1399年没応永6年(1399年)の応永の乱で幕府軍として丹波国に出陣して討ち死

上野介家

子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持った。
上野介家として史上に現れるのは、満信(上野介、入道信雄)

児島】高徳──高光──正綱──正光──甚九郎満盛ー甚九郎助安
 

佐久間甚九郎

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月27日(木)07時55分4秒
  「佐久間甚九郎」は重要人物だったから「甚」のつくのも重要だろう
左近衛中将藤原助安胤。
甚九郎助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成

宗朝為明子甚九郎満盛
朝明宗朝子甚九郎盛保?総五郎?
朝次朝明子弥平次満盛?
安盛朝次子安通
盛通安盛子与六郎御器所城主

と載せている「織田家」

孫五郎助安民部左近文安頃。
佐久間朝次歿大徳寺高東院葬る。
佐久間朝次ー甚九郎信晴天文十一年歿大徳寺高東院葬る。
佐久間甚九郎大徳寺高東院葬る。

佐久間甚九郎ははじめ、正勝 信栄 の名あり。
ルイスフロイスから、ハビアンと、よばれている。
不干斎に改名す。
 

官職の従三位左近衛中将藤原助安

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月27日(木)07時16分50秒
  『太平記』にみられる。宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。しかし、後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。
尊氏公之時賜案堵之御判兼信・氏信、元弘より永和ニ至り
父子数年関東帝都五畿西国所々合戦軍功抽群
宮下野守氏信 從四位下 始下野次郎
氏信者尊氏公御味方、忠節依御感氏之字頂戴、
猶子之御契約、氏信一代賜源姓、
被補御一門之列賜屋形號、宮屋形是也
康応元年死、八十歳
とある。

越前守満盛下野守満重
小野宮下野守盛重→式部大輔師盛→越前守満盛→刑部大輔満重→新五郎元盛→左衛門佐
教元→下野守政盛→新五郎親忠. これは他の各種文献に登場する宮氏の実名

「宮修理亮藤原満盛」

小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛越前守満盛下野守満重下野守元盛駿河守教元下野守政盛親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

小野宮下野守盛重式部大輔師盛越前守満盛刑部大輔満重新五郎元盛左衛門佐教元下野守政盛新五郎親忠


亀寿山城は南北朝時代において大織冠鎌足胤藤原宮下野守兼信 ・氏信父子が居城としていた。偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。
下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342) (藤原胤宮下野守兼信)

後鳥羽胤児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安

満盛は藤原兼信の猶子となったと見られ、藤原を名乗る。
助安父は宮修理亮藤原満盛、
修理亮 とは修理職の次官で定員は一人。相当官位は従五位下です。
修理職 しゅりしき。和名で「ヲサメツクルツカサ(乎佐女豆久留豆加佐)」と読んで令外官のひとつである。
職掌 宮城・内裏の造営と修理が職務である。出典・官位辞典より
朝廷の官位として「修理亮」(しゅりのすけ)を受けていた。

佐久間孫五郎助安は、
民部丞。 位階は、従五位下。(1446)民部丞の官途吹挙状を得ている。
それから、同民部丞助安以後代々城主となる。
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞

孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のるこの後左近衛中将藤原助安となる。
官職の従三位左近衛中将藤原助安 吹挙されていた。

近衛中将とは、律令官制における職の名前です。いわゆる通名ですね。
従四位下相当の官職ですね。で、前とつくと「さきの~」と呼んで、もじどおり前の近衛中将、ということになります。
前右大臣とか使いますね。藤原助安は左近衛中将ですね。後鳥羽帝胤
 

民部丞助安後胤

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)20時16分18秒
  孫五郎助安民部左近文安頃織田家

文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
小川乾坤院(知多郡東浦町)蔵の「血脈集」文明十一年(1479)条に「誠栄 サクマ平右
衛門 尾州御貴所(御器所)」とみえる。
永禄七年1564年御器所は佐久間氏の領地で八所大明神の練札に佐久間美作守家勝と佐久間信盛の名が見える。

佐久間甚四郎は清須に引退ける故、此城にて兵粮之用意をし、飽くる春より松平蔵人元康公、足助・梅ケ坪・寺部・西尾・挙母、此城の先規之通り、御支配仰せ付けらる。」と書かれています。
『三河海東記』織田方では専ら佐久間甚四郎が攻略の担当をしていたことになります。
『信長公記』の初期に活躍する佐久間大学

佐久間信盛の家系では、甚九郎助安―甚九郎朝次弥平次―甚九郎信晴―甚九郎信盛―甚九郎信栄というように甚九郎を継いでいるとも言うようです。

、「此時、愛知郡山崎は佐久間右衛門尉信盛が領地なれは、定て、山崎の城ハ信盛守るべし、殊に、信盛は織田家の長臣にして人数持ちと聞へたり。此ノ節、彼が弟佐久間左京ハ善照寺の砦の主将に命セられけれハ、信盛か年齢、尤(モットモ)、壮盛なるべし、今川家の来敵大軍にして、主君信長大切の軍、殊更ニ我領地手筋の場なり、この度に於イてハ別して、諸将を抽んでゝ先手を乞ひ望むべき事にして、己か居城に守り居るべき事にあらじ、然るに此合戦の初中後、信盛が行跡、諸伝記にも、古老の語伝にも其名みへず。(中略)終に其ノ名の見へざるはハ不審なり。」
山崎砦(名古屋市南区岩戸町白毫寺の境内)は、佐久間信盛によって築かれたと『尾張徇行記』
 

天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)15時48分11秒
  天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安
文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』
佐久間美作守家勝、同民部丞助安以後代々城主となる。(尾張国愛知郡誌)一則 佐久間美作守居之。(尾張徇行記)

児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー孫五郎助安

この孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のる。
宮氏は南北朝の一時期、備中国の守護職に補任将軍より御料所の知行を受け、勢力を伸ばしていったものと思われる。

『近衛官職と児島宮家の関係 』

この時期から近衛、との関係がはじまった。
孫五郎助安が猶子となり、藤原姓を名のる。左近衛中将藤原助安となる。

近衛中将とは、律令官制における職の名前です。いわゆる通名ですね。
従四位下相当の官職ですね。で、前とつくと「さきの~」と呼んで、もじどおり前の近衛中将、ということになります。
前右大臣とか使いますね。藤原助安は左近衛中将ですね。後鳥羽帝胤.

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。

天平神護元年(765年)2月3日、近衛府の設置とともに、従四位下の官位相当。以後、定着する。当初は1名だった
http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛中将

【近衛中将】(このえのちゅうじょう) 左右各四人。もとは各一人だったが、のち二人になり白河天皇の時代に四人となった。それぞれ略して「左中将」「右中将」あるいはただ「中将」という。従四位相当の役だが、三位でなったものを三位中将、参議でなったものを宰相中将といった。
国司家御客殿後鳥羽帝胤児島高徳

児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安. ・大洲旧記には、「左近衛
中将藤原助安居る 大城なりしや 六町. 程へだてて堀の中家 中屋敷という所あり」と記
されている。 鹿嶋城は、築城者や築城年代については定かでない。

http://www.ikedakai.com/rekishi-kansyoku.html

大内裏のうち、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側を担当。行幸などの際には護衛として随員。また、皇族や高官の警護も担当。
足利義詮
生没年:1330-1367 も任じられている1350 左近衛中将 1356 従三位
側室:紀良子(父:石清水善法寺法印 通清)

この時期、紀家弘女が紀良子(父:石清水善法寺法印 通清)であり、宇佐にいた宇都宮時枝の力も、善法寺なので、挙手となったのであろう。(時枝宇佐職)
(時枝宇佐職)江戸期に至るまで宇佐職は定着している。

甚九郎朝次弥平次ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎は織田家に組みするが、信長によって、退けられた。
甚九郎朝次弥平次は官職がなかったようである。後鳥羽帝胤.
 

後鳥羽後胤の、後継者を天皇に

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)14時35分35秒
  承久の乱後、皇位の継承と院政を担当する上皇の決定権は幕府が握っていました。
執権北条泰時の指示によって後嵯峨天皇が即位、後深草天皇に譲位して院政をとり、後嵯峨上皇の強い意向もあり、後深草天皇の弟・亀山天皇を皇位につけました。
文永5年(1268)、後嵯峨上皇は亀山天皇の皇子・世仁親王を皇太子に指名しました。

さらに後嵯峨上皇は文永9年(1272)に院政の後継者の選定を幕府に委任して崩御、幕府執権北条時宗は院政後継者選定に関与、後嵯峨上皇の中宮・大宮院(後深草・亀山の母)と亀山天皇に決定し、天皇は世仁親王(後宇多天皇)に譲位して院政を開始。
後深草上皇は幕府の調停で後宇多天皇のあとに後深草天皇の息子・煕仁親王をたて、その時に院政を行わせる。
皇統が亀山天皇の流れである大覚寺統、後深草天皇の流れである持明院統のふたつにのふたつにわかれる。
まさに、執権北条の意のままに、していた。
ここにきて、倒幕の、のろしが、あがり、院政の快復の為として、執権北条は打倒された。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。
倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚隠岐島に流罪となる
後醍醐は光厳天皇の皇位を否定し、建武の新政を開始する。
また大覚寺統の嫡流である兄後二条天皇の遺族を皇太子に指名せず本来傍流であったはずの自分の皇子を後継者として指名し、自己の子孫による皇統の独占を企図した。
この事に、立腹したのは、【大覚寺統】(90)亀山天皇で、(88)後嵯峨天皇から、命じられていた、後鳥羽後胤の、後継者として指名し、亀山天皇女に遺言していた。
これに対し後醍醐からはなれていく、と、戦中であり、このため対立していた持明院統のみならず味方であるはずの大覚寺統内部からも敵対者を生むこととなった。

後醍醐は新田義貞に尊氏追討を命じ、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。
尊氏は九州へ落ち延びる、この時手を貸したのが、備後?翌年に九州で体制を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。
楠木正成は後醍醐に尊氏との和睦を進言するが後醍醐はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃げ帰る。
この裏では、尊氏は九州へ落ち延びる、この時手を貸したのが?
公家の、後の紀氏集団?
これは大掛かりな、もので宇佐八幡にも働きかけていたのである。
この後尊氏は九州から上る時、八幡の御旗をかざしたのに、楠木正成義貞後醍醐は動揺した。
之以降形勢は逆転した。




左近衛中将藤原助安
猶子となり、平姓から藤原姓に改めた。
 

宮修理亮藤原満盛とは

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)12時22分45秒
  足利義満から満の号を受けている
修理亮と称した。
朝次朝明子弥平次満盛? 安盛朝次子安通.織田家
修理亮 とは修理職の次官で定員は一人。相当官位は従五位下です。
朝廷の官位として「修理亮」(しゅりのすけ)を受けていた
修理亮も守護職である守も実質は伴わず名目だけのものですが、朝廷は官位を授ける事によってかなりの上納金を得ており、朝廷やそれに繋がる貴族にとって官位の斡旋は重要な収入源とされておりました。
---「修理職 しゅりしき。和名で「ヲサメツクルツカサ(乎佐女豆久留豆加佐)」と読んで令外官のひとつである。
職掌 宮城・内裏の造営と修理が職務である。出典・官位辞典より

弘仁9年(818年)嵯峨天皇の代に令制で造営・建築を担当する木工寮の事務が繁雑であったため、いったん併合した造宮職の業務を独立させ、令外官として新設された。
修理職(しゅりしき)は平安時代に設置された令外官。和名は「をさめ(おさめ)つくるつかさ」。

主に内裏の修理造営を掌る。 弘仁9年(818年)嵯峨天皇の代に令制で造営・建築を担当する木工寮の事務が繁雑であったため、いったん併合した造宮職の業務を独立させ、令外官として新設された。天長3年(826年)に木工寮と合併して廃止。寛平2年(890年)に復活設置。

大夫(従四位下相当)…1人
亮(従五位下相当)…1人

(例)江戸時期にも天皇より官位を下され

進藤 長之 (しんどう ながゆき、生年不詳 - 享保 12年(1727年 ))は近衛家諸大夫をつとめた青侍 (皇族や公家に仕える武士)。官位は正四位下刑部大輔。一族に赤穂藩士の進藤源四郎俊式 がおり、山科在留中に大石内蔵助 とも関係を持ったという。
青侍の進藤主計頭長昌(輪王寺宮守澄親王の家臣)の次男として誕生。父長昌の母は大石内蔵助良勝(良雄の曽祖父)の娘。長昌の跡は長男の泰通が継いだため、長之は親戚で近衛家 家臣の進藤筑後守長房の養子に入った。その後、近衛基煕 ・家煕 ・家久 の三代にわたって近衛家に仕えた。摂関近衛家の諸大夫であるため天皇よりしばしば官位を下され、延宝 八年(1680年 )には正六位下修理大進に叙任し、修理亮任官をへて、元禄 14年(1701年 )には正五位下刑部大輔に補された。

宮修理亮藤原満盛は造宮職の業務を独立させ、令外官として新設された。
亮(従五位下相当)…1人
主に内裏の修理造営を掌る。

『修理職』より : 修理職(しゅりしき)は内裏の修理造営を掌る職 (律令制) 職である。
修理とは『修理職』より : 修理職(しゅりしき)は内裏の修理造営を掌る職 (律令制) 職
である。
修理職 [すりしき・しゅりしき] 内裏の修理造営をつかさどる役所。

修理職 [すりしき・しゅりしき]

 内裏の修理造営をつかさどる役所。
http://www.komachi-web.com/salon/the_tale_of_genji/glossary/yougo03.html

修理の大夫, しゅりのたいふ, 官職, 内裏の修理・造営を司る役所の長官

宮修理亮藤原満盛の子息も、官職,を受けていたようで、
父は越前守満盛甚九郎満盛で、岡山に生まれた。 天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安となった。
そして引き継がれた甚九郎朝次弥平次と名乗る。
 

大織冠鎌足胤宮下野守兼信

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)09時33分30秒
  宮下野権守盛重
宮下野守兼信

大織冠鎌足二十三代
宮左馬頭正信(太郎左衛門)
下野判官 從五位下
此代迄公家ニ而侯処、応長元年賜備後國守護職、
下向彼國號宮殿、弓馬達人也
元弘弐年死、六拾六歳
宮下野守兼信 従四位下 後入道
從此代武家改之也、亀地山之城主也、
尊氏公之時賜案堵之御判兼信・氏信、元弘より永和ニ至り
父子数年関東帝都五畿西国所々合戦軍功抽群
宮下野守氏信 從四位下 始下野次郎
氏信者尊氏公御味方、忠節依御感氏之字頂戴、
猶子之御契約、氏信一代賜源姓、
被補御一門之列賜屋形號、宮屋形是也
康応元年死、八十歳

亀寿山城を本拠地として、備後南部に勢力をもっていた国人
領主の「宮氏」や、相方城より南を本拠地としていた宮氏一族の「有地氏」などにより、16世紀前半には中世山城とし
て整備されていた。
天文21年(1552)に宮氏が滅んだ
http://www.geocities.jp/hadoukenkou/page012.html

備後宮氏の本城として有名な亀寿山城跡
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/010/index.html
貞治元(一三六二)年から翌年にかけて行われた「備後宮内合戦」
貞治二年春、道仙の嫡子下野次郎氏信に敗れた直冬は備後を没落し行方知れずと成った。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/010/index.html
幕府もこの宮氏の働きを高く評価し、道仙を備中国の守護職に命じた
子孫は「宮上野介家」として備後に大きな勢力を持った
備後の宮下野守兼信、左右
に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入ける
こそ、いかめしかりし行迹なれ。
太平記(国民文庫) 太平記巻第二十二 畑六郎左衛門事 S2201 去程

http://www.j-texts.com/taihei/tk022.html

越前守満盛下野守満重
小野宮下野守盛重→式部大輔師盛→越前守満盛→刑部大輔満重→新五郎元盛→左衛門佐
教元→下野守政盛→新五郎親忠. これは他の各種文献に登場する宮氏の実名

宮修理亮藤原満盛

小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛越前守満盛下野守満重下野守元盛駿河守教元下野守政盛親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。

小野宮下野守盛重式部大輔師盛越前守満盛刑部大輔満重新五郎元盛左衛門佐教元下野守政盛新五郎親忠


越前福井
越前・加賀の利仁流藤原氏などの諸氏の系譜となっている。
佐久間信盛失脚後水野忠政4男水野忠守が緒川水野忠政9男水野忠重は刈谷の旧領に復した。忠重は織田信雄に仕えた後、刈谷城主として豊臣秀吉の家臣となる。1600年、関ヶ原の合戦の直前に石田三成方に殺害されるが、その子水野勝成と水野忠清は直臣として家康に仕え、勝成が備後福山藩・下総結城藩水野家の祖、忠清は駿河沼津藩水野家および上総鶴牧藩水野家の祖となる。また水野忠政4男水野忠守は出羽山形藩水野家の祖であり、さらに水野忠政8男水野忠分の子水野分長と水野重央は、それぞれ安中藩水野家と紀伊新宮藩水野家の祖である。

父は越前守満盛甚九郎満盛で、岡山に生まれた。 天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安となった。

児島高徳五代左近衛中将藤原助安系譜 児島系譜帳 児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー甚九郎文八ー甚九郎某

満盛の満は源氏の満からきている。尊氏によるところの号からきているのだろう。
子甚九郎助安は、天皇の拝名から藤原と号している。
 

宮氏は備後国

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)07時50分19秒
  杉原氏と並ぶ存在であった。そして、南北朝期から戦国期にかけて活動し、室町幕府奉公衆としてもその名を史上に刻んでいる。しかし、戦国末期に宮氏の主流にあたる家が滅んだため、宮氏に関するまとまった
備後国一宮吉備津神社の神紋も「木瓜」であり、宮氏は吉備津神社社家の一族ではないかとする説もある。
後醍醐天皇に味方して備後一宮で挙兵した桜山四郎入道は宮氏の一族で備後一宮吉備津神社の社家と述べており、宮氏が吉備津神社社家の一族とする説にはうなづけるところがある。
宮氏一族の姿が『太平記』にみられる。宮氏はもともと後醍醐天皇方として、元弘三年(1333)頃、備後において挙兵したものである。しかし、後醍醐天皇に尊氏が叛した建武二年(1335)の末には、尊氏方の諸国の勢のなかにその名がみえ、武家方に属したことが知られる。
下野判官正信の子宮下野守兼信は、康永元年(1342)の伊予国の土肥昌義攻めに参加した。尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱(1351)」には尊氏方に属し、観応二年(1351)、高師泰の石見攻めの軍勢に加わって奮闘している。

南朝方の京都進攻によって足利義詮は近江に逃れたが、その後の義詮の京都奪回の合戦に「宮入道」が備前の松田氏らとともに参加して功をたてている。
 兼信が活躍したころ宮下野権守盛重がおり、貞和二年(1346)、幕府の命を受けて備後国内の所領押妨人を排除する使節として活躍しており、兼信と同じく尊氏に味方して活躍していた。盛重を兼信の長子とする説もある

一方、兼信と子の氏信は一貫して尊氏方に味方し、正平十七年(1356)、足利直冬と富田直貞の連合軍と戦ってこれを撃退している。

(1362)、直冬の大軍が宮氏の居城亀寿山城を包囲し、味方になるように誘ったが下野入道(兼信)と子の下野二郎氏信はこれを撃退している。このような宮下野入道の忠勤に対して幕府は、貞治三年(1364)、備中国守護職に任じて報いている。このとき、源氏の姓を与えられ屋形号を称することが許されたようで、のちに宮氏が源氏を称するもとになった。
 守護職は翌年には解任され、以後、宮氏が守護職に補任されることはなかったが、その後、杉原氏、三吉氏らとともに室町将軍近習・奉公衆として京都でも活動するようになる。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miya_k.html

一つは左衛門大夫を名乗る宮氏、二つは上野介を名乗る宮氏、三つめが、官途下野守をもつ下野守家である。
 上野介を名乗る宮氏は満信・教信など「信」の字を名乗りとしており、氏信の子孫とみられる。また、満信・教信は将軍からの偏諱を受け、将軍に近侍していたことが知られ、氏信系の嫡流であったようだ。

『西備名区』に記された亀寿山城主の系譜は、小野宮下野守盛重を初代として、式部大輔師盛→越前守満盛→下野守満重→下野守元盛→駿河守教元→下野守政盛→親忠が記され、将軍からの偏諱を受けたと思われる名乗りがみえている。
亀寿山城は南北朝時代において兼信・氏信父子が居城としていたことが知られ、いつ、盛重系が亀寿山城主となったのかは不明である。いずれにしろ、宮氏の場合、氏信系と盛重系の二系が双璧であったようだ。
 宮氏一族の所領は備後国内に散在し、氏信系宮氏は備後南部に勢力を伸ばし、盛重系宮氏は備後北部に支配を伸ばしていった。

盛重系の消息は永正十四年(1513)に活動が知られる新五郎親忠を最後に不明である。

盛重系は、文書、記録から復元されたものを転載しました。
 

(逸見氏)清光

 投稿者:歴研会  投稿日:2007年12月26日(水)07時36分41秒
  武田刑部少輔信廉(たけだぎょうぶしょうゆのぶかど) ... (森羅三郎)義清(逸見氏)清光(逸見氏)から信義(武田氏)となり、その三男、三郎兼信が板垣郷を支配する様に成って氏性を起こしたとされます。

源兼信(みなもとのかねのぶ:板垣兼信(いたがきかねのぶ)、生没年不詳)は平安時代
の武将。板垣三郎と称す。
板垣兼信とは? 源兼信(みなもとのかねのぶ:板垣兼信(いたがきかねのぶ)、生没年不詳)は平安時代の武将。板垣三郎と称す。
末裔 系統甲斐源氏 称号板垣三郎 位階・官職無位無
板垣兼信。子は甘利氏の祖となる一条行忠。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し

一条忠頼
平安時代の甲斐国の武士。父は甲斐源氏の武田信義で、忠頼は嫡男である。弟に逸見有義、石和信光、板垣兼信。子は甘利氏の祖となる一条行忠。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。
源頼朝の挙兵に協力し、1180年(治承4年)父の武田信義は以仁王の令旨を奉じて挙兵。

源清光(みなもとのきよみつ、天永元年6月9日(1110年6月27日) - 仁安3年7月8日(1168年8月12日))は、平安時代の武将で、河内源氏の一族。父は源義清。祖父は源義光。黒源太・逸見冠者・甲斐冠者と称し、逸見清光とも呼ばれる。逸見光長・加賀美遠光・武田信義・安田義定・浅利義成らの父。
 

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